3 雪の夜に気をつけろ
赤沼重五郎は、殺人予告状を受け取ってからというもの、食事が喉を通らなくなったようであった。
この殺人予告の存在を知っていたのは、犯人以外には重五郎と稲山執事の二人だけであったので、重五郎の不調は、赤沼家の人々に不可解に映っていたことだろう。
そんな奇妙な食事風景が続いた、ある晩の食堂でのこと。
この時、食堂には赤沼家の家族と稲山執事がいた。十人は座れるだろうと思える長いテーブルの上には、サーロインステーキやワインといった豪華な料理が並んでいる。
「重五郎さん、どうなさったんですか? もっと召し上がった方がいいと思いますけど」
重五郎の妻、早苗夫人が、食欲のない重五郎を見かねて、馬鹿丁寧な口調でゆっくり訊ねてきた。
早苗夫人は五十を過ぎている年齢であるが、さすがは高貴な身の上とあって、絹のように上品な雰囲気と、赤ワインのように妖艶な美しさに満ちている。
重五郎は少し具合が悪そうに、
「いや、ただの風邪だよ。お前が気にすることはない」
と不自然な笑顔を浮かべてみせた。
稲山執事は、この様子をみて、重五郎の体調を心配したが、奥様の手前、あの殺人予告状のことを口に出すわけにもいかないし、この場で、そんな直接的なことにふれるのもなんだか野暮な気がしたので、ずっと押し黙っていた。
すると、早苗夫人は窓の外の曇り空をみて、
「あら今夜は雪が降りそうね」
「………」
早苗夫人はなにかに気づいたらしく、
「ごめんなさい、変なことを言って」
と謝った。
「気にするな」
そう重五郎は言ったが、それでもまだ落ち着かない様子であった。
そして、今も鉄板の上で肉の焼ける音を立てている、美味そうなサーロインステーキを三分の二も残したまま、席から立ち上がった。
「部屋で休む。今日はもう何も食わん」
重五郎はそう言ったので、早苗夫人はえっと小さく声を上げた。
食堂を出るときに重五郎は、入り口の隣に立っている稲山執事にそっと小声で、
「わたしは鍵をかけて部屋で寝るが、何かあったら内線を使うから、その時は急いで来てくれ」
と耳打ちした。
「わかりました。旦那様」
重五郎は、重い足取りで廊下の先に消えていった。
*
稲山執事は、今のシーンがどこか引っかかる気がした。けれども、どこが引っかかるのか、よく覚えていなかった。
そんなことよりも、と稲山は少し首をふった。怪人が、あの殺人予告状通りに事件を起こそうとしているのなら、今日などはまさに絶好の夜に違いない。
「あら雪だわ」
そんな声が響いた。かよわく透き通るような声だった。その声を発したのは、次女の麗華だった。
稲山はどきりとして、窓の外を眺めた。
灰色の暗闇の中で、白銀の粉雪が風に吹かれて舞い踊っていた。
稲山の頭をあの一文がかすめた。
「雪の夜に気をつけろ」
殺人予告状の最後に書かれていた言葉である。
(まさか……)
稲山は、不安に襲われてひとり、食堂を離れると、重五郎の寝ている部屋に急ぎ足で向かった。すでに重五郎は殺されているのではないか、と彼の脳裏を、悪夢のような妄想が覆い尽くしていた。
*
ところが、この日は、何故か誰も死ななかった。