ラウル、婚約破棄は、時、場所、場合、話の内容、全てを考慮に入れてからした方が身のためよ?
「かわいそうにな」
「不幸だな」
独身時代の自由を謳歌できないなんて、と友人たちから哀れまれラウルは、若者故の責任を持たない反発で婚約者と距離をおいた。
まだ人生を縛り付けられたくない。
自分が決めた婚約相手ではない。
社交界に出て幅広い人間関係と選択肢ができ、華やかな容姿の令嬢と恋におちたことも大きかった。
だから、とある夜会で、婚約者であるナディーヌ以外の令嬢をエスコートしていたラウルは、ナディーヌに問い詰められて思わず、
「おまえと婚約破棄をする」
と叫んでしまった。
自分は悪くない、ナディーヌは妹のようにしか思えない、とふてくされ開き直るラウルにナディーヌは自分の初恋の終わりを告げる声を聞いた。
ナディーヌとラウルが婚約したのは7年前、ナディーヌ8歳ラウル9歳の時だった。
貴族であるゆえに政略結婚は当たり前であるが、この国では10歳よりも前から婚約を結ぶ家は少なかった。だいたいは年頃になりお互いの相性なども考慮されてから婚約することが多かった、より結婚生活を成功させるために。
しかしナディーヌの場合は、資産のある伯爵家の一人娘であったため早めの婚約を両親が望んだ。
そこで、領地が隣で父親たちが友人で爵位も同じ伯爵家の次子であるラウルが選ばれた。ラウルは同年代のなかでは優秀で、太陽のような髪をして容姿も美しかった。
だが一番の理由は、ナディーヌとラウルの仲がよかったからだ。
ある時は、青い花が一面に咲く丘で。
埋め尽くされた青い花と青に染められた空の色が溶け合い、花と空の境界線が行き交じり曖昧でひとつの世界となったような丘で、ナディーヌとラウルは。
まるで空中散歩のように二人で花と空の間を歩いて。
ある時は、白い砂が底に敷かれた池で。
水面に映った空の中を行くように二人で舟を進め。
ある時は、花の洪水のような小道で。
白の青の紫の黄の赤の、さまざまな花を散らしながら二人で駆けて。
二人で遊んではしゃいで。
笑いあって、ケンカして、百の秘密を交わして、千の約束をして。
けれども、容赦のない思い出をナディーヌに押しつけて、全てを過去としてふてぶてしい態度をとるラウルの姿に、ナディーヌは涙のようなため息をひとつ落として初恋を断ち切った。
愛想を尽かしてしまったのだ。
人間だから心変わりをすることもあるだろう。
しかし貴族として何不自由なく生活する者が、ましてや利害を含んだ婚約をしている者が、何の責任もなく恋愛をして楽しくすごしたかったなどという台詞は許されない。そんなことすらも若さを言い訳にラウルはわかっていなかった。
ナディーヌの両親も、ナディーヌをないがしろにするラウルに、何よりも夜会で婚約破棄を叫んでナディーヌを晒し者にしたラウルに激怒してーー二人の7年間の婚約は終わった。
その数ヶ月後、ラウルは後悔していた。
我儘で驕慢な恋人にウンザリしていたのだ。
婚約破棄したことによる損失額を父親から拳とともに教えられ、自分の思慮の足りなさを身に染みてもいた。
損失は、成人後にラウルに与えられるはずであった財産があてられ、それでも足りずにマイナスとなってしまった。マイナス分は将来、父親の領地で働く飼い殺しである。ナディーヌの家に婿入りして伯爵位を継いで、両親からも個人財産を譲られ、輝くような未来があったはずなのに。
そして思い出すのはナディーヌのことばかり。
ナディーヌの惜しみのない愛に慣れて、ナディーヌが側にいてくれることが当然となっていて、なのに顧みることもしなくなって挙げ句に浮気。
慢心が崩れ落ち自分の心が剥き出しになって、ナディーヌを失うことによって気づかされた本当の気持ち。
好きで好きでどうしようもない、自分の初恋に。
愚かすぎて自分で自分の首を絞めたくなるが、時間は巻き戻らない。
目の前で、自分以外の男と踊るナディーヌを絶望を隠した目で眺めることしかラウルにはできなかった。
伯爵家の一人娘として引く手あまたのナディーヌは、婚約を破棄しても瑕疵にはならなかった。不貞行為によるラウルの有責の婚約破棄であったし、この国では女性側だけを傷物物件とする風潮はない。なのですぐに次の婚約者が決まった。
お互いに利用価値の高い家同士の政略ではあるが、相手は公爵家の次子でナディーヌに一目惚れをしてガンガン溺愛してきた。恐ろしいことに生きるの死ぬののレベルで押しまくりナディーヌを陥落させたのだ。
今夜の夜会でも、仲睦まじく寄り添いナディーヌの傍を離れない婚約者は、口角を少しだけあげて蠱惑的に微笑んで目の端でラウルの姿をとらえていた。
その微笑の美しさ、容姿も家柄もおそらく能力も全てが自分より格上であるナディーヌの婚約者に、カッと嫉妬と劣等感がラウルのなかで沸騰した。
殺意すらも煮詰めた双眸で婚約者を睨み付けるラウルと高位貴族らしく悠然とわらう婚約者。
そんな二人にちらりと視線を流して、勝負にもならないとナディーヌはため息をついた。
そもそも夜会という公の場所で、婚約破棄を叫んだ時点でラウルは終わっているのだ。
貴族としての信用も婚約者としての愛情も。
婚約という名の契約を破棄したければきちんと手順を踏むべきであったのに、時も場所も場合も話の内容も全部が大失態であるとラウルはまだわかっていないらしいことにナディーヌはあきれた。
白の青の紫の黄の赤の花の思い出が溢れて氷のトゲのようにナディーヌの胸をちくんと刺した。
空を映した池で二人で漕ぎ出した舟は空を行くようで。
つる薔薇の門、石積のアーチ、ベリーを摘んだ森。
銀色の雨が降るように思い出はナディーヌの涙となって幾夜も枕を濡らしたが、ラウルと違いナディーヌは貴族の結婚の重さと責任を伯爵家の一人娘として理解していた。
ナディーヌの華奢な肩には領民の生活が懸かっていることを。
だから善も悪も曖昧で身勝手な言動を若者の特権として責任を持たないラウルが言った「僕は悪くない」という言葉が、ナディーヌには許せなかった。
ナディーヌとてまだ15歳。
好きな人と結婚できる自分は夢のように幸せだと7年間思ってきたが、公の場で婚約破棄を叫ぶラウルはあまりにも愚かすぎた。
ナディーヌは、ラウルとはお互いを見ることはできても、同じ方向を見ることはできなかったのだと思った。
ーーさよならラウル、愛していたわーー
指の先、足のつま先まで美しく、ナディーヌは誇り高い一本の薔薇のように笑顔を婚約者に向けた。
読んでくださり、ありがとうございました。