「私の景色」
文学フリマ参加時の冊子に収録されていた作品の一つです。
ここは都内からそれほど遠くない街。
何年もかけて森を切り開いて作ったこの市街が私の故郷で生まれ育っている街だ。
この街には私こと榊原結衣乃とその家族が昔から住んでいる。
最寄り駅の途中に整備された大きな緑地が作られていた。
数年前くらいに市の整備によって作られた公園だ。
憩いの森グリーンパークという名前で設置されたここは開放感が感じられる私にとっても自然の風や空気を感じられる憩いの場だ。
緑が生い茂り、空には大きなわたあめみたいな雲が見えている快晴の日に私は公園の中へと足を運ぶ。
見渡す限りの広い景色が目の前に広がっていて、敷地の中心には湖があってそこから流れる。
小川の脇に伸びる大きな木が何本か立ち並ぶ木陰の一つが私の休日に落ち着ける数少ない場所の一つだ。
私は休日になると毎週のように散歩に来ては一休みして自分だけの風景を満喫していた。
それほど人の出入りしないこのスポットは休日でも一部のカメラ好きの人や散歩しているお年寄りしかいない。
この綺麗な風景が私は好きだ。
晴れやかな気分になるし、いつでもこの場所に来たくなる。
こんな広々と開放的な景色は日常には無い。
だからこそ惹かれるし、癒される。
私は肩掛けカバンからからスケッチブックを出す。
そろそろ夏休みの課題をやらなければいけないなと考えていたところだった。
早速、鉛筆と練消しゴムを用意して目の前の風景を描き始めていた時。
「いつもいる……」
お婆さんが一人で近くの別の木陰で休んでいる。
私はそのお婆さんも風景の一つとして描くか描かないか躊躇った上に結局は景色の一部にしてしまう。
時間を忘れて描いていると日が傾いてきていた。そろそろ夕方だ。
日中より涼しげな風が今日も私の短めに切り揃えた髪を揺らしていた。
日が暮れかけていたのでこの日はもう家に帰った。
そういえば私も来年からは高校受験だなぁとぼんやりと先の事を思いながら私は鞄にスケッチブックをしまうのだった。
◇◇◇
――後日。
私は公園で描き上げたその絵を課題作品として出した。
それが美術の先生の目に留まって市の絵画コンクールに推薦を受けることになった。
結果は入賞。
沢山の人に褒められ、私は自分自身が誇らしくなった。
私は絵を描くのがより一層、好きになった。
正確には絵に打ち込む自分が好きになっていったという方が正しい。
それが故に公園での景色は私の中では深く根差す風景となる。
◇◇◇
次の週も私は公園に訪れた。
今日は少し気分を変えて別のエリアにある花畑の区画に行った。
いつも通りに草花でも描いてみようと思っていた。
私は花壇の囲いの前で画材を取り出してかがんだ。十分くらい絵を描いていると不意に後ろから声がした。
「おやぁ……まぁ? お嬢ちゃん……絵が上手ねぇ」
私は集中し始めたところだったので不意を突かれた。
「あらぁ……邪魔しちゃったかしらねぇ」
声はしても姿なきお婆さんの声。
絵から目を離しても見当たらない事に思い当たり後ろを見た。
すごく人当たりの良さそうなお婆さんがそこに立っていた。
何となく見覚えがある人だった。けれど誰だか思い出せない。
とりあえずそのまま私は首を横に振って答えた。
「いえ、そんなことありませんよ」
お婆さんは微笑んでいた。
「そうかぁい? とても素敵な絵だと思ってついつい見入ってしまったわぁ」
と、ただにこやかに話しかけてきた。
「今ちょうどお散歩の帰りでねぇ。帰り際に素敵な絵が見れてよかったわ」
私はひとまずお礼を言った。
「ぁあ……はい。ありがとうございます」
お婆さんはゆったりとした口調で私に聞く。
「ちょっとだけ見ていてもいいかしらねぇ」
「え、あ……はい」
私は断るの事が申し訳ないので承諾してしまった。
微妙な空気の中で気を取り直して絵にとりかかり始めた。
更に数十分かけておおよそを決める下描きが完成した。
今の地点ではいい出来だと思っていた私。
絵を少し引きで見ていると、しばらく様子を眺めていたお婆さんが声をかけてきた。
「お嬢ちゃんの描き方は本当に素敵だわねぇ」
私は思わずお婆さんを見上げた。
「でもまだまだ迷いがあるかしらぁ……描いてる線がそうみえるわぁ」
私はなんだか褒められてるのかよくわからない上に複雑な気分。
お婆さんが更に何か変わった空気をかもし出していた。
「お嬢ちゃん何か悩みを抱えてないかしらねぇ?」
私はなぜだかその言葉に戸惑いを覚えた。
「え……そこそこ悩みはありますけど大したことではないです」
「そぉねぇ? それならいいわぁねぇ?」
私に微笑みかけながら話掛けてくるお婆さん。
「ごめんねぇ? 何となくそんな気がしてねぇ……?」
お婆さんの言うことはわからないけど私は何か悩みがある事になっているらしい。
お年寄りって何考えてるかわからない。
私は鉛筆を走らせるのを再開しようとしたら、お婆さんは思い立ったように言葉を掛けてきた。
「あぁ、そういえばお嬢ちゃん名前は?」
「え……はい榊原……榊原結衣乃です」
お婆さんは朗らかな笑顔で私の名前を呼ぶ。
「結衣乃さんねぇ?」
私は頷く。
お婆さんは笑顔で。
「そうかぁい……そうかぁい? いい名前だわねぇ」
「あぁ……はい。どうも」
お婆さんの笑顔とは正反対に苦笑いなる私。
「家にもあなたぐらいの子がいるからなんだか親しみを感じるのよ。名前はけいとっていうの」
「そうですか……」
私は一度お婆さんを見た。
お婆さんはちょうど懐から何かを取り出すところだった。
それは真新しい葉の模様が施された懐中時計だった。
お婆さんは懐中時計の蓋を開きながら。
「あたしも昔から絵が好きでねぇ、たまに美術館やいろんな展示を見て回ってるのよぉ」
私はお婆さんの話よりもなんだか懐中時計に見入ってしまって反応が遅れてしまった。
「え、あ……あぁ。そうなんですか」
お婆さんは私の視線に気がついているのか私の眼を見てほほ笑んだ。
「綺麗かしらぁ……? これはねぇ、あたしの宝物なのよぉ」
私はあまりに素敵な時計の彫刻が目に焼き付いて素直に答えた。
「……はい!」
お婆さんは嬉しそうに。
「結衣乃さんは見る眼があるねぇ……素敵だわぁ」
私はお婆さんに褒められてなんだか照れくさくて目を逸らしていた。
「……ぁ……ありがとうございます」
私は話を終わらせて草花を描き続けようとする。
「あたしの孫も絵を描くのが好きでね。もうすぐ受験なのよぉ……今日はありがとう。お邪魔したわねぇ」
私は手を留めて苦笑いしながらお婆さんに一言だけ、はいと返事した。
お婆さんは優しい笑顔で微笑みかける。
そのあとお婆さんは去っていった。
お婆さんと話して不思議な気持ちだったが何故か嫌な気持ちはしなかった。
でも何か変な感じがした。
きっとお婆さんに悩みがあるように見えたのは結局何かあるのかもしれない。
と、考えたらなんだか苦しいような温かいような複雑な気分だった。
思い当たるほどではないが小さな悩みは多いのは確か。
でも本当にそうなのか私には分からなかった。
それにしてもあのお婆さんはどこかで見たことあるなとぼんやり思い返す。
確かいつもこの公園で見かけているような気がした。
とか、色々な事に考えを巡らせた。
そのまま絵を描くのを再開するとすぐ夕方になった。
日中より涼しげな風が今日も私の短めに切り揃えた髪を揺らしていた。
私は受験の時期に近づき公園に行く機会が減った。
◇◇◇
それから時が過ぎて受験が終わった後。
第一志望で公立校の受験結果が公表される当日の事。
合格者発表と数字の書かれたボードに並ぶ中から私は自分の番号をその日探していた。
目で追いかけて探した受験者番号は探すとそこにはどうやら見当たらなかった。
「え……?」
手元を見返した。
残念ながら手元の番号とどうしても張り紙の番号が一致しない。
「ぇ……う……嘘」
言葉が出ない私の落ち込みを他所に合格者の喜ぶ声が上がった。
この瞬間から私は自身に大きく劣等感を感じるようになった。
◇◇◇
そして私は滑り止めの美術系の部活が盛んな私立校に入学。
新生活が始まった日、校門の桜は満開で新入生を迎えた。
その華々しさとは裏腹に私は不安を感じていた。
振り返っても私という人間はいつまで経ってもあんまり変われていない気がする。
ただ惰性で今を生きている様にも思える。
いろいろなことを考えては試そうとするけれども自分の行動を自身でストップさせてしまう癖がある。
そんな事を表す出来事があった。
実際あった出来事としては当時の担任教師にある事を言われた。
その言葉とは大体思い出すとこんな感じだった。
「お前はいつも自信が無さ気にしているがもっと堂々とした方がいいぞ? クラスのみんなはお前を本当に頼りにしているんだからな」
いつか言われるような気がしていた。
けれどいざ面と向かって言われると胸がチクリと痛む。
私の捉え方ではこういうことなんだろう。
本当の部分は自信がないように見えること。
嘘だと思う部分はクラスのみんなが私を頼よりにしているということ。
実際は頼りにしているのではなく私が断るのが苦手なのを知っているだけ。
普段からいつもこれでいいのかな、という気持ちの迷いもある。
けど言われると頼まれごとや厄介ごとを安易に引き受けてしまう。
そうして私はクラスではある意味での優等生扱いになる。
勿論この行動は担任の教師にも話が及んで同じ扱いになるまでになっていった。
私はそんな優柔不断な自分をどうにかしなければならないなとは思っていた。
けれど慢性的に同じ状態が続いてずるずるとそのまま二年目に突入。
状況は一向に良い方に向かずに努力もする気が起きなかった。
あの時描いた心の景色はどこへやらといった感じになっていった。
◇◇◇
授業中私は呆けていた。
「―――榊原……おい、さか……きば……ら」
教師の棒読みの声が教室中に響き渡ってきた様だった。
なんだか私の名前を呼んでいるように聞こえる。
それとなんだか周りががやがやと騒がしい。
黒板に目をやると九月一日金曜日とチョークで黒板に書かれている。
そういえばあと二週間ちょっとで学園祭だ。
なんてことを考えていたら別の声が聞こえてきた。
「結衣乃……授業中よ? 結衣乃……聞こえてるのかしら全く……しっかりなさい」
私は前の席から聞こえた声の主にシャーペンの頭で頬をつつかれて我に返った。
「やれやれ、何を考えてたのかは知らないけど貴女ったら最近抜け過ぎよ? 睡眠はとれてる?」
口調こそきついけど一応は心配をしてくれるんだ、と私は彼女に感謝する。
「ありがとう才華……今ちょっと気分が優れないみたい」
「あら、そ……無理だけしないで」
素っ気ない態度からは想像もつないけどこういう物言いしか彼女はできないらしい。馴染みの私は何となく雰囲気で分かる。
―――彼女の名は高原才華。成績は私より断然優秀。なんでこんな学校に入学したのか理解不能なくらいだ。
周囲に見せる態度とは裏腹に私にはだけには面倒見がよく。
長い真っ直ぐ肩まで伸びた黒髪と黒縁眼鏡がよく似合う女の子。
私こと榊原結衣乃の中学からの友人。
現在では同じ高校のクラスメイトでもある。
彼女は私に声をかけてから無言でじっとこっちを見て静かに前に向き直った。
板書を再開するつもりなんだろう。
いつもながらに無愛想な感じだけど心配されているのは嬉しい。
私はぼんやりとした頭で考えながらも彼女の背中を見た。
案の定だけど自分のノートにペンを走らせている。
将来彼女は有望だろうなぁ、なんて考えてしまうと私は自分の先行きが不安でしかなくなってくる。
他人と自分を比べてしまうのも私だなと思いつつ私は机の上に両腕を組んで憂鬱さで突っ伏した。
五秒くらい教室が沈黙した後。
才華は何やら教壇に立つ教師に申し伝えてくれていた。
「先生……榊原さん気分が悪いので保健室に連れていってもいいですか? ノートの板書写しは後に自分でどうにかしますので」
教師の咳払いが聞こえる。
「そうだな……でも高原はほかにやることも多いだろう? 代わりにここの女子保健委員いるか? 榊原を保健室に連れて行ってくれ」
保健委員の女生徒は教師の呼びかけに答えて私を保健室に連れてく。
教師は教室内に通る声で尋ねた。
「お、そうだ。ちょっと申し訳ないが誰か今日の授業内容の板書を榊原に写させてやってくれ、次回まででいい。」
急に教室が静かになる。
こんな反応は慣れっこだ。
私がそういう態度をとられるくらいの人間くらいにしか思われてない裏返し。
私は保健委員に連れらえれていく最中にクラスメイト達の反応に嫌気がさした。
せいぜいこんな時に手を上げるのは才華くらいだ。
「先生、私がやります」
予想通り才華の声が私の背中で聞こえた。
直後に教室がまた賑やかになった。
私は才華が世話焼きしてくれている様子をなんだかありがたくて後ろを振り返って見る。
だけど賑やかになっているのはもう一つ理由があるように見えた。
「それ俺が代わります、高原さんは今度やる学園祭の実行委委員で忙しいと思うので」
私は疑問が膨らんでいた。
手を上げて発言していたのは私と才華にあまり関わりのない男子だったからだ。
「お? そうか、それもそうだな……じゃあ頼んだぞ――牧野」
手を上げて才華の代わりを申し出た生徒は周囲の声を少しも気にも留めずに了承した。
授業終了の鐘が鳴り渡っている。
そういえばそんな時間だ。
教師が普段通り授業終わりの挨拶を掛ける。
私の方は腑に落ちない気分のまま保健委員の女生徒に連れられて行った。
◇◇◇
それから保健室に連れられて行った私は気分が優れないまま学校を早退した。
翌日にはまた少し良くなって通常通り学校に登校する。
今日の空は私の気分とは正反対のさわやかな秋晴れ。
赤トンボは飛んでるいる上に夏の暑さも和らいでいる。
すっかり秋風が吹いて空気もどこかさわやかだ。
私は通学路を自転車のペダルをこぎながら景色を眺める。
目に入るのは住宅街、スーパーや飲食店。
ちょっとした道の脇にある街路樹。それからマンション、商店街。
人工物ばかりだけどそれら一つひとつが街を形作るもの達だ。
何気なく私は眺めて走る。
しばらく時間をかけて学校近くのコンビニにたどり着く。
入り口付近には才華が退屈そうに待っている。大分長く続いている朝の光景。
才華の前まで自転車をつけてブレーキをかける私。
才華はこちらを見て短く。
「おはよ」
と、私に声をかけてくる。
いつも通り無愛想にむすっとしている。
「おはよう、才華」
私も挨拶を返す。
才華はあいさつを終えて私に聞いてくる。
「調子はもう大丈夫?」
私はなんだか温かい気分になる。
「ありがと、まだ調子よくないけど……昨日よりかはいいかな?」
才華は頷いて少し和らいだ顔で。
「そ、よかったわね」
と答えた。
「ところで……」
唐突に才華が切り出す。
凄く声色が神妙でこちらを直視している。
「少し気になるんだけど昨日クラスではあなたの事……噂になってたわよ」
声こそ淡々としているが彼女の顔は珍しく心配げだ。
「え……そう……なの」
私は戸惑いに言葉を詰まらせる。
少しのためらいを振り払って私は聞く。
「みんな、なんて言ってたの?」
才華はそうね、と前置きして。
「気を悪くしては欲しくないんだけどあまりよく思われてないとは思っていいわ」
私は一言しか言えなくなる。
「……そう、なんだ」
あくまで平静を装う私。
でも才華にはそんなごまかしは効いていないようで逆に心配される。
「ふーん? 貴女ったら強がりね? 少しは自分の事考えたらどう?」
的を射た発言に私は苦笑いする。
「あ……あはは」
彼女は私に淡々としたいつもの声で言う。
「―――一つだけ忠告」
私は才華の普段よりもさらに強い言葉に驚く。
「余計な人様の世話は焼かないこと。あなたはただでさえ危なっかしいから余計にね」
「――え……う、うん」
大分気持ち的にはえぐられる話だ。
友人の口からこの話が出るなんてそうそう思ってもみない事なのだから。
「さ、じゃあ行きましょ……私、学園祭の実行委委員でこのところ忙しいから早くいかないといけないし」
才華はそう言って学校に向かういつもの道に向かう。
彼女の自宅はこのあたりなので彼女自身は徒歩だ。
ここからは私も自転車を押しての徒歩。
彼女のあとを続くべく自転車のスタンドロックを足で外す。
そんな時後ろにあるコンビニの入り口あたりから声がした。
「榊原さーん」
どこかで聞いたような声は温和な雰囲気で私を呼んだ。
私は呼ばれた限りは無視をしたくないので振り返る。
そこにいたのは同じクラスの牧野君だった。
彼についてはあまりよく知らない。
けれど見ている限りでは周りと分け隔てなく接している人気者。
美術部に入っているなどと才華から聞いたことがあるくらいで後は良く知らない。
端から見れば落ち着いた好青年に見える。
そんな牧野君は私に向けて笑顔で向かってくる。
「えっと……牧野、君? どうしたの?」
私はなんだかその笑顔に戸惑った。
何故だかは分からないけど、落ち着かなくなる。
私の気分をよそに牧野君は答える。
「ああ、おはよう。昨日の授業の写しまだだったよね? 今急いでる?」
私は才華の方に目をやる。
すると彼女は言う。
「私は先に行くわ。結衣乃、遅刻だけはしないこと」
才華はそう私にいつもどおりの淡々とした口ぶりで言った。
「う、うん……わかった」
私が答えると彼女は歩きだす。
「そ、じゃ私は学校に行くわ」
仕方ないとはいえ友人に置いて行かれた様で私は少なからず寂しい気持ちになる。
私と彼女は短く手を振って別れる。
牧野君も手を振りながら少し申し訳なさそうに。
「ごめんね? 高原さん……実行委員何かあれば代わりに手伝うからさ」
才華は無愛想に答えて学校に向かってゆく。
「どうも」
こめかみの辺りを気まずそうに掻いている牧野君。
「タイミング悪かったかな?」
私は才華のいつもの態度になんだか彼が気の毒に思い声をかける。
「ごめんね、才華に悪気はないの、いつもあんな感じだから」
牧野君は苦笑いしていた。
「こちらこそ間が悪くて申し訳ないね……」
それから私は牧野君からコンビニの前で板書のコピーを受け取った。
それにしてもなぜ牧野君は私の板書写しを手伝ってくれたのか不思議だった。
放っておいてくれればわざわざクラスメイトから変な注目を浴びずに済んだはずなのに。
なんだかその動機が気になった。
牧野君の後を数歩ぐらい後ろに距離を置きながら私は歩く。
「そういえば榊原さんは高原さんと仲いいみたいだけど幼馴染なのかい?」
牧野君は才華の事を話し始めた。
私の方を見て反応をうかがってくる。
「うん」
牧野君は前を向いたまま朗らかな声で言う。
「そっかぁーじゃあ、榊原さんは彼女の事を信頼してるんだね?」
彼は私の言葉になんだか満足気だった。
「そうね……多分。付き合いも大分長いから」
牧野君は本当に何を考えているのかわからない。
あのお婆さんだったら今の牧野君の考えていることが分かったのかな、なんて妙なことを考えた。
今度また公園にでも行ってみようかなと私は牧野君の後姿を見ながら歩く。
また間が開いた後、彼は私の方を見て言う。
「いや、変なことを尋ねてごめんよ? 前々から君たちの事は気になってたんだ」
私はどういう意味か理解出来ないで聞き返す。
「どうして?」
率直な私の声に牧野君は歩く速さを緩めた。
「いや、信頼できる友達がいるのはいいことだなぁと思ってさ……素敵なことだと思うよ? なんだか見てると微笑ましくてさ」
彼は心底嬉しそうな顔で私に言う。
「君たちはいらぬお節介だけど何だか危なっかしくて放っておけないんだ」
私はなんだか腑に落ちないままとりあえず頷いておく。
「ところで榊原さん、制作の方は進んでいる? 学園祭もうすぐだけど」
制作というのは私の学園祭で役割の事を指してるはず。
主に宣伝ポスターや各種の小道具作りを行う雑用係。
立候補者が誰もいなかったので私が自動的に選ばれたけど、その場ではそうでもしなったら選出が終わらなかったんだと思う。
「え……あ、うん。あまり進んでないけど何とか間に合わせる。牧野君は企画班だよね?」
「そうだよ」
彼は答えながら半身で振り返る。
そして朗らかな笑顔で。
「困ったらいつでも言って、手伝うからさ」
そんなことを言ってきた。
私は彼の行動がますます謎だった。
正直、人の心なんて分かりっこないと思っている私。
そんなもの知りたくはないとも思っていたけれど、この時だけはなんだか知りたくなった。
◇◇◇
それから学園祭も近づき、準備も佳境に入った頃。
自分の作業も途中で私は相も変わらず人の雑用を断れずに居た。
男子生徒の一人が私に声をかけてきて必要物品の買い出しを頼んできていた。
ほとほと困り果てたけど私はそれを断る押しが無い。
あれやあれやという間に仕事という名の雑用を頼まれてしまう。
私としてもクラスメイトへの私自身の印象はこれ以上悪くしたくない。
拒否することがまるで選べなかった。
急いで買い出しに行くけれど結局は私自身の作るものはまるで仕上がらなかった。
そんな日の放課後、才華が私に声をかけてきた。
何やらいつになく顔が剣幕に見える。
「結衣乃……どういう事? 頼んでた小道具出来ていないじゃないの? 貴女まさか私の言ったこと忘れたの?」
声こそ張り上げないが彼女の今放った言葉はすごく冷ややかに感じる。
私は咄嗟のことに何時ものような態度を取ってしまう。
「え……あ、あはは。ごめん」
彼女の顔が急に変わる。
その時、不意に思い出す。
いつぞやの忠告を受けたときより背筋が凍るくらいの危機感。
次の瞬間左の頬に痛みを感じた。
すぐに何が起きたのか私はわからない。
ただ私は痛みと才華が無言で去ってく様子を呆然と見ている。周りはやたらに静かだった。
「さ……さい……か?」
私は震える声で彼女名前を呼ぶ。
彼女は私の呼びかけに振り返る。
「貴女の優柔不断にはうんざりよ、忠告も聞かないし、救えない人だわね」
「な……」
私は二の句が告げなくなった。
今この瞬間、私は最大の味方を失おうとしている。
「ご――ごめんなさい!」
それでも精一杯の気力を振り絞って喉から声を絞り出した。
「何が…何がごめんなさいなの? そもそも何に私が怒って……ふんっ、もういい」
そのまま私に背を向けて去っていく才華。
私は無我夢中で縋りつこうとして追いかけるも一言で一蹴される。
「やめて――来ないで」
私は悲しさのあまりに顔を覆って泣く。
「榊原さん……?」
この様子を別の誰かが見ていたらしく私の名前を呼びかける。
今はそんな声も温かく感じる。
私は混乱したまま今日も学校を早退することを選んだ。
逃げ出す事、今の私にはそんなことしか選べない。
日暮れの後の食事も満足に進まないまま私はその日を終えた。
◇◇◇
翌日、週末の連休にさしかかり、私は自分の部屋で目を覚ます。
寝ぼけたまま上半身だけ起そうとした。
目覚ましが鳴らなったので休日だということに気が付く。
急に頭に昨日の事がよぎってため息が出た。
本気で才華は怒っている。
私は思い出して頭を抱えた。
でもどうしたらいいのかわからなった。
「あぁ……」
肩を落として部屋の壁を見る。
私が見た視線の先にはいつも何気なく飾り付けてある一枚の絵。
タイトル名……私の景色――榊原結衣乃と書かれている緑と青のコントラストのくっきりした絵がある。
最近忙しくてここ数か月行けてないあの憩いの場所で描いた作品だ。
そういえばあの日の景色からすると今の私はずいぶんかけ離れているなんて考えてしまう。
このまま緩やかに悪い方へ落ちてゆくとのかと思うと現実逃避したくなる。
今やあの頃の景色は近くにあるのに何処か遠いような気がする。
色々と思いながらその絵をぼんやり見ていた。
「あれ……」
その時に私は初めて気がついた。
頬に水滴が伝っている。いつの間にか涙が出ていた。
「私は……いったいどうしてこんな風なの……だれか教えて」
当然答えてくれるような人はいない。
ここは私の部屋だ。鍵もかかっている。
「だれかいな……ぃ」
私は絵を見て涙をこぼしながら絵の一部に目が行った。
小さく絵の中に人影が描かれている。
「――ぁ……もしかしたら」
私は気だるい体に喝を入れて無理やりベッドから起き上がる。
寝間着姿からどたばたと服を着替えて、身なりを整える。
リュックをもって自転車のカギが中に入っているか確認。
あったのを見てから家の玄関に向かって急いで駆け出していた。
途中で足音を聞きつけた母親が様子の変わり具合を見てやってくる。
「結衣乃! どうしたのそんなに慌てて?」
「いつもの公園に行ってくる! 夕飯までには帰るから!」
私は母親に早口で言って玄関を出た。
あらかじめ用意した自転車の鍵でロックを外し、家の庭を抜ける。
そのまま自転車を道路に置き、乗り込んでから全力でこぎだす。
頭の中に思い浮かべたる行先は憩いの森グリーンパーク。
あの場所の絵に描かれていたのはかつて出会ったあの時の婆さん。
あの人なら私の苦しみを解くヒントをくれそうだという気がする。
そんな根拠のない確信があった。
私は目的の場所まで必死に自転車をこぐ。
空はやや曇っていて今日は晴天でないので肌寒い。
着るものも大体寒さをしのげる程度で適当のまま夢中で目的地に向かっていた。
公園はそう遠くない場所にあるので時間はかからない。
私は公園の入り口の駐輪場に自転車を留めて公園内へと駆け込む。
あまり運動は得意ではないのでとっくに息が切れている。
むしろ肩で呼吸するような感じで苦しい。
でも今の私には些細な事で記憶だけを頼りに公園のあちらこちらを探し回った。
けれど探している人は見つかることはない。
公園の敷地も広ければそれだけ探す場所も多い。
その上しばらく話したことはない。
何より待ち合わせているわけでもないときている。
「だめ……なのかな」
私は不安になる。
でも、それを振り払ってひたすら走る。
――走って走って日が傾き始めるくらいまで一生懸命お婆さんを探した。
でもどんなに懸命に探そうという気が頭であったとしてもずっと走れば体は疲れる。
やがては私の体はいうことを聞かなくなった。
走りすぎて情けないことに膝が笑っている。
私は歯がゆさと体の辛さでその場に座り込んだ。
辛さが湧いてきて心が折れそうな気がした。
段々と気温も落ちて空もうす暗くなってくる。
今日はたまたまいなかったのかそれともまだ探せば居るのかもわからない。
私はからっきし動けない状態で辺りを見た。
あの日の景色には似ているようで違うどんよりした雲が空を覆っている。
こんな天気じゃよく考えれば散歩に来ないのかもしれない。
私はあきらめてぼろぼろの体に無理をいって動かす。
その時ふと、遠くで人影が見えた。
もしかするとあれはと思い、私はゆっくり人影に近づいていく。
段々と近づくと輪郭がはっきりしてきた。
そこに居たのは。
「牧野……君?」
残念ながらお婆さんでなく牧野君だった。
休日ともあり、いつもの制服姿ではない。
清潔感のある短髪とジャケットとシャツ。それからズボンを身に着けてどこか大人びて私からは見える。
偶然見かけたとはいえ同世代の人たちがここに居るのは珍しい。
まして、天気も良くないし一番気にかかったのは彼がいつもの顔ではなかった。
なんだか俯いて辛そうな顔をしているように見える。
「あれ? 牧野君……?」
彼は私がしばらく声をかけても反応しなかった。
立ち尽くす彼の前に私が視界を遮ると。
「あぁ……榊原さん……やあ」
覇気のない声で彼は返事した。
私は尋ねられずには入れずに言葉を掛ける。
「どうしたの? こんなところで……」
「いや、ちょっと身内に不幸があってさ……なんとなくここの風景を見たかったんだ」
私は納得したと同時に彼の身に降った不幸を気の毒に思う。
「そう、なんだ……突然のことで言葉が見つからないけど、お悔やみ申し上げます」
彼の不幸があった身内の方へ弔いの言葉をかける。
「ありがとう、僕の婆ちゃんも榊原さんの言葉できっと空の上で喜んでくれているよ」
私の言葉に彼は少し顔を穏やかにする。
彼の穏やかな顔を見ると少し寂しい気持ちになる。
牧野君は静かに微笑み私に語り掛ける。
「家の婆ちゃんは生前よくここに来てたらしいんだ。若い頃に地方で美術教師をしてたのを思い出すって言ってさ」
私も無言で話に聞き入る。
「面倒見のいい優しい人で尊敬できる婆ちゃんだったなぁ」
彼は亡くなった人を懐かしんでいる様子だった。
私は遠いまなざしで空を見る鵜の視線を追う。
薄暗くなった空に公園内の各所に置かれたスピーカーからアナウンスが響き渡る。
「あ……閉園の時間だ」
そう言うと牧野君はポケットから何か取り出してチェックした。
「みたいだね」
彼がその手に握りしめたものを見たとき私はストップをかけた。
「待って! ちょっとそれ……」
しまおうとしとしていたので思わず声を張ってしまった。
「わっ……びっくりした。えっ……これ? これがどうかしたのしたの」
私はそのデザインを鮮明に覚えていた。
「私、それと同じのを見たことある! ここで! どこで買ったの?」
「あぁ、これは婆ちゃんのものだよ。家の近くの時計屋で買ったものなんだけどね」
牧野くんは言いかけて何かに気が付いたように。
「そっか、君はもしかすると婆ちゃんの話に出てきたゆいのさんなんだね」
彼の反応が私の中で一つの答えを出させた。
そうなると牧野君はあのお婆さんの……お孫さん。
――そして、そのお婆さんは既にこの世にはいない。
牧野君のお婆さんの事について私は後悔と無念に襲われた。
もう一度会えたらよかった。いや、会っておけばよかったという後悔の念。
「――ということは、そうなんだ……そうなると牧野くんはあの人のお孫さんなのかも」
牧野君は頷く。
「やっぱりそうだよね! 榊原さんっていう名前は婆ちゃんがずっと言ってたんだ」
彼は少しなんだか嬉しそうに見えた。
こんな偶然があるなんて世間は狭いし事実は残酷だと思った。
それを伝えてくれた方はもういないのだから。
「婆ちゃんは榊原さんの事を昔から話してくれてたんだ」
そんなことを私に言って来る。
私は牧野君に聞く。
「お婆さんはなんて私の事を言ってたの?」
「いつも一生懸命絵を描いていて、心がとてもきれいな子なのよぉって」
面食らう私に彼は続けて言う。
「それと、誰よりも優しいけど傷つきやすそうな子だっていつも言ってた」
気恥ずかしいのもあって私はしどろもどろで返す。
「ありがとう……」
そんな時再び閉園のアナウンスが流れる。
「あっ、門の入り口の門がしまっちゃう」
「あぁ……いったん出よう」
私達はこの公園を出て帰り道についた。
この後、私は牧野君を駅まで送りながら話を聞いた。
牧野君のお婆さんはどうやらしきりに私の話をしていたらしい。
市のコンクールで駅に展示された私の絵を孫の圭斗君つまり牧野君と見に行ったこともあったという。
彼は昔から話に聞いていた私の事をずっと前からどんな人か気になっていたらしい。
入学して私が同じクラスの時も話に聞いていた名前と同じ名前の人が居たのに驚いていたそう。
――そんな具合に私とその隣にいつもいる才華を実は興味を持っていたそうなのだけど。
「なかなか声をかけられなくてね、機会を見計らっていたんだ」
と、本人曰くだそうだ。
私はもしかしたらあのお婆さんのお孫さんなら助けになってくれると考えた。
でも、そんなのを自分から言うのは厚かましいと思い言いかけてやめる。
「そうだ……牧野くん。いや、ごめん、なんでもない」
牧野くんはまた穏やかに。
「どうしたんだい……この間のことかな、それとも榊原さん自身のことかな?」
ゆっくりとこう言う。
「え?」
私は驚いて瞬きをしていた。
どうしてそれがわかるのか不思議でならないけど、お婆さんから洞察力を受け継いでいるのが彼なのかもしれない。
「そうだね……いっていいのか分らないけど私自身のことかな? どうして分かったの?」
牧野くんに聞いてみると彼は一言。
「ん……うーん。なんとなく、さ」
ということらしい。
牧野家はすごいなぁなんて思う。
「それで? どういう感じ? 僕で良ければ聞くよ……多分悩んでいるんだよね?」
図星だった。私はまた驚きながら話す。
「そうね、私の……悩み」
彼ならあるいは今度こそ気づかせてくれるかもしれない。私の本当に必要な事を。
私はその日彼に悩みを打ち明けた。
私の少しだけ長くなった髪が夜風に揺れる。
少しだけ寒くなって来たなと感じた夜だ。
◇◇◇
カレンダーの斜線が増えていくのが日に日に早く感じる最中、学園祭の当日になった。
あれからすっかり牧野くんとは馴染みになっていた。
学園祭の制作物は牧野くんを介して才華に渡されていく手はずになった。
私は流石に気まずいのでそこは牧野くんに助けて貰った。
それともう一つ、私のクラスでは映画を上映する予定となっている。
内容は青春学園物と言った具合で才華が脚本とかを書いて仕切ってる。
私にも制作係の仕事がある。
他の頼み事も多いけど今度は断る勇気を持つことにした。
こうなれたのも牧野くんの一言が私に響いたからなのかもしれない。
彼は私が打ち明けたことに対してこう言っていた。
「周りを気にしたいならきにすればいいけど君自身が潰れてしまうんじゃ勿体無い。君にはもっと出来ることがあるのにさ」
私はその言葉を聞いて今は制作に集中する事にした。
作ったのは校内に貼る告知ポスター。
こちらは冬の町並みの景色が描かれていてタイトル――君の描く色と載せた。
もう一枚は多きキャンバスに描いた絵。
これが劇中で使用される才華からの頼まれていた小道具。
牧野くんが私に言う、隠し玉に該当するものらしい。
上映最初の少し前に私は才華に突然呼び出された。
喧嘩した相手に呼び出されて恐る恐る教室の隅に行く。
すると彼女は私に耳打ちした。
「結衣乃、見直したわ。貴女本気出せるじゃない、なんで私の忠告で目を覚まさなかったの」
「え、ああ……あの時は……そのごめん。今度きっちりあやまるね」
「――いいわ……仕方ない。それが貴女だものね」
「え?」
最後の方は聞き取れないで聞き返す。
それを遮るように上映開始の合図が教室で聞こえた。
私は息を呑んで緊張しながら上映を見守る。
暗幕を敷いてスクリーンに映し出されるのは青春の葛藤劇。
主人公は絵を描く人で女の子だったが。
それはどこか私のように見えた。
主人公は苦しんで苦しみ抜きながらもそれでも前へ進む。
心を閉ざして誰との接触もしない日を続けた後、やがて挫折を味わい倒れる。
そんな時、仲間に助けられて立ち直り数人の仲間と結束が生まれる。
ラストでは主人公はそれに感謝しながら笑顔を振りまくシーンで上映が終わる。
エンドロールにはちゃんと私の名前もある。
才華がこんなストーリーを書くなんて意外だ。
まるで私の事を書いているようで胸を打たれた。
その日の終わりに映画のことについて牧野くんに聞いてみると。
「ああ、いい出来栄えだったね。」
彼は満面の笑みで答える。
「ストーリーは僕がちょっと高原さんの手伝いをしたせいかな。僕の手を加えたのはほんの一部だけだけどあとは高原さんが書いたんだよ?」
正直、驚く私。
牧野くんはその後色々と話してくれた。
実は才華は途中でストーリーを書き直したらしく、そのタイミングがどうやら私の絵を見た時だということらしい。
それも再度頼んでから出来る速さと何より出来栄えを見ての反応なのだそうだ。
私が描いたのはちなみにあの景色私の心の景色だ。
そこには木陰で休むお婆さんの姿もしっかり描かれている。
この学園祭で私達のクラスは学園祭の賞に選ばれなかった。
けれど私にとって今後新たに根ざす思い出となる。
そう、私の人生は明るい。
私を支えてくれる人を大切にしたいと思いながら私は私自身の道を歩む。
さあ、もっと先の未来へ進もう。
晴れやかな空に少し木枯らしが吹く。
もうじき私の街にも冬の寒さが訪れる。
―了―
自身の高校時代をもとに結衣乃を通して成長の物語を書きました。