第十七話 ヒーロー闇夜を彷徨う
季節が夏に巻き戻ったかのように暑い。
冷房はあまり好きではなかったが、使わないと眠れそうになかった。扇風機があればよかったが、あいにく庭の物置にしまっている。
私は悶々と寝返りを繰り返し、午後十時を過ぎたところで、ふと思い立った。
「……散歩でもするか」
散歩。
牧歌的な響きだが、中学生の私がこの時間に出歩けば、それは巷では深夜徘徊と呼ばれる。
七色市は平和な街だが、深夜の女子の一人歩きにはもちろんリスクがあるし、補導される可能性もある。それに今日、あんなことになったばかりで警察のお世話になれば、自分の悪評は決定的なものになってしまう。
そうなると陽光が丘高校への推薦は……いや、これはすでにフイになっているか。
そう考えるとなんだか気が楽になって、私は腹を括っていた。
ベッドから抜け出すとパジャマから私服に着替え、ポケットに財布とスマートフォンだけ突っ込んで。
「…………」
少し迷ってから、通学カバンの中の仮面とマフラーを取り出し、私物のショルダーバッグに移し替えて、忍び足で部屋を出た。
□
駅近くの繁華街はきらびやかで、街は私の知らない顔を見せていた。
白々しいほどに明るい街。
白々しいほどに楽しげな人々。
偽物じみた景色は、しかし異様によく出来ている。
私はその中に紛れて歩く。
幸い背が高いのもあって、中学生には見られていない……ように、思う。
さすがに少し緊張しながら、私はあてもなく歩いた。
適当に歩き回って、疲れたらこっそり帰宅して寝る予定なので、本当にあてもなく、だ。
……私は何をしているんだろう。
いくら寝つけないからといって、親の目を盗んで夜の街をぶらつくような趣味はなかったはずだ。
今日はいろんなことがありすぎたからか、それとも、この暑さのせいなのか。……いや、両方か……。
ますますヒーローから剥離してるな、と私は自嘲の笑みを浮かべた。向かいから歩いてきた中年サラリーマンが訝しげな表情でこちらを見てきたので、すぐにかき消したが。
しかし、こうして未知の光景を見ていると、自分の世界がいかに限られていたかをしみじみと感じる。
ご機嫌な学生たち。
疲れと安堵の混じったサラリーマン。
親密げな男女。
不良らしき派手な意匠の騒がしいグループ。
昼間とでは彼らの表情もテンションも違い、したがって、そこから受ける印象も違う。
……だがそれは、この街に限らない。
自分にとっての最も身近な世界、すなわち七色中学校もそうなのだろうと、私は思い至っていた。
まどかに隠された本性があったように。
好青年に見られている鈍野に嫉妬深く執念深い一面があったように。
……黒嶋が、自分への想いを秘めていたように。
人物だけではない、物事もそうだ。
そんなこと、自分はわかっていたはずだった。なのにいつからだろう、そんな当たり前のことを、見失うようになったのは。
――なんて。
「……駄々をこねているだけなんだろうな」
私は呟く。
気持ちが落ち着いたら、帰って寝よう。
明日には親と一緒に謝罪にいかなければならないだろうが、甘んじて受けよう。
忍とも、ちゃんと話さなければ。
……できるならば、黒嶋とも。
そんなことを考えながら歩いていた私は、驚くべきものを目の当たりにする。
「――!?」
ファストフード店から出てきた、三人の少年たち。
私服姿なのですぐにはわからなかったが、それは、鈍野純とその友人たちだった。
気付かれると面倒だ。
私は咄嗟にそう判断し、看板の影に隠れて様子を窺った。
鈍野たちは歓談しながら、通りを私がいるのとは逆側に進んでいく。
私はその背中を追うことにした。
「常習犯だな、あいつら」
この異界じみた夜の街に、気後れしたり舞い上がったりしている様子がない。
少なくとも数回は、このような時間帯にこんな場所をうろついているに違いなかった。まあ、一回か複数回かの違いなんて五十歩百歩、自分にはとやかく言えないが。
私はスマートフォンで時間と、今のところ誰からも着信がないことを確認した。
……あまり深追いしてもいいことはなさそうだが、今日あんなことがあったばかりで夜遊びができる鈍野の神経に思うところはあったので(これに関してもとやかく言えはしないが)、もう少し付いていくことにする。
雑踏の中耳を澄ませてはみたが、鈍野たちの会話は聞こえない。
今日の件は話題に上がっているのだろうか。
そんなことを考えながらストーキングを続けていると――厄介なことが起きた。
「何をやってるんだ、あいつら……」
私が見ている前で、鈍野たち三人が明らかに不良といった容姿の男二人に絡まれたのだ。
高校生くらいだろうか、茶髪にピアス、着崩した服という絵に描いたような不良。
バスケ部員である鈍野たちのほうが背は高いが、体つきは相手のほうがガッチリしている。無理もない、中学生と高校生の差は大きいのだ。何より、鈍野たちが萎縮しているのが背中を見るだけでわかる。
肩でもぶつかったのか、いいカモがいると思われたのか。何度も深夜徘徊をしていたようなので、前々から目を付けられていたのかもしれない。しかし、それはどうでもいい。
重要なのは、二人組によって鈍野たちが路地裏に追いやられたという点だけだ。早い上に目立たない。明らかに手慣れている。鈍野たちは、厄介な連中に目を付けられたようだ。
……自業自得。
そう言うほかなかった。
そして私に彼らを助ける義理はない。
鈍野は、忍が傷つき友人が病院送りになる間接的な原因でありながら、喉元過ぎてすらないこのタイミングで別の友人と遊び呆けている。
私が、自分も深夜徘徊をしていたということを知られてまで、何より我が身を危険に晒してまで、彼らを救う必要などないのだ。
しかし。
「……どうしてよりによって私の目の前で絡まれたんだ。そんなの、助けるしかないじゃないか」
私は、長くは迷わなかった。
バッグから取り出した仮面とマフラーを素早く身に付け、路地裏に駆け込む。
……セーラー服姿じゃないから『仮面セーラー』じゃないし、ただの変質者みたいだな、と私は場違いに考えた。
実際はいずれにせよ変質者みたいなのだが。
□
「お前たち、何をしている!」
私は叫び、路地裏で鈍野たちに詰め寄る二人組を制止する。
彼らはギョッと驚いた顔をこちらに向け、それからすぐに、狐につままれたような表情になる。
舞踏会で使うような仮面と、まだ季節的に早い冬物のマフラーを身につけた女が現れたら、誰でもそんな顔になることだろう。
しかし、仮面女の正体を知る鈍野たちのほうは、また趣の異なる表情を浮かべていた。
「!? 緑じゅ――」
「おいやめろ。個人情報を漏らすな」
「え、あ。わ、悪い」
私は自分の名前をバラしかけた鈍野を制止し(珍しい名字なのですでに若干手遅れの感はあったが)、さらに一歩、進み出る。
二人組の胸を主に占める感情が、驚きから警戒に変わった。
「なんだ、テメエ」
「頭イッてる系じゃね、コレ」
短髪の男がガンを飛ばしてきて、長髪の男が軽薄に笑った。髪型以外は、どちらもチャラチャラとした顔と服装で似通っている。
私は男たちを睨み付け、静かに諭した。
「私は、ここで何をしていると聞いたんだ。私の目には、お前たちがそいつらをこの人目に付かない路地に追い立てたように見えたが、見間違いの線もあるので確認した。どうなんだ?」
男たちは一瞬、チッ、と小さく舌打ちしてから、生理的嫌悪感を覚えるような、にんまりとした表情を浮かべてこう返してくる。
「んなわけねーだろ。なあ」
「そーそー。俺ら、弱いものイジメとか大嫌いだもん。遊んであげようとしてただけー」
私は目を細め、内心でもはや感心に近い呆れを感じていた。
――本当にいるんだな、こんな連中。
七色市は平和だと思っていたが、それも今までこういった世界に関わってこなかったからに過ぎないのかもしれなかった。
「嘘をつくな。目が笑っているぞ」
「だってオネーサン、イタいもん。正義の味方のつもり? だったらやめたほうがいーよ、頭沸いてるように見えるから。あ、沸いてんのかな?」
私はもう一度。
もう一度だけ、繰り返した。
「正直に話せ。そしてそいつらを帰してやるんだ」
「だぁかぁらぁ、俺たちは何も――」
瞬間。
私は、短髪の男にバッグを投げつけていた。ハンマー投げのように思いきり、だ。
「うおっ!?」
自分の胸に飛んできたバッグを、男は反射的に両手で受け止めていたが。
その間に私は、路地裏に放置されていたスクラップ寸前の自転車を持ち上げ、男たちめがけて全力で放っていた。
「うあっ!?」
「今のうちに逃げろ!」
私が促すと、鈍野たちは脱兎の如く大通りへと逃げていく。
私もそれに続こうとしたが、しかし。
「テメエ!」
バッグと自転車の二連投で足止めを食ったのは、少し前に出ていた短髪の男のほうだけだったようで、長髪の男は、私の左腕をがっしりと掴むことに成功していたのだ。
俊敏で、力も強い。
いくら私が基礎体力や運動神経に恵まれているといっても、所詮は女子中学生。
高校生か、あるいはそれ以上かもしれない男性とでは、根本的な造りが違っている。現に――振りほどけない。
「っ――!」
私は、掴まれていない側である右の拳を握り締め、男が左腕を引っ張ってくる力も利用して、振り返りざまのストレートを放った。
目を見開いた男の鼻っ柱に炸裂。
硬い骨の感触に顔を歪め、続いて触れた生暖かいヌルヌルにまた顔をしかめ。
しかし私は、拳を振り切っていた。
「……!」
左腕を掴む力が緩む。
その隙を逃さず、私は男の最大の弱点、すなわち股間を、左足の甲で蹴り上げていた。
「ウゴッァ……!? ~~~~!!」
小動物を蹴ったような後味の悪い感触。
私がジムで習っている格闘技――キックボクシングに金的蹴りは存在しない。というより反則である。
しかし、女子が男子との体重差・体格差を覆して勝つには、有用な手段のひとつだ。
実際、長髪の男は薄汚れた地面に膝から崩れていた。しばらくは立ち上がれないだろう。
「フゥッ――、」
私は息を吐きながら、チラリと大通り側を振り返る。
鈍野たちの姿はもう見えない。
助けを呼んでくれるかは――わからない。期待はすべきではない。
なら、自分もこの隙に逃げるべきか。
私はそう考えたが、自転車をはね除けた短髪の男が、それを許してはくれなさそうだった。
「ルァッ!」
ラとルの中間のような咆哮。
短髪は、どっしりと腰を落とした構えから、真っ直ぐと拳を突き出してきた。
空手か?
さっきの長髪はスポーツをやっていそうなタイプの体つきの良さだったが、こちらは武道でもやっていそうなタイプの体つきの良さなので、少なくとも何かしらはやっているのだろう。
まともにやりあえば負ける。
油断でもしてくれればいいが、相棒が惨めに転がされている以上、それはまあないだろう。
ならばこの一撃を凌ぎ、なんとか怯ませた上で逃げるしかない。
「……ッ!」
私は両手を顔の前で掲げたキックボクシングの構えを取り、腕で一撃を受けた。
予想以上に重い。
私はそのまま、数歩、よろめくように後ずさってしまった。
拳を受けた左腕が、熱く痺れている。
指が少ししか動かなくなっていることに今、気付いた。
やはりこの男、格闘技の経験者だ。
それも恐らくは黒帯。つまり段持ち。
対する私のキックボクシングは、あくまでもヒーローとしてのたしなみであり、その域には至っていない――
「ッラア!」
私が体勢を立て直すよりも先に、男は左の拳をショートアッパーぎみに、私の脇腹に打ち込んでいた。
「あうっ……!」
思わず涙目になるような、重く鈍い痛み。
……ガードすら、間に合わなかった。
私の動きが止まる。止まってしまう。
そして、この間合いでの肉弾戦において、その隙は、致命的だった。
「!」
あっという間にその場に組み伏せられ、馬乗りになられてしまう。いわゆるマウントポジションだ。
私はすぐさま、手の先に転がっていたコンクリート片に気付き、それを掴もうとしたが、男はそれを先読みしてコンクリート片を払い飛ばした。
肘の上に膝を乗せられる。びくともしない。
続いて、パァン、と勢いよく、仮面を払いのけられた。
仮面は雑居ビルの壁に当たって跳ね返る。
私は素顔を、真上の男に対し晒すことになってしまった。
「まだガキじゃねえか」
男は驚いたようにそう言ったが、その表情はすぐに薄笑いに変わっていた。
「でもまあ、よく見れば可愛い顔してるな」
――えっと。
これは、もしかすると、とんでもないピンチなのではないだろうか?