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さかい

作者: 夢の中



 夏の夜。開け放たれた窓から入ってくる風は、不思議と緑の香りを含んでいた。どこか甘くて、そして爽やかな香り。風は生暖かいが、不快ではない。むしろ生き生きとした生命の息吹が爽快である。暗い中にもしっかりと自然が生きていることを感じられる。そんな風の吹く夏の夜だった。

 私は、誘われるまま歩き出していた。両手に持っていた竹垣の残骸は部屋に残して、鍵もかけずに外へと出る。黄土色を含んだ不思議な夜の闇。気づけば、開けた農道まで出ていた。前方からゆらゆらとやって来るのは、蛇だ。塞の神として、私に忠告しているのだろうか。すれ違う時、蛇はじっとこちらを見ていた。軽く会釈をすると、好きにすればと言うようにするする滑って行ってしまった。古今、様々な作品に動物の話はあるが、こんなにもすんなりとその情景を受け入れられたのは初めてだった。これは夢なのかもしれないが、別に覚めても覚めなくてもどっちでも良かった。

 このまま歩き続けてみよう。そのまま道なりに坂を下っていくと、諏訪社がみえてきた。見慣れた景色だ。しかし、夜の中にあると、神聖さが増しているようだ。

 長野にほど近いこの辺りでは、お諏訪様を祀る神社が少なくない。同時に経津主神や武甕槌を祀る社も多いので、建御名方贔屓とはいえないのかもしれないが。

 経津主を思うと、同時に彼のことも頭に浮かぶ。彼はあまりに美しい人であった。私も整った顔をしているといわれるが、彼の前では誰もが霞んでしまう。私をみて綺麗だと褒める人は、彼を見れば言葉を失うのだ

 私一人の時に、声をかけてくる人。私が彼と話している時、視線を送るだけで話しかけてくる人など全くいない。彼は美しく、そして近寄り難い。

 


 彼は、言った。

「古事記で、武甕槌と一緒に国譲りを成し遂げるのって誰だと思う?」

神社や神話に疎い私でも、鹿島神宮とくれば香取神宮だと知っている。確か、御祭神は…

「経津主?」

半年前はこんなこと知りもしなかったが、彼と知り合い、教えてもらった神話の知識だ。

「違うよ。天鳥船神だよ。」

彼は、私が間違えるのを知っていたようにすぐに答えた。

「古事記に経津主は出てこないんだ。」

そして、彼は鹿島神宮に韴霊剣ふつのみたまという剣が収められていると話していた。

「天鳥船は、神が乗る船を神格化した人物。そしてフツは剣を表す。つまり剣を神格化した神なんだ。」

彼は古事記や日本書紀に詳しく、神社巡りが趣味らしい。

「へぇー。」

「でも、不思議だと思わない?」

これは、今いる場所と同じ諏訪社で日除けをしながらした話だ。初夏の日差しは、梛の葉の隙間から優しく漏れて、彼の顔を照らした。

「何が?」

お互いに顔をみずに、視線を落として休んでいる。

「だって、武甕槌と一緒に建御名方を討った人物はいたわけでしょう?」

私は、彼の言いたい意図が掴めずに首を傾げた。

「それなのに、勝手に船やら剣やらにされちゃって。しかも語る本によっては出てこないなんて。」

人の存在を蔑ろにしている!と彼は怒った。なんだ、と私は笑った。

「神話なんてそんなものでしょう。」

彼を見ると、少し悲しそうに笑う。

「そうかもね。だけどさ、本当に存在していたはずなんだ。」

彼は組んだ指をモゾモゾと動かしながら、視線を逸らした。

「当時の人の記憶にはあるからいいでしょう。」

慰めるように言う。

「そう。でも、僕らの中では存在しないなんて寂しいじゃないか。きっと何万人ものひとが、誰の記憶の中にも残らず消えていってるんだよ。」

「人なんてそんなもの。今まで生きてきた人、これから生きていく人、全員の中に有ることができる人なんていないじゃないか。」

出来るだけ快活に返す。

「わかっているけど、寂しいよ。」

彼が欲しいのは慰めではないらしい。お互いに黙ってしまい、それから照る太陽を二人で眺めた。



 夏であることを忘れるほど、涼しくて、かといって寒いわけでもない。気温がなくなってしまったかのような夜だ。ふと、顔を上げると、山の向こうには朝がやってきているのがわかった。あたりに満ちていた黒が薄くなり始めている。そんなに歩いた気はしなかったが、本当に不思議な夜だ。 

 朝、夜と一口に言うが、その実、境は曖昧だと思う。じんわりと朝が染みてきて、夜を赤く、黄色く、そして青く染めていく。逆もそうだ。気づけば、朝の真っ只中にいるのだ。

 そんな曖昧な世界を、夜の支配者は、どうに消えていくのだろう。例えば月詠命。夜を任されたミステリアスな神様。天照る時間は隠れている月詠は、夜には世界に満ちているのだろうか。夜の世界の支配者は夜の世界の住人でしか知り得ないのだろう。光の中を生きている私には、月詠のことを崇める術がない。

 彼は、今でも神を祀っているのだろうか。禊で生まれた三貴子は、太陽と月と海とを任された。こことは重ならない、しかしたしかにどこかで存在している彼は、誰が統べる国で生きているのだろうか。

 芭蕉の葉が大きく揺れて、道端に並ぶ六地蔵の一体を叩く。罰当たりだが、植物は檀陀地蔵の慈悲に縋る必要はない。そして私も。輪廻の考え方は好きだが、私はそれ以上に黄泉の国や常世の国と言った異界を信じている。生まれ変わりたくなどないから、自分のままで続いて欲しい。そして彼にも彼のままでいて欲しい。



 彼は事代主のように青柴垣の中へ隠れてしまった。私が、もがりを編んでその中へ置いた。しかし、あの世とこの世とは曖昧でよく交わるから、すぐに生き会える。千引きの岩を退かさずとも、自然とあちら側はやってくる。黄昏時に、殯を破って中を覗くと彼は普段の通りにそこにいた。



 海岸へと着くと、砂浜に座る。夜明け間近の海は思っていた以上に騒々しい。波がざざざと引いて、そのたびに塩辛い微風が頬を撫でていく。太陽が登ればもっと騒がしい日がやってくるのだろう。

 ふと見渡すと、岩場の地蔵が波を受けて濡れているのがみえた。波も地蔵に厳しい。彼もこんな…

「垂見くん。」

ぼんやりしていると突然、声をかけられた。

「猿目さん。」

同じ学年の女の子だ。いつも、彼に視線を送っていた一人。

「こんな時間にどうしたの?」

猿目さんは私の隣に座る。

「散歩をしてたから。」

あまり話したくない気分だが、猿目さんはニコニコと楽しそうだ。

「そっか。」 

それから、大学の授業やサークルについて話しかけてきた。

「来年からゼミ始まるから、そろそろ時代選ばなきゃなぁ。垂見くんは?」

歴史学部のため、授業の話になると大抵これだ。どの時代を専門にするか。もちろん私はもう決まっている。

「古代にするつもり。」

「へぇー!じゃあ私もそうしようかな。」

猿目さんは意味ありげに微笑んだ。

「なんだか安心した。」

猿目さんの白いスカートが、日を浴びて光っているようにみえた。気づけばもう朝になっていた。

「もう、迷い込んじゃダメだよ。」

猿目さんはそんな風に笑って去っていった。私は笑ってつぶやいた。

「彼女は天狗かおかめか、どっちなんだろう。」

猿目さんの導きなどなくても、竹垣の中で腐っている彼をみた私は、道を決めていた。

 


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