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10 雪の夜の殺人

 稲山執事は、アトリエに急いで向かっている途中の廊下で、赤沼麗華とばったり出くわした。

 麗華は、稲山の焦った顔をみて、ひどく驚いた。一体、何が起こっているというのだろうか。気になった麗華は稲山に訊ねた。


「どうしたの、稲山さん? 今、すごい悲鳴が聞こえたけど……」

「お嬢様、話は後ですッ! それよりも旦那様の安否が心配だ」

「えっ! それはどういうこと? お父様に何かあったの?」

 事態を把握できず、ただ目を丸くして立ち尽くす麗華を、稲山は焦った様子で振り切って、アトリエに向かってひた走った。

 その様子をただ事ではないと感じた麗華は、走って追いかけた。


             *


 稲山と麗華は、裏口から出て、アトリエへと向かおうとした。裏口の扉から二人が飛び出した瞬間……。

「ああッ! 足跡がアトリエへとッ!」

 稲山が低い呻き声のように呟いた。麗華は、その言葉に驚いて、稲山が見つめている方向を見た。


 なるほど、雪の真っ白な絨毯の上に、大きな足跡が一人分、裏口からアトリエへの方へと続いていた。裏口の壁に取り付けられた灯りに照らされて、その様子が鮮明に見えていた。

 ……しかしこの時、麗華にはそれが一体何を意味しているのかが分からなかった。


 稲山の頭脳は、今までにないようなペースで回転していた。

 重五郎は、この雪の上に足跡ひとつない時分に、あのアトリエの中にこもっていた。その重五郎が、アトリエから出てきた足跡はない。ということは、重五郎はまだアトリエの中にいるはずである。

 そして今、あの時、存在しなかった足跡が一人分、本館からアトリエへと続いているということは、怪人はまさに今しがた、この雪を踏みしめて、アトリエへと向かったという証拠ではないか。

 稲山は、玄関から出て行ったはずの怪人が、どうやって、自分より早くアトリエにたどり着いたのかが判然としなかったが、それよりも重五郎の生存を心配して焦る気持ちに駆られて、もはや何も考えずにアトリエへと走って行った。


 しかし、アトリエから出てきた足跡がひとつもないということは、怪人は現在でもアトリエ内にいるということではないか。

 稲山は残念ながら、怪人に対抗できるような武器をひとつも持っていない。どうすれば良いのか。稲山はアトリエの扉の前にたどり着くと、またしても躊躇してしまった。

 しかし、そうこうしている内に、重五郎が怪人に殺されてしまうかもしれない。清く正しい執事ならば、命をかけてもご主人様を守るべきではないか。

 稲山は、そんないつぞやの初心を思い出して、また込み上げる心配にかられて、もはや居ても立ってもいられなくなって、恐怖心を振り切り、アトリエの扉を開いた。そして、恐る恐るアトリエの中を覗きこんだ。


「旦那様、いらっしゃいますか……?」

 重五郎はいるはずなのに反応は無かった。室内は暗くて、まったくと言って良いほど見えない。重五郎が仮眠を取る時は電気を消すので、まだ最悪の事態が起こったと判断することはできない。

 稲山は、勇気を振り絞って、そっと中に手を差し込んで、スイッチを押した。


 パッと明るくなったアトリエの中央には、ある物体が転がっていた。

「旦那様ぁッ!」

 稲山は、それを見て、絶望的な思いにかられて思わず叫んだ。全身の鳥肌が立つように血の気が引いていった。


 そこに転がっていたのは、真っ赤な鮮血に染まって、ピクリとも動かなくなっている重五郎の姿であった。

 その顔は苦悶に歪み、その目は魚の目のように見開かれて、すでに生気がないように思われた。その喉笛は掻き切られているらしく、赤黒い血肉にまみれていた。また胸部も切り裂かれているらしく、血に染まっていた。実に惨たらしく殺された死体なのであった。


「旦那様ぁッ!」

 思わず、稲山は重五郎の死体に駆け寄った。しかし、重五郎は、すでに事切れているらしく、体はすっかり冷たくなっていた。

 これはまずい。お嬢様にこんなところを見せてはいけない。自分の父親のこんな姿を見せてはいけない。

「お嬢様、中を見ないでくださいッ!」


 ところが、稲山が振り返ると、麗華はアトリエの入り口に茫然として立ち尽くしていた。その目は、凍りついた眼差しで重五郎の死体を見つめていた。

「お父様ぁッ!」

 麗華は、震えた声で叫び、アトリエの中に飛び込んできた。稲山は邪魔だったらしく、麗華に激しく突き飛ばされた。


 麗華は、混乱しているらしく、

「嘘でしょ、お父様ぁ! 起きてッ!」

 と叫びながら、重五郎の体を無我夢中で揺すっている。そうしている内に、麗華のワンピースも血でどんどん赤黒く染まっていった。


「お嬢様! やめてくだされ! まずは救急車です! 救急車を呼びましょう!」

「急いでッ! 稲山ッ! 早くッ!」

「揺するのをやめなされッ!」

 稲山は、麗華を必死に抑えながら、片手でどうにか携帯電話を取り出すと、震える親指で119番を押した。


「すぐに救急車を呼びますから」

 稲山は、電話の単調な呼び出し音を聞きながら、麗華を口でなだめた。


 その時、稲山は突如としてある重大な疑問が頭に浮かんで、アトリエの室内を急いで見まわした。アトリエには誰もいなかった。

 ところが、アトリエには、本来あるべき人影さえなかったのである。アトリエには人間が隠れられる場所が無かった。

 それなのに、殺人者たる怪人の姿がどこにも見当たらなかったのである。


 一体、怪人はどこに消えてしまったというのだろう……? 溶けてしまったとでも言うのだろうか……? あるいは、 怪人は蜃気楼のように消え失せてしまったとでも言うのだろうか……?

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