第三話 消えたスクール水着(その①)
その日の朝。
いつものように登校したら、校内が何やらざわめきたっていた。
何かあったんだろうな、とすぐに気付く。
一年生の頃、トイレに煙草の吸殻が落ちていたときも、こんな空気になっていた。その日は臨時の全校集会が開かれたのを覚えている。当然、私は独自に犯人探しをしたが、まだ中学生になって間もない未熟な時期というのもあって失敗に終わったのは苦い思い出だ。
この平和な学校では珍しい、ゆえに懐かしさすら感じるざわついた空気の中、私は三階の手前にある三年一組の教室へと向かう。その過程で飛び込んでくる噂話によりわかったことだが、どうやらスクール水着の盗難事件が発生したらしい。被害に遭ったのは二年の女子。ふむ。
「どうやら私の出番のようだな」
私は肩から提げた通学カバンのファスナーを開き、教科書やノートに混じって仮面とマフラーがちゃんと入っていることを確認した。
近くにいた同級生男子が『またやる気かよ』というようなギョッとした顔を見せたが、こんな廊下のど真ん中で変身するほど私は見境がないわけではない。『変身』のシチュエーションは極めて重要なのだ。今はその時ではない。私はあくまでも、仮面とセーラーを自宅に忘れてきていないかを確かめただけなのだ。
「ふふ、こんなところで変身するわけないだろう」
私が勝ち誇った顔でそう言ったのに対し、その男子生徒は軽く混乱した様子だった。やれやれ、これだから美学のない者は困る、なんてことを考えながら、私は回れ右した。
私が教室から遠ざかり始めたことで、いよいよもって彼が混乱を深めたのが背中に伝わる気配だけで分かる。愚かしくも愛しい一般人の反応だ。
「ああ、君。一組の誰かに私は遅刻すると伝えておいてくれ」
返事を待たず、私は駆け足で立ち去った。
『廊下を走るな』というのは恐らく全国の学校で謳われている文句なのだろうが、要は人や物にぶつからなければいいのである。あいにく反射神経には自信があるので、思う存分走らせてもらう。もちろん、必要なときに限るが。
向かう先は、二階。
二年生の教室が集まった、通称『二年生フロア』である。
□
仮面セーラーとして精力的に活動している私は、校内ではちょっとした有名人である。
今年度が始まって三ヶ月、すでに一年生の中にさえ私のことを知らない生徒はほとんどいないとまで言われていた。これは担任情報だ。この前説教されたときに教えられた。
そんな私が自分たちのテリトリーに現れたのだ、二年生たちが皆一様にざわめきたったのは、当然の結果だった。
好奇、侮蔑、軽蔑、哀憫。
無遠慮に注がれる負の感情を、私は敏感に感じ取る。悲しいことに慣れていた。一人くらいは、羨望や尊敬の眼差しを向けてくれてもいいというのに。
私はアウェーな空気の中、スクール水着盗難事件の情報収集に努める。
二年生には黒嶋しか面識のある生徒はいないが、どんな形かはともかく名が売れていることは事実だし、そもそも自分は上級生だ。聞けばうろたえたり戸惑ったりしながらも答えてくれる生徒ばかりだった。
十分ほど情報収集をしていたら、二年生の学年主任でもある青垣とニアミスしたので引き際と判断し早々に引き上げたが、成果は十二分に挙がった。
『被害に遭ったのは四組の金木犀まどか』
『スクール水着は教室後ろのロッカーの奥に入れていた』
『事件の発覚は今朝。今日、体育の授業があるので水着を確認しようとしたところ水着が消えていた。自宅では見当たらず』
『事件発覚時点で他クラス含め半分以上の生徒が登校してきていた』
『金木犀まどかといえば、二年男子の間では可愛いと評判で、学年で一、二を争うほどの人気がある』
以上が十分ほどの聞き込みで得られた情報だが、これで事件の概略は掴めたと言っていいだろう。聞き込みを続けていても、どうせこれ以上は似たり寄ったりな情報しか挙がってこなかったはずだ。
ただ、金木犀まどかには直接話を聞けずじまいだった。友人たちに囲まれて守られるようにされており、本人も怯えと不安に駆られている様子だったからだ。彼女及びその周囲が、ある程度落ち着いてから、改めて訪ねさせてもらうとしよう。
しかし――四組か。
「気がかりといえば気がかりだが、……まさかな」
金木犀まどかが所属し、事件の舞台ともなった二年四組。
今も多くの生徒が集まり、青垣たちが事態の沈静化にかかっている真っ最中のようだが、私は以前から、二年四組についてはほんの少しだけ知っていた。
黒嶋の所属するクラスなのだ。
□
「最初に言っときますけど、俺はやってないですよ」
案の定、黒嶋は保健室の定位置でゴロゴロして朝練をサボっていた。
私の来訪で自身に疑いがかけられていると判断したのか、ムッとした顔で言う。
「まだ何も言ってないぞ。しかし、二年生フロアで見当たらないと思ったらやはりここか。いい加減三者面談が開かれるぞ」
「もう開かれました。ただし五者面談ですけどね」
「五者面談?」
「俺、母さん、担任、顧問、青ガキです」
「ああ……それは、あまり想像したくないな。ご愁傷様だ」
明日は我が身と思うと少し憂鬱ではあるが、そのくらいの展開は覚悟している。私はいつものソファーに腰掛けてから、保健室全体を見回した。桃井先生は不在のようで、自分と黒嶋しかいない。
清潔な白い天井と壁と床、視力検査用の器具、身長・体重・座高の測定器、薬品棚に書類棚。スタンダードな保健室だ。
ともすれば不自然に感じるほどの無機質な白の世界。それが私や黒嶋を含む多くの者にとって居心地のいい空間となっているのは、ひとえに桃井先生の人柄のなせる業だろう。
「しかし、なんでお前が事件のことを知っているんだ? お前がいつものように教室に行かずここに直行したなら、噂は聞きようがないだろう」
「先輩の俺を疑っていくスタイル、嫌いじゃないですよ。LINEですよLINE。クラスの奴からLINEが回ってきたんです。そいつからも疑われましたよ、俺が教室にも朝練にもいないからって」
「お前、友達いたのか」
「さすがにそれはひどくないですか!? ていうか先輩も似たようなもんでしょうよ!?」
「ヒーローは孤独なものなのだよ」
小学生の頃は人並みに友達はいたのだが、中学生になってヒーロー活動に明け暮れるようになってから、みんな潮が引くように離れていってしまった。
校内で付き合いがあるのは黒嶋と桃井先生、それに一年の頃の担任である白木先生くらいである。本来最も付き合いが多いはずの同学年との交友が皆無とはなんたることか。異性はともかく同性と付き合いが無いのは由々しき事態である。ヒーローは孤独だが、それは孤立とは違うのだから。
そんな私の憂いなどつゆ知らず、黒嶋はスマートフォンをいじりながら逆に訊ねてきた。
「やっぱり、ヒーローとして見過ごせませんか? この事件は」
「愚問だな、当然だろう。金木犀まどかは相当不安げだった。現実問題として、水着がなければ水泳の授業も見学せざるをえないしな。……まあ、一度盗まれた水着を使う気にはなれないかもしれないが……。それにこの手の犯罪は再犯率も高い。早期の発見と指導が必要だ」
「はー…リョナ先輩もたまにはまともなこと言うんですね」
「いい加減にしないとお前をリョナるぞ」
「それはそれで好物なんで、俺としては歓迎ですよ」
「……やっぱりお前が犯人な気がしてきたよ」
というのは冗談だが、黒嶋にアリバイがないのは確かだった。
まあ、金木犀まどかが最後に水着を確認したのは昨日の放課後、ロッカーの整理をしたときらしいので、実は誰しもに犯行が可能なのだが。夜なり早朝なりに忍び込んで盗み出せばいい。
となると、教師を含む全員の荷物検査を実施するという手が有効のようだが、これにも穴がある。犯人が、素直に手元に水着を持っているとは考えにくいのだ。どこかに捨てたり隠したりする時間的余裕は十二分にある。荷物検査は、学校側にも体面があるので、今日中に形だけは実施されるだろうが、それでは無意味だ。
二度目以降の犯罪を抑止する、あるいは犯人に自首を促すという効果は少々あるかもしれないが、私の考えでは、今回の犯人はそんな小心者ではない。
最も犯人がいる確率が高いであろう二年生フロアで、私は、聞き込みをしながら全員の顔色や挙動に注意を払っていたが、怪しい素振りをした者は皆無だった。あの中に犯人がいたとすれば、なかなかに面の皮が厚い輩だ。
「しかし先輩、俺考えたんですけど、犯人が男とは限らないですよね?」
「ほう、面白いことを言うな。犯人はレズビアンだということか?」
「だとしたら萌えるんで嬉しいですけど、そうじゃなくてアレっすよ。金木犀をよく思ってない女子の仕業かもってことです。金木犀って可愛いからモテるんすよ。だからそれが気に入らない女子もいるみたいです」
「なるほどな、それは十分にありえる仮説だ。女子のコミュニティに加われていない私には思い付かなかった着眼でもある。ありがとう」
「それすごく悲しいっすよ、先輩……」
黒嶋が哀れみの眼差しを注いできた。失敬な奴だ。
――しかし、新たな可能性を提示してくれたことは大きな収穫だった。やることは増えるが、それはある意味、ヒントが増えるということでもある。
私はソファーから立ち上がった。
「あれ? もう行くんですか?」
「ああ。お前のおかげで捜査の方向性が固まってきたからな」
私は振り返りざまにニヤリと笑い、言った。
「そこでスマホでもいじりながら待っていろ。仮面セーラーの名にかけて、犯人は必ず見つけ出す」