2 Mの怪人からの殺人予告状
ここは赤沼邸の当主、赤沼重五郎の部屋……。
赤沼家の当主、赤沼重五郎は震える手でそのA4サイズの便箋を強く握りしめていた。
その便箋には、このように記されていたのである。
*
赤沼家の人々よ
琴音は自殺したのではない
お前たちに殺されたのである
間もなく一年という月日が過ぎようとしている
琴音を殺した赤沼家の人々は、わたしの手によって惨殺されることになるだろう
雪の夜に気をつけろ
Mの怪人
*
重五郎はごくりと唾を飲み込むと、
「馬鹿馬鹿しい。こんなものは悪戯に決まっておる。以前にもこんなものが届いていたことがあったろう。まったく下らんな……」
と吐き捨てるように言った。
「そうですね」
稲山執事はそう答えたが、彼の目には、その発言とは裏腹に、手を震わせ冷や汗をかいて、露骨に緊張している様子の重五郎の姿がまざまざと映っていた。
それが、稲山には奇妙なものに思えて仕方がなかった。
なぜならば、赤沼家にこのような脅迫状が届くのは、重五郎の言う通り、今までに何度もあったことだ。そしてそうした時には、いつも決まって落ち着いていて、まともに取り合おうとしない冷静な態度の重五郎がいた。
それが今回ばかりは、重五郎は言葉こそ平静を装っているものの露骨に取り乱しているのだ。一体、何が彼をそんなに焦らせているのだろうか。
……それが、稲山にはまったくわからなかった。
「警察に通報しますか?」
と稲山は重五郎の気持ちを察して尋ねる。
「いや、駄目だ。警察に通報するつもりはない。それはまずい。こんなことでマスコミに騒がれたくはない。わたしは信用できる探偵に相談することにする。お前はこんな手紙がまた届くかも知れんから、くれぐれも気をつけていてくれ」
重五郎はそんなことを、くぐもった小声の早口でつぶやくように言った。
「わかりました」
「それとだな……」
重五郎は、稲山に顔を寄せて、緊張した面持ちでぐっと彼を睨みつけた。その睨みつけている顔と言ったら、非常に殺気立っていて、なんとも形容しがたいもの凄さに満ちていた。
ただ稲山には、それは単純な怒りといった感情ではなく、恐怖に怯えているが故に、周囲に対してやたらに攻撃的になっている子鹿のように思われた。
稲山は、何十年も赤沼家の執事をしてきて、このように緊張した重五郎の姿をほとんど見たことがない。
「……このことは、絶対に他言するな」
「わかりました」
勿体ぶった挙句にただ念を押されて、何をわかりきったことを、と稲山は拍子抜けした。
「頼んだぞ」
重五郎はそう小さく呟くと、便箋を握りしめたまま、重い足取りで、部屋の中央に歩いてゆきアームチェアにどっかと座った。
こうして稲山は、重五郎の部屋から出た。赤沼邸の荘厳な廊下がずっと続いている。これは、まるでヨーロッパの古い教会のようである。これはいかにも美術品好きの重五郎の邸宅らしい廊下なのだった。
廊下を静かに歩きながら、稲山は先程のことを考えている。
稲山がよくわからなかったのは、あの脅迫状の内容のどこに、重五郎をあそこまで怯えさせる要素が隠されているのか、ということであった。
つまり、今までに届いた脅迫状とどの点が違っているのかということである。
執事のみた限りでは、思い当たる節はどこにもなかった。
*
それからというもの、稲山執事は、一体なにが重五郎をあそこまで怯えさせたのか、毎晩寝る前に、布団の中で考えるようになった。そしてその度に、うろ覚えながら、あのA4の用紙の文面を思い出そうと試みるのだった。
なにしろ重五郎は、あの文面をみて、あきらかに取り乱していたようであったから……。
しかも重五郎はこの手紙の存在を頑なに隠そうとしているかのようであった。まるであの便箋の文章に、何か重五郎にとって都合の悪い事実が記されていたかのように。
そう、たとえば一年前の琴音の自殺が本当に殺人であって、その証拠を犯人が今も握っていることを暗示している一文が、あの中に潜んでいたとでもいうかのように。しかし、もしそうだというのなら、どの一文がその事実を暗示していたというのだろうか。
稲山は、まったく見当がつかないまま、いつの間にか、深い眠りに落ちたのであった。