アムールの日に
アムールの日の夕方。
スナイドレー教授の執務室をノックする。
「…入れ。」
良かった。いらした。
はずむ心を、左手で軽くおさえてから深呼吸して入室する。
「ソフィア。…。施錠。」
後ろで、鍵がかちゃりとかかる音。
「どうした?ここに来るのは、半年ぶり?か?」
そう、私は婚約がみんなに知れ渡ってから、あえて、ここに来ないようにしていた。
「これをお渡ししたくって。」
紺色の包み紙に金色のリボンをかけた箱をフィロスに渡す。
「これは?」
「お菓子。」
「お菓子?なぜ?」
くすっと笑う。
「今日は、アムールの日ですけれど、やっぱり、忘れてらした?」
「…忘れてた。」
「今度は、召し上がってくださる?」
フィロスの顔が申し訳なさそうに曇る。
「ああ。もちろん。…見ても?」
うなずく。
フィロスが、息を飲む。
箱のふたをあければ、虹色のハート形のクッキー。
「虹色…?」
「わたくしの、オリジナルレシピです。」
「君の?」
フィロスの眉間に皺が寄る。
「あ、毒じゃないですし!惚れ薬とかでも、ないですし!」
「…そんな心配はしていない。というか、毒が入っていても、君からの贈り物なら、何も言わずに食べよう。」
「もう!無茶、言わないでください!…これ、あなたの幸せを祈る心を籠めました。…食べたら、ほんわか、してくださると、思うのですけれど。」
フィロスの目が、見開かれる。
「あの、材料も変なモノ使ってなくて。薬の材料ばっかりで。月花のしずくとか、陽光のこ、な…。」
腕をつかまれて引っ張られ、机に座る形でフィロスに唇を奪われていた。
そのまま、さらに引き寄せられて、フィロスの膝の上に抱き寄せられる。
「君は、本当に…。」
久しぶりの、あたたかいフィロスの胸の中から抜け出したくなくて、自分から、フィロスの胸に顔をうずめた。彼のにおい。安心できる、ところ。
「召し上がってみて?まずくないと思うんだけど…。あ、毒見はしました!」
「…食べさせてほしいな。」
「えええええ…。」
フィロスの目がキラッと光る。
唇の片方が上に向き、意地の悪い顔になっている。
「ううう…、どうぞ。」
一粒つまみあげて、フィロスの口に持っていく。
ぱくりと指先ごとくわえられ、ひぃっ、と変な声を出して、慌てて手を引っ込める。
くすっと笑ってから、ゆっくりと咀嚼して、フィロスが、ぼそっと感想を言ってくれた。
「うまい…。それに、なんだか、胸の奥が、温かくなってきた。」
「良かった!」
ほっとして、胸をなでおろす。
想いが伝わったようだ。レシピは成功、みたい。
「…魔力が戻ってきているが、その効果も入れたのか?」
さっと、青ざめる。
そんな効果は想定していなかった。
魔力回復の薬は副反応が大きい。私が2日寝込んだように。
「うそっ。そんな効果は、つけてない…。どうしよう、ごめんなさい。副反応が出ちゃったら…。」
「落ち着け。」
フィロスがまた、私を強く抱きしめて落ち着いた声を出す。
そして、片手で私を抱いたまま、空いた手でクッキーを1つ、2つ、口に放り込む。
「フィロス!副反応が?」
私を軽く手で制して、フィロスはクッキーを噛みしめて何やら思案している。
「…大丈夫だ。これは、純粋に魔力だけを回復し副反応が起きない、ようだ。」
「え?」
「とんでもないレシピを開発したな。魔術師にとっては魔力切れがもっとも恐ろしい。魔力回復のポーションはあるが、一時しのぎだ。しかも、副反応で数日は寝込む。よほどのことが無い限り、ポーションを使うことは無い。それが、君のこの菓子は…。副反応が起こらない。純粋に、魔力だけを回復する。…これが世に出たら、大変な騒ぎになるだろう。欲しがって殺到する魔術師が目に見えるようだ。」
「うそ…。」
「私が嘘を言ってどうなる?…そもそも、私はこの国一番と言われる薬学魔術師だぞ。魔力回復のポーションも、当然、研究したし、作った。あらゆるものを取り寄せたりもして、いろいろ飲みなれている。副反応が出るタイミングも、体の状態も知り尽くしている。…だが、これは副反応が起きる兆しすら、無い。」
ごくっと、唾をのむ。
「でも…。今は良くても、明日とか明後日にいきなり、副反応が起きるかも?」
「ふむ。様子を見なければ何とも言えぬが、大丈夫そうだが。おそらく、副反応は起きまい。…気になるなら、当分、私は学院に居るから、毎日、ここに見に来ればよい。」
「そうします…。あの、数日過ぎるまで、そのお菓子。」
「ああ、念のため、食べないでおく。」