第二話 人呼んで、仮面セーラー(その②)
私は中学三年生であり、今は七月の第二週である。
部活に所属していた同級生もほとんどが引退し、みんな大好き期末テストも終了。答案も全教科返ってきていた。
開き直りや自虐風自慢や謙遜や称賛や僻み隠しの称賛や、まあとにかくそういった一喜一憂の人間ドラマが繰り広げられる一週間はあっという間に過ぎていき、級友たちの頭の中は目前に迫った夏休みのことでいっぱいとなっている。
私も、中学最後の夏休みを有意義なものにしようという考え自体は皆と同じだ。ただし枕詞に『ヒーローとして』が付くが。
一年の夏休みはパトロールに明け暮れた。
愛車の学校指定自転車を漕ぎまくり、七色市中を駆け巡り、困っている人や悪事を働く人を血眼になって探し回った。
しかし嬉し悲しや、七色市は平和だった。
むしろ私が不審者扱いされて補導された。取り調べを担当した警察官とライダートークで盛り上がったのはいい思い出だ。ただし当然のことながら、迎えに来た両親にはぶん殴られた。
二年の夏休みは一年前の反省を生かし、外に出る前にインターネットで七色市の情報収集を行うことにした。
七色市役所のホームページに始まり、七色市内の各種施設のサイト、個人のブログやSNS、果ては大手掲示板や動画共有サイトの巡回に明け暮れていたところ、思いのほか楽しくなってきて、気付いたらほとんど家から出ないまま夏休みは終わっていた。ぶっちゃけ途中からは七色市とか関係なくネットサーフィンを満喫していた。
七色市に関する知識がやたらと身に付いたおかげで、夏休みの宿題だった『わたしのまち作文コンクール』で入賞したのは嬉しかったが、手段の目的化が生じていたことは否めない。
どちらも振り返ってみれば悔いが残る、空回りの夏休みだった。
しかし、三度目の正直。今年こそヒーローとして文句の付け所のない、華々しい活躍を収め、有終の美を飾るのだ。二度あることは三度ある? どうしてわざわざネガティブなほうの慣用句を支持しなければならないのか。ヒーローは常に前向きなのだ!
カツンッ!
瞬間、私の額の中心点を正確に、重くはないが鋭い痛みが突いていた!
「敵か!?」
「先生だ! 緑十字ぃ、ホームルームはちゃんと聞けぇ!」
左手で額に触れたところ、何か粉のような感触があり、視界は左前方の床をコロコロ転がる白い筒状の物体を捉えた。
もしかしなくても、担任の赤瀬先生にチョークを投げられたようだ。
「先生の先制攻撃というわけか!」
「じゃかあしいわ!」
クラスメイトたちがクスクス笑う。
部活やテストから解放されたことで、この頃はみんな全体的に機嫌がよかった。しかし受験シーズンには笑う余裕もなくなっているんだろうなと、この時点からすでに嫌なことを考えてしまうのが私という人間である。私が普段からポジティブを心がけているのは、私が物事のネガティブな側面に気付きやすいからに他ならなかった。
それはともかく、今は赤瀬先生だ。
不意打ちとは卑怯な!
「乙女の顔になんてことをする!」
「ヒーローじゃなかったのか?」
「ヒーローであり乙女だ! 詫びろ!」
「詫びん! 舐め腐った態度を取るお前が悪い! 以上!」
「少し考え事をしていただけだ!」
「要するに集中してなかったってことだろうが!」
「集中する価値のある話ではなかったということだ!」
「んだとゴルァ!」
私自身の名誉のため補足しておくと、我らが三年一組の担任である赤瀬先生のトークは絶望的に面白くないことに定評があり、なおかつ本人は面白いつもりという最もタチの悪い部類ゆえ、一組の生徒のみならず彼が担当する社会科を受けている全クラスの生徒たちから辟易されているという事実がある。
やる気はあり、情熱的で、笑いのセンスを除けば授業も悪くない部類であるので、私もそこはある程度買ってはいるのだが、それとウマが合うかどうかは別の話なのだった。
「もういい、廊下に立ってろ!」
「上等だ! 立ってやる!」
「おう! 立て!」
売り言葉に買い言葉なやり取りを経て、私は廊下に出た。
自分で言うのも何だが根は真面目なのでちゃんと立つ。
言われてもいないが水を張ったバケツを二つ用意して、両手に持った。いつものことながら重い。しかしトレーニングにもなるのでやめない。ヒーローを名乗る以上は、まず第一に強くなければならないのだ。私は帰宅部だが、そのために色々やっていた。
「……しかしこれでは、私が悪者だな」
集団の和を少なからず乱している自覚はある。理想と現実のジレンマから生じる苛立ちから、この頃は教師との衝突もさらに増えた。よくない傾向だ。
青垣の言葉を受け入れるわけではないが、少しスタンスを変える必要があることは事実だろう。このままでは八方塞がりだ。
しかし、チャイムが鳴るまで考えてみたものの、結局名案は浮かばなかった。
□
私の放課後は基本的にヒーロー活動に費やされるが、そういう気分になれないときもある。今日もそうだった。
そしてそんなとき、私は決まって保健室を訪れるのだった。
「こんにちは、那由多さん。ここに来るのは久しぶりじゃない?」
「こんにちは、桃井先生。期末テストもありましたから」
私は勝手知ったる我が家のように、迷うことなく保健室奥側のソファーに座った。定位置だ。
私が良好な関係を築けている数少ない教師の一人が、養護教諭の桃井先生である。二十代後半の優しく穏やかな女性で、彼女に密かに憧れている男子生徒は多い。桃井先生目当てに仮病で訪れる輩もいるくらいだ。
例えばそれは、私から見て右前、窓際のベッドに寝ている二年生・黒嶋だったりする。
「お前も懲りないな黒嶋。そのベッド、お前以外の生徒が使っているところを見たことがないぞ」
「ひでえこと言わないでくださいよ先輩。俺だっていつもここで休んでるわけじゃないですよ。部活にだって行ってますし」
「世代交代から間もないこの大事な時期にこんなところで油を売っている時点でお察しだ」
私から見て左前のデスクで書類の整理をしている桃井先生が、私と黒嶋のやり取りを聞いてうふふ、と笑った。
ヒーロー活動をしない日の放課後は、いつもこんな感じだった。私と桃井先生と黒嶋がいて、他愛もない会話をして夕暮れまで時間を潰す。非生産的ではあるが、これはこれでいい気分転換になる。ヒーローにも、時には休息が必要なのだ。
「そういやリョナ先輩、また強制取調室送りになったんですって? ウチのクラスの奴が連れてかれるの見たって言ってましたよ」
「大したことじゃない。あとその呼び方本気でやめろ」
「だって『緑十字先輩』じゃ長いですし、かといって下の名前で呼ぶのもアレですし」
「だから気にせず呼べばいいと言っているだろう」
私と黒嶋は一年前の秋に知り合った。
私がいつものように保健室を訪れたとき、部活で怪我をしたとかで黒嶋がベッドで寝ていたのだ。そのときはさして気にも留めなかったが、まさか黒嶋が部活サボリの常習犯となり、そのまま保健室の住人と化すとは思っていなかった。
教師とほどではないが生徒ともさほど良好な関係を築けているとは言い難い私にとって、あまり認めたくはないが、黒嶋は数少ない交友のある生徒だ。
だが、隙あらば先ほどの破廉恥な呼称を定着させようとしている節があるのは由々しき問題だった。
私は親指を立てた拳を傾けて黒嶋を指しながら、桃井先生に思わず訊ねた。
「桃井先生、コイツ、先生に何か不届きを働いてはいませんか?」
「働いてないですよー、寝てただけですしー。二重の意味で働いてませーん」
「うふふ。大丈夫よ、黒嶋君、いい子だから」
「そうですよー。黒嶋君いい子なんですよー」
「いい子は部活をサボって保健室でゴロゴロしたりしないと思うがな」
久しぶりの保健室だったが、桃井先生は相変わらず甘いくらいに優しく、黒嶋は相変わらず調子乗り野郎だった。
態度には出さないが安心感を覚えつつ、私は桃井先生や黒嶋と雑談を交わして放課後のひとときを過ごした。
テストのこと、今朝見たニュースのこと、夏休みのこと……他愛もない話題だが、それゆえにストレスもなく円滑に会話が続く。
……時々、考えてしまうことがある。
ヒーローであることをやめ、『普通に』生きる自分、というのはどんなものだろうか、と。
きっと教師に怒られることも、両親に諭されることも、級友に嘲られることもなくなり、無難な毎日を送ることができるのだろう。人並みの交友関係が構築され、保健室を訪れることも、次第に減っていくかもしれない。あるいは変わらず保健室には通うかもしれない、しかしその位置付けは確実に変わるのだろう。
それを『成長』と世間一般では呼ぶ。
私はそれに、真っ向から抵抗している。
あるいは黒嶋もそうかもしれない、私とてバカをやってはいるが馬鹿ではない、こいつが部活にあまり参加しないのに、多少込み入った事情があることくらい察している。桃井先生も、それを知っているからこそ黒嶋を追い払わず、こいつのサボタージュを認めているのだ。
「なあ黒嶋。お前、私のヒーロー活動についてどう思う?」
「はい? いやー、格好いいと思いますよ。だって普通できないすよ、周囲の目とか考えると」
「褒めているのか馬鹿にしているのかわからんぞ」
「両方っすよ、リョナ先輩」
「お前ちょっと表出ろ」
私たちの掛け合いを見守りながら、桃井先生がまた、楽しそうに笑う。
桃井先生が自分や黒嶋に優しいのは、自分たちが校内のコミュニティにおける不適合者だからで、養護教諭としての仕事の一環なんだろうなと、私は前々から考えてはいたが。
たとえそうでも、この時間はやはり心安らぐ。
だからこそ、この場所に通いすぎるわけにもいかないと、私は思っている。