ダングレー侯爵夫人
「奥様、ずっと不思議に思っていたことがあるのですが、お伺いしても、よろしいでしょうか。」
「何かしら?ベッキー。」
「どうして、ソフィアを、侯爵が亡くなった時に追い出さなかったのでしょう?あの男の子供は憎い、と言いながら。」
「15歳までは追い出すわけに、いかなったからよ。」
「15歳まで?…今、ソフィアは15歳ですよね?」
「そう。やっと、追い出せる年齢になったの。…夫の遺言があってね。」
「侯爵の?」
「そう。あの、いまいましい、遺言。わたくしに、ソフィアを社交界デビューできる15歳までは手元で療育するように、と命じていたの。仮に、その前に、ソフィアを手元から手離したり死亡した場合は、この屋敷も夫が残した爵位と財産も、すべて、夫の弟、分家に譲る、という制約をつけて。毎年1度、弁護士がソフィアを見に来ていたでしょう?わたくしを見張っていたのよ。」
「な!なんて、こと!」
ダングレー侯爵夫人はソファにぐったりと身体を投げだし、目をつぶる。
この屋敷を追い出されたら、彼女に戻る場所は無い。
実家はすでに自分の甥が継ぎ、その甥夫婦とは仲が良くないので、戻りたくても戻れない。路頭に迷うしかなくなる。
だから、ソフィアを今までこの屋敷に置いておいた。
でも、もう、ソフィアは15歳になった。
もう追い出しても、自分は安泰だ。
「わたくしの、リディアナ。」
ダングレー侯爵夫人の目に涙が浮かぶ。
娘が亡くなってもう10年経つのに、彼女を思い出すたび、涙がにじむ。
魔術学院にさえ、行かせなければ。
そうしたら、彼女があの憎んでも憎み切れない、平民の男に盗まれることはなかった。
わたくしが夫の所に嫁いできたのは17歳の時。
婚姻の日まで会ったこともなかった。
2人とも、魔力は持っていない。
わたくしの実家は経済的に豊かではなかったので、結婚まで屋敷からあまり出られず、ひっそりと暮らしていた。
ダングレー侯爵家はそれなりに地位も財産もある家なので、わたくしは婚姻が決まった時、うれしかったけれど、夫は緘黙で、本ばかり読んでいる、つまらない男。
貴族の義務で結ばれただけの愛情の無い結婚だった。
それでも結婚して1年後には、リディアナが生まれた。
リディアナが生まれてから、わたくしの世界は一変した。
外が大好きで、どんなに叱っても、いつの間にか外で遊んでいる。
木登りもする。
川で泳ぐ。
わたくし達夫婦と全く似ても似つかない、むしろ、真逆なお転婆娘。
たくさん、リディアナには振り回されたけれど、彼女がいれば、世界は鮮やかに色づき、退屈を許さない。
わたくしは、娘にすっかり夢中だった。
わたくしのそばから娘を離すことは考えられないほどに。
それなのに、藍色の髪の、平民の男が、わたくしから、リディアナを、盗んでいって、壊したのだ!
「夫も、夫だわ。」
リディアナが妊娠したと聞いた時、夫は激高し、娘を勘当した。
わたくしは必死で、娘だけはこの屋敷に連れ戻してほしい、とお願いしたのに、聞き入れてもらえなかった。
育て方を間違えたお前への罰だとまで言われて。
そのくせ。
リディアナが、死の間際、夫にあの子供を託しに来た時、夫は子供には罪がないと言って、養女に迎えたのだった!
わたくしはまた泣いてすがって、あの男の子供を引き取らないように、お願いしたのに。
リディアナの遺言を聞かないつもりか?と言われたら、それ以上、逆らえなかった。
でも、夫はそんなわたくしの憎しみを知っていたのだろう。
だから、遺言書で、わたくしがソフィアに直接、手を出さないように制約をかけた。
「ベッキー。わたくしの我慢も、もう終わりよ。ソフィアには、これから地獄を見てもらうわ。」
「奥様?」
くっ。と喉の奥で、わたくしは、笑う。
ガレー子爵。
あんな汚らわしい男は顔を見るのも嫌だったけれど。
彼には、ソフィアをどのように扱っても良いと言ってある。
屋敷から一歩も出すな、とも。
彼があの子をどう扱うか、知っていて、わたくしは、子爵の所にあの憎い男の子供をやる。
学院を卒業して、この家に戻ってきたら。
そう、卒業後、一度は家に帰される。
でも、屋敷には入れてやらない。
その場で、子爵が即時、連れ帰ることになっている。
逃げられないように、準備して。そのための金も、くれてやった。
「モントレー様からの、縁談?…ソフィアが幸せになるところに?…そんなこと、許すわけ、ないじゃない。ねえ?ベッキー?」
わたくしが愛しているのは、リディアナだけ。
そのリディアナをわたくしから取り上げたあの男の子供。
リディアナが若くして薄幸のうちに亡くなってしまったのに、あの男の子供が幸せに生きていくなんて、わたくしは、絶対に、許さない。
リディアナが、両親に似ていないのは、当たり前。魔術庁に、別の家の子供と、すり替えられています。侯爵夫人が知ることはありえませんが。
リディアナしか愛していなかった侯爵夫人の心は、彼女が亡くなった時に、壊れています。