第八話 私たちは劇的になれない(その①)
スクール水着盗難事件を経て、私は金木犀まどかと知り合ったものの、それで日常が劇的に変化したかというとそんなことはなかった。
……いや、まあ、それはそうなのだ。
まどかのヒロイン宣言は衝撃的で、自分の学校生活を一変させてくれるような予感すら感じられたが、実際のところ、まどかの後ろで大きな陰謀が渦巻いているわけでも、怪しい組織が蠢いているわけでもないのだから。
だから変化があるとすれば、まどかが昼休みや部活帰り(女子テニス部は大会近くでもない限り、完全下校時間ギリギリまで練習することはない)に、保健室に来るようになったことくらいか。
そこでわかったのは、やはり黒嶋はまどかのことが気になっている、もっとはっきり言えば好きだという事実である。
まどかに話しかけられるたび九割の確率で噛み、異様に焦り、そして決して目線を合わせようとしない、しかし胸にはチラチラ目が行く思春期全開の姿を見れば明らかだった。
……この野郎、やっぱりあの時は金木犀絡みで私を糾弾してたんだな、と思ったが、叶わぬ恋だと知ってしまったので寛大な心を持って許してやることにした。具体的には、まどかが黒嶋不在時に桃井先生に「黒嶋君、同学年とはあまり関わろうとしないのよ。まどかさん、黒嶋君と仲良くしてあげてね」と言われた際、天使の笑顔で「クラスメイトとしてならいいですけど、それ以上はたぶん難しいです」と言ったのを聞いたのである。曰く、保健室に引きこもっているような男は陰気そうでイヤ(優しさに溢れる意訳)、とのこと。強く生きろ黒嶋、と思った。
しかし、めぼしい変化はそれくらいだ。
保健室で四人、時々三人、たまに二人で平穏な日常を過ごしていただけである。
雑談を交わしたり、トランプをしたり、桃井先生が内緒で持ってきてくれたお菓子とお茶をご馳走になったりした。
なんか本来気が乗らないときにだけ訪れていた保健室で過ごす時間が増えてきたような気がして、桃井先生による更生計画に嵌まってしまったのだろうかなどとも考えたが、まあ、実際そうかもしれなかった。
平穏だが、今までよりちょっと楽しい時間。
それに浸っているうちに、気が付いたら夏休みになっていた。
すると途端に、まどかは「ごめんなさい、部活が忙しくなるのであまり一緒にいれないかもです」と言い出して、実際パトロールに誘ってみたが断られた。ヒロインにあるまじき行為である。まあ予想以上に何もなくて飽きたのもあるのだろう。
そしてまどかがいないとなると黒嶋は露骨にテンションを落とし、引きこもる場所を保健室から自宅に移した。
かくして一人残された私は最後の夏休みの活動方針が定まらないまま、ほぼほぼ惰性でパトロールを続け、七色市が平和であることを再認識し。
あっという間に、八月最終週に一日だけ存在する、始業一週間前の登校日を迎えていた。
□
登校日。
それは、全国の小中高生が、休暇という名の夢にも終わりがあるということを思い出させられる日であり、友人や部活仲間以外の同級生らと久々に再会できる日でもある。
私はパトロールの成果(?)であるほんのりと日焼けした肌に朝日が沁みるのを感じながら、自転車を駈り登校した。
すると途中、思いもがけないものを目撃した。
「ん……?」
裏門へと続く民家沿いの道に、ぽつぽつと見える制服姿の生徒たち。そのうちのひとつに見覚えがあった。
綺麗な茶髪が一際目立つ、小柄で華奢な背中。金木犀まどかだ。
特筆すべきはその右隣、まどかと手を繋ぐ男子生徒の背中も見えていたということ。一瞬ですべてを理解した。
「……っ」
自転車の駆動する音に振り返ったまどかは、まず驚きに目を見開き、それから、気まずそうな恥ずかしそうな、なんとも言えない照れ笑いで応えた。
私は肩をすくめる仕草を見せてから、二人を追い抜いていく。
なんだろう、これも寝取られというのだろうか。結局ヒロインらしいことを何ひとつしてないぞ。期待していたわけではないが。
よくよく考えてみればまどかは中学二年生、恋愛したい真っ盛りの年頃だ。ましてや彼女は校内屈指の美少女。夏休みの間に彼氏の一人や二人できてもおかしくはない。
しかし、みんなにチヤホヤされることを喜びとしていたまどかが、一人を特別に愛することにしたとは。
まあ、この一ヶ月の間に色々あったのだろう。その結果として彼女は成長(?)したのだ。そしてそこに自分はまったく関われていない。迷走していただけだ。またしても、己の無力を思い知らされる結果がひとつ、示された形となる。
「夏は怖いな」
大人しく真面目な少女を、たった一ヶ月で、髪を染めスカートを短くし、色気ある雰囲気を纏ったオンナに変えてしまうのが夏という魔性の季節である。
私もバスケ部時代には言い寄ってくる同級生や先輩がいないことはなかったが、当然すべて断ってきた。『緑十字那由多は変人だ』という評判が広まってからは、そういう輩も見なくなったが。
……と、ここでようやく私は、黒嶋の恋が完全に終わったことに思い至った。
可哀想だが仕方無い、かたや部活ドロップアウトの引きこもり野郎で、かたや見た感じ体格のいい、健康的そうな運動部少年。
残念ながら差は歴然だ。
中学時代はスポーツの出来る男がモテる。
「那由多!」
「げ」
そのとき。
私は視線の先、裏門近くに腕組みして仁王立ちする少女の姿を確認した。
登校日まで『活動中』なのか、いや、人のことは言えないが、見上げた執念だ。
自転車を加速させて彼女を突破することもできるが、逃げるとどこまでも追ってくるのが彼女の恐ろしさである。
ゆえに私は減速を開始、余裕を持った距離で自転車を降りて押して歩き始めることで、逃げる気がないことをアピールする。
自転車から発されるカラカラという回転音がやかましい。
朝っぱらから自称ヒロインの裏切りに遭ったかと思えば、会いたくない人物に遭ってしまった。
久々に見るが、変わらない。
校則に忠実すぎるほど忠実なおかっぱ頭。
丸顔だが目力が強く、キツい印象を受ける。実際キツい。
身長はまどか以上私未満だが、その枠には男子を含めた大多数の生徒が入る。彼女はどちらかというと私寄り、つまりやや高めだろうか。
クリーニングされた制服をビシッと着こなしたその姿は、凛々しく隙がない。
右腕に巻いている、白地に黒文字で『風紀委員会』と書かれたシンプルな腕章が、彼女以上に似合う生徒を、私は知らない。
「おはよう那由多。門をくぐる前にその腕時計は外しなさい、校則違反よ」
「おはよう忍。朝早くからの精力的な活動、恐れ入るよ」
自転車のハンドルに両腕を乗せて倒れないようにした状態で、腕時計を大人しく外しながら、私は呆れ半分感心半分に呟いた。
教師との衝突をも恐れない私だが、彼女に対してはなるべく穏便に事を運びたいと常々考えている。
なぜなら彼女、紫山忍は、私にとってヒーロー活動を阻止してくる宿敵の一人である以前に。
物心付いた頃から傍にいた、ただひとりの幼馴染だからだ。
□
紫山忍。
三年三組所属、風紀委員会の委員長。
私がヒーローとしての正義を追求するように、忍は風紀委員としての正義を追求している。私たちは似て非なり、ゆえに相容れない。
私は仁義を信じ、忍は規則を信じる。
思えば昔から、好きなライダーもまるで違ったものだ。小学生の頃までは、たびたびライダー談義をするくらいには仲が良かったが。
中学に上がり、クラスが別れさらにお互い違う部に入ったことで共に過ごす時間が減り、私が退部しヒーロー活動に熱を入れるようになったのが袖を分かつ決定的な要因となった。
さらに忍は風紀委員に入ったので、校則違反の常習犯である私にとっては、赤瀬先生や青垣に並ぶ宿敵となってしまったのである。
□
入浴時と就寝時以外は巻き続けている腕時計を外していると、風が吹くたびスウスウとして違和感に満ちていたが、知らぬ間に慣れた。そんなものだ。
二時間目までの登校日は何事もなく終わり、私は久しぶりに保健室に顔を出そうとした。
が、廊下に出てすぐ思いもがけない人物に声をかけられる。
「那由多」
「――忍」
一日に二度も忍と会話をするのなんて何ヵ月振りだろうか。
忍は、チラリと私の左手首に視線を落とした。腕時計をちゃんと外しているのかを確認したのだろう。つくづく真面目な奴だ。思えば小六の修学旅行のときも、と思い出を振り返りかけて、そこで思考を切り替える。少々感傷的に過ぎるのは、中学最後の夏休みを棒に振ったのと無関係ではないだろう。
「今、暇?」
「暇だがどうした」
「たまには一緒に帰らない?」
予想だにしなかった誘いに、私は大いに面食らった。
忍とは家も近いが、最後に一緒に下校したのは確か中一の一学期だ。忍と自分が友人と呼べる間柄だったのが、ギリギリそこまでなのだ。
ゆえに私は、嬉しいと思うよりまず、怪訝に思った。
「これはまた珍しいな」
「いいじゃない。久しぶりに那由多と帰りたくなったのよ」
嘘は言っていない。
仮にも旧友だ、私得意の読心も、赤の他人相手よりも確実に作用する。だからそれは自信を持って言える。
だが、しかし、旧友相手であるがゆえに。
私は、忍が嘘こそ吐いていないものの、何かしらの負の感情に基づき接触してきたことも確信できた。怒りや憎しみのようなはっきりした感情ではないようだが。
…………。
旧友が相手でも、こんなことばかり考えてしまう自分が少し嫌になる。
「――そうか。じゃあ、帰ろうか」
「ありがとう。嬉しいわ」
忍は目を細め、微かに微笑んだ。
……しかし本当に、どういうつもりなんだろう。