第十八話 緑十字那由多は青春する
暴漢に追い詰められ、絶体絶命のピンチを迎えた私がいかにしてあの状況を切り抜けたのか。
これがヒーローものならば、いくらでもパターンは考えられるだろう。例えば、私に秘められた力が覚醒し大逆転とか、愛とか友情とか勇気とかそういうのを起爆剤として反撃開始とか、滅多に使わないとっておきの必殺技を披露して撃退とか。
しかしあいにく私たちが生きるこの世界は、かようなファンタジーの介入を許さない、地に足着いた構造を有していて。
私があの後、ヒロイックな活躍を見せることはなかった。
ならば私は、あのままあの男たちに口にするのも憚られるような目に遭わされたのか? そういうわけでもなかった。
――結論から言うと、私はなんとか事なきを得た。
あの後すぐに警官が駆けつけ、二人組は御用となったのだ。どうも鈍野たちが交番に駆け込んでくれたらしい。彼らにも最低限の良心はあったというわけだ。
明くる日の新聞の片隅には、『ヒーロー女子中学生、同級生を救う』などというC級感溢れる記事が小さく載り、私はしばらくの間、校内でちょっとした英雄扱いされた。
しかし、ずっと求めてきた『結果』が出たというのに、私の心はまるで晴れない。当たり前だ。結局私は、私が思い描くようなヒーローにはなれなかったし、これから先もなれそうにないということを痛感させられたのだから。
確かに、紙面では勇敢な少女扱いしてもらえたし、校内でも私の行動を賞賛する声は少なからず聞こえてきた。まどかなどは『さすが那由多先輩です!』と大はしゃぎしていた。私が鈍野たちを救ったことに間違いはないだろう。
とはいえ、今回の件で、私は周囲にあまりにも心配をかけすぎた。
警察署から解放された私を待っていたのは、号泣する母親と、怒りながらも安堵に瞳を潤ませる父親。
そして翌日には、家の前まで迎えに来た忍に思い切り引っ叩かれた。
『馬鹿! 那由多の馬鹿! 本気で心配したんだから……!』
両親を本気で泣かせてしまった挙句、親友にそんなことを言われては、私もさすがに悔い改めるしかない。
いくら数百人にヒーローと呼ばれたところで、その影で何人かの大事な人たちを悲しませてしまっていては、それは決してヒーローではないと私は思う。物語の中にはダークヒーローといって、そういったこともよしとする種類のヒーロー像が描かれることも多々あるが、それはフィクションだから許されることだ。
現実の、それも平和な日本の平和な街に生きる私には、決してそのような在り方は許されない。何より私自身が、そんなものは願い下げだ。
『――ま、あまり思い悩むなよ。結果論だけど、みんな無事で済んだんだ。この話はこれで終わり。頼むから修学旅行ではヤンチャしないでくれよ。いやマジで』
赤瀬先生にはそんな風に言われたが、思い悩むななどというのは土台無茶な話だった。
私は、ヒーローにはなれない。
ヒーローになるには、私はあまりに――孤独ではないから。
不特定多数のために尽くし戦うことは、私にはどうも、できそうにない。
そのことを、今回の一件で思い知らされた。
……だけど、どうしてだろう。
そう考えた途端、不思議と胸が軽くなったような気がしたのも事実だ。
心が晴れないようで、一方でそんな風に感じる自分がいる。
そのジレンマが、私を釈然としない気持ちにさせる。
「夢を見ることは呪いと同じ――本当にそうなのかもしれないな」
「何言ってるの。そんなことより、早く反省文書いて」
放課後の教室で、私の席の正面に椅子を置いて座っている忍が、指先で400字詰原稿用紙の端をコツコツと叩きながらそう言った。
先日、巻き込まれる形で顔を怪我した忍だったが、幸い痕が残るほど深い傷ではないらしく、今も額と口元に絆創膏を貼っているだけだ。とはいえ、私にも責任の一端があるだけに、安堵よりも申し訳なさが先に立つ。そんなことを言えば、心優しい忍は否定するだろうが、あいにく事実だ。
……窓の外の景色はすでに夕焼けに染められていて、教室には私と忍しか残っていない。
私はシャープペンシルの頭でこめかみを叩き、うーん、と唸った。
「一連の事件のすべてを齟齬のないよう読み手に伝えるためには、私のヒーロー願望のルーツから書かないといけなくなるんだが……どうしたものか」
「大丈夫。反省文に上限はないから。むしろ多く書いたほうが真摯な姿勢が伝わって先生方の心象良いよ」
「……忍、お前もそういうこと言うんだな」
「私だって人間だからね。むしろ那由多、私のことどれだけ真面目だと思ってたのよ」
机の端には、私の手によってすでに書き終えた原稿が、十枚近く重ねられている。そして忍の後ろの席には、新品の原稿用紙が数十枚、積まれていた。
……一連の事件に関して、反省文を書いて提出すること。
あとついでにしばらくの間、風紀委員会の仕事を手伝うこと。
それが、学校側から私に対し提示された、私立陽光が丘高校への推薦の条件だった。先生方には本当に痛み入る――散々迷惑をかけた私の、突然の進路変更に、なんとかして応えてくれようというのだから。
私は、私立陽光が丘高校に進学する。
それは忍と同じ高校に行きたいからというだけではないが、以前考えたような、自由な校風の学校なら気兼ねなくヒーロー活動ができるのではないかというような思惑からでもない。
少しでも上を目指してみようと、そう思ったのだ。
ヒーロー願望を言い訳にするのはもうやめよう――先日の手痛い体験を経て、私は素直にそう思えるようになった。今までは、気付いた上で気付かぬ振りをしていたあらゆることに、少しは向き合ってみよう、と。
人は痛い目に遭うことで、ようやく学ぶ。
私のこの心境の変化も、つまるところはそれだけのことだ。スペクタクルなバトルがあったわけでもなく、ドラマチックな出会いや別れがあったわけでもない。一般的な中学生の日常の範囲内で、少しばかりヤンチャして、人と関わって、友達と仲直りして、色恋沙汰に巻き込まれて、怖い目に遭って、それらの過程で色々と葛藤したりして――要するに。
私は、人並みに青春していただけなのだ。
「……あー、集中力が切れてきた」
「何言ってるのよ、期限まであまり時間ないんだから、今日中にあと三枚は書かないと」
「まったく、手厳しいな……忍は」
「いやいや、那由多が甘いだけだから」
私は親友の要求に応えるべく、シャープペンシルの先端を消しゴム跡の残るマス目に軽く触れさせる。
こういうものはある程度書き起こすことができれば、後は思いのほかスラスラと書き進めることができるものだが、うーん……。
やはり、気がかりだ。
どうしても、気がかりだ。
この頃ずっと、頭の片隅に浮かび続けているものがあって。
その引っ掛かりをどうにかしないと、反省文を書くどころではないようだ。
「悪い忍、少しだけ席を外させてくれ」
「休憩ならさっきしたばかりじゃない」
「いや、違うんだ。……私にはまだ、解決しなければならない問題が残っている」
私の声が真剣そのものなのを感じ取って、忍の表情も引き締まる。
忍は、あるいは私を試すように、静かに訊ねてきた。
「それは、ヒーローとして? それとも、那由多個人として?」
「それなんだが、どうも、わからない」
「……はあ?」
忍の呆れ顔が可笑しかったのと、この期に及んでまだ自分が『この問題』をどう捉えているのかはっきりしていない自分が可笑しかったのとで、私もまた、笑った。忍がますます怪訝そうな表情になる。無理もない。
「どういうことよ、那由多」
「どういうことなんだろうな。……あいつはヒーローとしての私をひどく軽蔑して、嫌悪していた。その一方で、尊敬もしていたという。あのときはあいつの心の機微に気付けなかった自分の至らなさもあって何も言えなかったが、今になって思えばわけがわからない。あいつを納得させるには、私はどちらのスタンスで向き合うのが正解なのか。どうも答えが出ていないんだ」
「……那由多」
忍は、私が抱える『問題』を察してくれたらしい。さすがは親友だ。
彼女はふう、と短く息を吐くと。
仕方ないやつだと言わんばかりに、微笑して言った。
「昔はよく、一緒にヒーローもの、見てたわよね。二人とも子供だったから、どうしてもアクションシーンにばかり目が行ってたけど、ヒーローものの本質って、そこじゃないよね」
忍は、私の手元にある原稿用紙を掠め取り、書き終えた原稿用紙と合わせて角を揃える作業を開始した。要するに、片付けに取り掛かっていた。
今日はもういいのか、などと野暮なことは訊かない。
ただ、自分でも半ば先が読めている忍の言葉に、耳を傾ける。
「ヒーローはその生き様がヒーローなのよ。変身しないときでも、変身できないときでも、ヒーローは常に前向きで、正義感に溢れてて、心優しくて、まっすぐだったって、私は記憶してるけど。だから、小難しいこと考えなくていいんじゃないの? 那由多はヒーローであると同時に一人の人間ってことで。変に気負う必要もなければ、格好付ける必要もない。――ましてや、その『問題』っていうのが恋愛事なら、ね」
「……どこまで知っているかは訊かないが、忍が思っているような話ではないぞ、たぶん。おそらく、きっと」
「どうかしらね」
忍がいたずらっぽく笑う。
……まあいいか。
忍がどう思おうが、私はただ、あの件以来こじれてしまって、決着の付かないまま引き摺ってきてしまった関係を、修復しに行くだけなのだから。
要するにこれも、青春の一ページだ。
あいつを探して、腹を割って話して、場合によってはぶん殴ったり、ぶん殴られたりするかもしれない。それもまた一興。
今ならあいつとも、満足の行く話ができるような気がした。
その確信を最後の最後に与えてくれた忍に感謝だ。私の親友は私なんかよりよっぽど、ヒーローに向いているかもしれない。
「とりあえず、行ってくる。すまないが忍は昇降口で待っててくれ」
「いいの? 二人で帰らなくて」
「心配せずともそんなことにはならないさ。あいつはただの後輩で、私もただの先輩なんだから」
私はそう言って立ち上がり、今校内に残っているかも分からない後輩と会うべく動き出す。これで会えたらそれはある種の運命かもしれない。
なんて言ってみたいところだが、私たちにはスマートフォンという便利なものがある。なんとも風情がないというか、無粋というか。そうと分かっていてもそれが一番手っ取り早いなどという理由でためらいなく使ってしまうあたり、私はやはり、恋愛ものの世界の住人にはなれなさそうだ。
私はスマートフォンを取り出し、黒嶋をメッセージアプリで呼び出した。
少し経って、私が送ったメッセージの横に『既読』の文字が表示される。
このまま無視してくれたならそのときはもう一発殴りに行こう。
そう思っていたのだが、黒嶋は私の予想を見事に裏切ってくれた。
スマートフォンが振動し、画面が一瞬にして切り替わる。
レスポンスがあるとしたら文面でだと思っていたら、電話をかけてきたのだ。
「――もしもし」
『……何の用ですか? 先輩』
黒嶋の怪訝そうな声。
気だるさの奥にある不安、そしてそのさらに深淵にある安堵を、私はなんとも無粋なことに感じ取れてしまう。だから私は恋愛ものの世界ではやっていけそうもないのだ。以前ならともかく、黒嶋の想いに気付いてしまった今の私には、今度こそ、彼の心の機微が手に取るように分かるのだから。
「なんてことはないさ。私と少し、話をしよう」
『どういう風の吹き回しですか……。やめましょうよ、そういうの。俺、あれだけ色々ぶちまけて、さらけ出して――今さら前みたいに先輩と顔合わせること、できないですよ。先輩が危ない目に遭ったのも、もとはといえば俺の――』
そんなことはない、私のせいだ。
今までの私にとっての模範解答は、きっとそんな感じ。
しかし私は、フウッ、と息を吐いてから。
「そう思うんだったら――」
自然と満面の笑みがこぼれるのを自覚しながら、こう言った。
「――責任を取る代わりに、私の話を聞いてくれてもいいんじゃないかな」
『――っ』
……ああ、やっぱり、私にヒロインは務まらない。
黒嶋とちゃんとした対話に持って行くために、黒嶋が心情的に、絶対に断れないであろう言い回しを意図的に用いた。なんてかわいげのない女なんだろう。
――だけど。
そんな私だからこそ、黒嶋は。
好きになると同時に嫌いになり、嫌いになると同時に好きになり。
愛すると同時に憎くなり、憎くなると同時に愛しくなったのかも、しれない。
『ずるいですよ、先輩』
「惚れた弱みくらい受け入れろ」
『……そういうこと、本人に直接言っちゃいます?』
「それが私だ。お前とて分かっているだろう。言っておくが、私はお前との接し方を変えるつもりは断じて無いぞ。だからお前も私に対し遠慮するな。後ろめたさを感じるな。気まずかろうが空元気を出せ。……私は、そうしている」
黒嶋がハッとしたのが気配で分かる。
まったく、分かりやすい奴だ。
『あなたという人は、本当に――』
「文句ならいくらでも聞いてやる。なんといっても、私は――」
『ヒーローだからな、でしょう?』
「お前がどう思おうが、私は私だ」
肯定しているようでも否定しているようでもある返し。
本当のところはどうなのか。
忍は、難しく考える必要はないというように言っていたが。
それでも私は、通学バッグの中に未だに入っている仮面とマフラーを、思わずチラリと見やっていた。
推薦取り消しが怖いので、少なくとも残りの中学生活でこれらを堂々と身に付けることは、もうないだろう。
ただ、最後にもう一度だけ、私は『変身』したいと思う。
どういうことなのか自分でもよくわからないが、これから黒嶋と直接会って話を付けなければならないと思うと、このままで相対することにためらいを感じずにはいられないのだ。
仮面で素顔を隠さないと、どうにも落ち着いて話せそうにない。一体全体、これはどういうことなのか。
――まあいいさ。
恋なんていう混沌としたものは、それこそヒーローものでいう敵怪人みたいなものだろうからな。
『仮面セーラー』はこれで完結です。
少し短くも感じますが、書きたかったテーマはここまでですべて描き切ってますし、ここから続くエピソードも一応構想自体はあるのですが、蛇足にしかならないと思ったので、緑十字那由多という少女の物語を描くのはここまでにいたします。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!
また別の小説でお会いしましょう!




