スナイドレー教授の帰宅
「おかえりなさいませ、公爵。」
飛び出してきた屋敷の使用人達に、スナイドレー教授は、しっと静かにするよう指示を出し、馬車からソフィアを抱き上げ、急ぎ足で屋敷に入る。
「おかえりなさいませ。」
と、近づいてきたマーシアに、歩みを止めることなく、ソフィアを起こさないよう低い小さな声で指示を出す。
「浴槽に湯を張ってくれ。薬を溶かすから、ぬるめで頼む。」
彼の腕の中に眠る少女を見て、マーシアは思わず小さな悲鳴をあげる。。
「血まみれではございませんか…。どちらのお嬢様でしょうか。」
「ソフィアだ。」
はっとしたように、マーシアが息をのむ。
「リディアナ様の…。」
「そうだ。私の妻になる。」
「え?」
マーシアは、ぎょっとしたように、目をみはる。
「そのこと、このお嬢様は…。」
彼は足を止め、マーシアに向き合う。
「心配ない。今度は、彼女自身にちゃんと承諾してもらった。」
マーシアの顔が、さっと明るくなる。
「まああ。良かった。ほんとに、よかったですねえ。お坊ちゃま。」
「坊ちゃまはやめてくれ。とにかく、彼女を治療せねば。」
「そうでした!」
幸い、リディアナのために用意した部屋がそっくりここには残っている。
彼女を浴室にある休憩用のソファにそっとおろし、マーシアに彼女の世話を頼む。
「薬を急ぎ調合して持ってくる。それまでに湯を張っておいてくれ。」
「承知しました。」
スナイドレー教授は、速足で調合部屋に飛び込む。
「裂傷がひどい。数日前からの古傷もあるな。であれば、これと、あれ…。」
次々と、迷いなく薬草や、調合薬品を量り、錬金鍋にほうりこんでいく。時間短縮の魔術を最大の力でかけ、薬を作り上げてから、リディアナの部屋に急ぐ。
浴室の外にマーシアが待機していたので、薬を渡し、使い方も指示する。
「はいはい、承知しました。わたくしがちゃんとお世話しますから、フィロス様はお召しかえされてお休みになっていてくださいませ。…ひどい顔色されていますよ。ソフィア様がお目覚めになったとき、驚かれてしまいます。」
「あ、ああ。わかった。では、ソフィアを頼む。」
「おまかせくださいませ。」
マーシアに任せておけば、問題ない。
彼は自室に戻り、洗浄の魔術で身をさっと清めてから、首の詰まった白いシャツと黒いズボンのシンプルないでたちに着替える。
ソファにどかっと座って、頭を天井に向けてため息をつく。
「間に合って、良かった…。」
本当は今日、ダングレー侯爵家に行く予定はなかった。
調査にある程度、区切りがついてから行く予定で、それにはあと数日かかるはずだった。
しかし、なぜか2日ほど前から無性に胸騒ぎがして落ち着かず、ソフィアの顔を見たら落ち着くかもしれない、と考えて、急遽、彼女に気付かれないようこっそり、安否を確認に行ったのだった。窓越しに彼女の姿を見たらすぐ戻ろう。
ダングレー侯爵家の屋敷には詳しい。子供の時から出入りしていたから。
勝手知ったる庭にそっと入った時、窓からダングレー侯爵夫人の怒鳴り声が聞こえ、びくっとした直後、鞭の音が頭の中に響き渡った。
そこからは、玄関に突進し止めようとする執事を押しのけて、階上の声がしたほう…ドアが開けっぱなしだった…に走る。
開いたドアの向こうには、床にうずくまるソフィアと、まさにそのソフィアに鞭を振り下ろそうとしている老婆がいた。
「吹き飛べ!」
とっさに老婆を吹き飛ばし…壁に激突した老婆を見て、ダングレー侯爵夫人だとわかり、やりすぎたか、と一瞬、気が咎める。
お互いにリディアナという最愛の人を失った同志だったので、彼女に同情こそすれ、嫌ってはいなかったから。
だけれども、彼女からすぐに発せられた言葉を聞いてその気持ちも霧散した。
「ガレー子爵と結婚?」
ガレー子爵のことは知っている。
どうしょうもない最低な男だ。借金まみれで、気が荒い。すぐカッとなって暴力をふるうので使用人も居着かない。ぶくぶくと太り、どんよりとした死んだ魚のような目をしていて見るものを不快にさせる。幸いというべきか、子供がいないため彼が死んだあとで子爵家は断絶になるはずだ。
そのような男のところに、ソフィアは送られようとしていた。
もし今日、行かなかったら。
背中に冷や水をかけられたように、ぞっとして、思わず、身震いする。
いや、それよりも、子爵のところに送られる前に、ソフィアは鞭うたれて死んでいたかもしれない。
ダングレー侯爵夫人が持っていた鞭はクヌートという鞭打ちで死刑にする際に使われる物だった。ソフィアのような若い女性なら、10回も打たれたら確実に絶命するだろう。
「本当に、今度こそ、失う前に間に合って、よかった…。」
傷は深いが裂傷ばかりだし、自分の調合した薬には自信がある。
…ソフィアが死ぬことは、ない。
これからは、彼がソフィアを守ろう。絶対に彼女を傷つけさせはしない。
ソフィアは、なぜ、戦闘魔術で反撃しなかったんでしょう?幼少期から、おばあ様には逆らわない、と刷り込まれていたからです。




