森の湖にて1
朝食後、エリザベスとジェニファーは、荷造りのために寮室に戻った。
私物をほとんど持たない私は特に片づける必要も無かったので、学院の近くの森に散策に出かける。今年最後の散策。
スナイドレー教授…。
結局、1か月不在ということだったけれど、後期試験が終わっても、教授は学院に戻ってきていない。薬学魔術の講義も試験もハッカレー学院長が代行した。
以前、魔獣に襲われた湖を思い出して、そちらに足を向けた。
湖はあいかわらず、さざ波一つ立てず、朝の陽ざしをきらめかせながら、深い藍色をたたえて、鏡のような水面に木々を映していた。
岸まで下りて行って、苔むした岩の一つに座る。
あの時のように、魔獣は飛び出してこない。
とても静かだ。
湖を見ていると、魔獣を倒した時のスナイドレー教授の姿が、思い出される。
スラリとした黒いシルエット。
普段、一糸の乱れもない黒髪が、魔獣が倒れた衝撃でふわりと舞い、漆黒の目は吸い込まれるような深い輝きを放っていた。
手に持っていたのは、自分と同じ、ステラをまとった白銀の剣。
がさっと、後方で小さな音がした。
びくっとして振り返ると、スナイドレー教授と目があう。
スナイドレー教授も私がいることは想定外だったようで、さっと表情が険しくなる。
岩から立ち上がった。
スナイドレー教授は、ここにまた調査に来たのかもしれない。
邪魔をしてはいけない。迷惑にならないように、寮に帰ろう。
そっと軽く目礼して、教授の横を通り抜ける。
「君は、まだ、私が好きか?」
いきなり、背後から、低い声がした。
思わず立ち止まり、スナイドレー教授を振り返った。
眉をひそめ、険しい顔をして、腕組みをして、彼は立っている。
「はい。好きです。」
気づかないないうちに声が出ていて、我ながら驚いた。
スナイドレー教授がつかつかと私に近づき、私の両腕を掴む。
…痛い。
「なぜだ!私は君に酷いことばかりしてきた。なぜ、好きだと言い切る!」
「最初から、好きでした!」
「は?」
「わたくしが教授と最初にお会いしたのは、この学院に初めて来たときでした。階段を登っていたら、視線を感じ、見上げたら教授と目が合いました…。わたくしはあの時に、恋に落ちたと、思います。」
あの時を覚えているのだろうか。
スナイドレー教授の顔が、ゆがむ。
「その後もずっと、わたくしは教授の視線に気づいていました。いつの間にか、わたくしも教授の姿を追っていました。…今年、教授の講義が始まって、わたくしは、毎日が楽しかった。直接、お話できるようになったんですもの。そして、知れば知るほど、どんどん好きになっていきました。嫌われているとわかっても、好きな気持ちを止められなかった。…教授もご存じですよね?お母様が離れて行っても、好きな思いを抱いてこられた、教授なら。」
その途端、教授は私の腕から手を離して、後ろを向く。
「私は、リディアナが去った時、二度と人を愛さないと、決めたんだ…。」
哀しみを湛えた声が、湖の藍色に吸い込まれていく。
「たとえ、想いが届かなくても、わたくしは教授を想う心を止められません。想うだけなら、いいでしょう?わたくしの心は、わたくしだけのものだから。」
「あの日…。魔獣に襲われていた君を見たとき、私は心臓が止まった気がした。そして、君に怪我が無かったと知った時の、安心感。…私は、自分の気持ちがわからなかった。感情など、封印したはずだから。」
スナイドレー教授のつぶやく声が、また、湖に、すいこまれていく。
ふいに、スナイドレー教授は振り向きざま、私の前に跪いて、両手を取った。
「ダングレー。いや、ソフィア。私と結婚してくれるか?」
目から、涙がぽろっと、こぼれる。
「…お母様の代わり、ですか?」
「違う!…はっきり、言おう。確かに、最初は、リディアナの子としか、君を見ていなかった。リディアナの面影を探していた…。だけど、君はリディアナと全く似ていなかった。むしろ、アクシアスを思い出させる。だからこそ、君が憎かった。…けれど、いつしか、私は君の姿が鮮明になるにつれて、どんどん、リディアナの姿を思い出せなくなった。君が入学するまでは忘れたいと思ってもできなくて、ずっと苦しかったのに。…私は、彼女を忘れつつあることを恐れた。その原因の君を憎もうとした。君がくっきりと輪郭を持ってくるにつれて、私は、自分が自分では無くなるような、焦燥感に襲われたから。だけれど…。」
突然、スナイドレー教授の手が、私から離された。
「もういい、どうせ、リディアナの時と同じだ。あの時と同じように、ソフィアも私の手には入らない。期待するだけ、無駄だ。」
彼の心の声が聞こえたような、気がした。
離された彼の手を思わず握り返し、彼と目を合わせられるよう跪いて、スナイドレー教授の目をまっすぐ覗き込んだ。
黒曜石のような瞳の奥に、今、憎悪の炎は無く、むしろ、諦念にも似た深い哀しみの光が宿っている。
でも、そこには確かに、母ではなく私が映っていた。
仮に、少しだけ、お母様の代わりだったとしても。
今、彼が見ているのは、私だ。
「…わたくし、教授のそばで生きたい、です。」
「私と、結婚してくれる、ということ?」
「はい。」
スナイドレー教授が私を引き寄せ、抱きしめる。
「あり、がとう。そして、すまない。ずっと、お前を傷つけて、きた。」
水滴…彼の涙、が、髪に落ちるのを感じたその時、理解した。
スナイドレー教授はその言葉を私に言ったと同時に、母のリディアナにもやっと謝罪できたのだ、と。