17 稲山執事のアリバイ
根来は、ミステリーや推理小説の類を真剣に読んだことがなかったので、アトリエから犯人が出てきた足跡がないというこの状況を、どう理解してよいものか分からずに困惑していた。
それを察したのか、ミステリー通でもある粉河刑事が、淡々と解説を始めた。
「根来さん。この状況はミステリーで言うならば、足跡のない殺人、または雪の密室と言われるものですよ。つまり通常の密室殺人が、内側から鍵がかかって密閉されている室内で殺人が行われるのに対し、雪の密室とは、雪の上に犯人の足跡が残されていないことによって、密室状況というものが構成されているものを言うのです……」
「そうなのかよ。でもなぁ、そりゃああくまでも推理小説の中の話だろ? これは現実の事件だぞ。そんなこと、現実に起こるもんかよ」
「でも、根来さん……」
粉河はじっと根来刑事を見据えた。
「こうして現実に起きてるじゃないですか……」
そう言われて、根来は途端に具合が悪くなって、つまらなそうに黙りこくった。
「まあ、いい。それは後でじっくり検証するとしよう。 それで、その後は何があったんですかっ!」
根来はさも腹立たしげに、稲山を睨みつつ、幾分貫禄がなくなったのを誤魔化すように怒鳴った。
「わたくしがアトリエの電気をつけますと……」
「電気をつけた? 元々、アトリエの電灯は消えていたのですか」
「ええ、真っ暗で中が見えませんでしたので、それで電灯をつけたんです」
「ふむ。そしたら……?」
「旦那様の遺体が、それはもう、ひどい有様で。わたしは取り乱す麗華お嬢様を抑えながら、救急と警察に連絡をしたのです」
「その後、あなたは現場を離れたのですな」
「ええ、通報するためにです。すぐに警察と救急隊が到着しましたが、旦那様の死亡が確認されて、その後はアトリエは現場として保存されることになりました」
「なるほどねぇ。そのあたりのことは、こちらが受けた所轄の刑事の報告と完全に一致しています。あとは、ですね……」
根来は少し言いづらそうに、それでありながら見くびられないように、刑事らしい高圧的な口調で言った。
「稲山さん、あなたは今日の午後八時頃、どこで何をされていましたか?」
「アリバイですか」
稲山は重々しい口調で呟いた。
「そうとも言います。事態を考えれば、あなたのアリバイを聞くのはやむを得ないでしょう」
「疑われるのは嫌なものですが……隠すようなことは何もありません。その時間、わたしは年越しパーティーの準備や片付けで、絶えず、食堂や台所、その他、色々な場所を行き来していました」
「絶えず移動していたのですか。それでは……」
「アリバイはない、と仰るのですか」
稲山は驚愕したような表情で言った。
「それはまだなんとも言えませんな。他の方の証言も参考にして、解答は出しますよ。それと、もうひとつお聞きしたいのですが、重五郎さんを、恨んでいる人物に心当たりはありますか? つまり村上隼人以外に……」
「わたしは警察の方が知っている以上のことは知りませんし、旦那様の事業に関しては一切関与しなかったものですから……」
「そうですか、ご存知ないと……」
稲山に対して、事情聴取すべきことはとりあえずこれぐらいだろうか。根来は、既に疲れがどっと溜まったらしく、深いため息をついた。




