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第十五話 いろんな恋のかたち(その③)

 三十分ほど前に職員室から解放された私は、それからずっと生徒昇降口にいた。

 まだ完全下校時間は遠いが、早めに活動を終えた部(バスケ部時代の友人が、『意識低い系クラブ』と呼んでいた)の部員たちが、そんな私を怪訝そうに見ながら帰っていく。

 私は人を待っていた。

 待っている相手は二人。二人組ではなく、一人と一人だ。要するに私は別々に行動している二人それぞれに用があるのである。

 一人は、当初から待っていた人物、すなわち一緒に下校する約束をしていた忍だ。

 問題は残りの一人。

 黒嶋だ。


「……うまくいくかな」


 柄にもなく、不安が口に出る。

 しかし、もう決めていた。

 ヒーローであるべき自分が間接的な原因となり、校内の平和を乱す事件が発生した。問題は、黒嶋と鈍野の一年以上の長きに亘る因縁は、ただ一度殴り合ったくらいで解消されるようなものではない、ということだ。

 鈍野はまだ憎悪の炎を燃やしているだろうから、放っておくとさらに激しい衝突が起きかねない。そうなると、どちらか、あるいは両方が大きな怪我をする可能性もある。そうならないよう、止めなければならなかった。

 そして、下駄箱に上靴がなく、スニーカーが入れられたままであるという時点で、黒嶋がいずれ現れるのは確定事項だった。

 私は、黒嶋が上靴を脱ぎ、スニーカーを履き始め、靴紐を結んでいる最中に下駄箱の陰から飛び出した。

 上靴を履いていたら校内に逃げられるかもしれないので、あえてタイミングを遅らしたのだ。


「黒嶋!」


 スニーカーを履き切っていない黒嶋は、すぐには逃げられない。無理に逃げようとしても、容易に止められる。

 そう考えていたのだが、黒嶋は驚きこそしたものの、逃走を試みはしなかった。

 小さく嘆息すると、どこか冷めた目でこちらを見て言う。


「……なんですか、緑十字先輩」

「なんですかじゃないだろう、わかっているはずだ。……鈍野にどんな因縁を吹っ掛けられたかを聞きたい」

「……わかっているはずでしょう。俺が昔あいつに歯向かったことも、あいつが俺と先輩が親しい間柄だと勘違いしてることも」


 黒嶋は、頬にあてた大きなガーゼを爪で掻く。もしかしなくても、私が殴った箇所だ。しかし黒嶋は殴られたこと自体は、さして問題にしていないようだ。


「それは下地だろう。私は火薬の種類を聞いたんじゃない、何で以って着火したのかを聞いている」

「ただ単に機嫌が悪かったんでしょうよ。先輩にフラれたのもあって」

「……知ってたのか」

「あいつが口走ってたんすよ。『なんで俺の告白はまた一蹴されたのに、お前なんかが緑十字と仲良くしてやがるんだ!』とかなんとか」


 黒嶋は嘲笑を浮かべる。

 基本的に、黒嶋は軽薄な皮肉屋だ。

 鈍野がバスケ部において強権を振るっていたのは事実だが、黒嶋もそれに対し露骨に否定の態度を取りすぎた。爪弾きにされるべくしてされたようなものである。このあからさまな嘲笑を、見過ごせる先輩はそうはいないだろう。だけど。今の黒嶋は、そこはかとなく、哀しげだった。


「告白失敗の腹いせに前々から気にくわなかった後輩に喧嘩吹っ掛けたなんて格好つかないんで、教師には話してないでしょうけどね。取り巻きや後輩には、もっともらしい大義名分を持ち出して俺を悪者にしたんでしょうけど」

「……その程度か。なら、なぜお前はあんなに興奮していたんだ?」


 私の言葉に、黒嶋がスウッ、と目を細める。彼の感情の機微に気付かない私ではないが、構わず続けた。


「一年耐えてきただろう。一年前ならともかく、今のお前は多少のことならやり過ごしていたはずだ。だからこそ、あんなに激昂していたのが腑に落ちない」

「……別にいいでしょう。俺にだってそういうときはあります。先輩も月に一度ほどあるでしょう?」

「誤魔化すな。あと今のは素で引いたぞ」


 男子が女子と話すときのタブーの一つに確実に数えられるであろうテーマである。さすがの私もいい気分はしない。今がずばりその日だったら、叱りつけていたかもしれなかった。

 しかしまあ、それはさておき。


「鈍野に何を言われた? あるいはされた? お前があそこまで我を忘れたんだ、よほどのことだったのだろう」

「それを知ってどうするつもりですか」


 自分にも遠因があるからなんとかしたい、というのは個人的な事情だ。

 ヒーローたるもの、そんな動機を事件の被害者の前で語るわけにはいかない。

 そんな考えから、私は淀みなく答えた。


「ヒーローとして、この件が後に尾を引かないよう対応したい。そのためには、お前の怒りの理由を知る必要が――」

「――またヒーロー、ですか」


 黒嶋は。

 低く、どこか澱んだような声で呟いた。

 私が今まで見たことのなかった、黒嶋の闇の深い部分。

 ……彼を侮っていたかもしれないと思った矢先、不満を隠そうともしない声音が響く。


「ヒーローヒーローヒーローヒーローって馬鹿の一つ覚えみたいに。いつだってそうだ。緑十字先輩、先輩はヒーローじゃない素の自分で、何かをすることはできないんですか?」

「……何が言いたい」

「あなたはヒーローって言葉を、概念を、盾にしすぎてるってことですよ。あなたの理想は素敵だと思いますし、そのためにあなたが努力していることくらいわかる。でもあなたは、他ならぬ素のあなた自身で臨まなきゃいけない事態にも、向き合わなきゃならない感情にも、『ヒーローとしての自分』で対応してしまっている」


 黒嶋は。

 ダムが決壊したかのように喋る。

 積もりに積もった、しかし外に出さずにずっと溜め込んできた思いを、考えを、気持ちを。

 黒嶋は、私に対し苦々しげに吐き出し続けた。


「先輩はいつだって仮面を付けてるんですよ。今だって。忍さんでしたっけ? あの人に対してすら、そうなんじゃないですか?」

「違う! 私が忍にそんなことをするわけがあるか!」

「なら、忍さん以外にはそうなんですね?」

「……ッ、揚げ足を取るな……!」


 そうだ。

 ヒーローで在りたいから。

 そのために、なりたい何かのために、常日頃から心構えることの何が悪い。

 ……そう頭に思い浮かべても、本当はわかっていた。黒嶋が何を不満にしているのか。わかって、しまっていた。


「……俺は、俺は……先輩のことを、馬鹿なことしてる痛い人だなあって思ってましたよ。いや今もそうです。でも、あなたは、格好いいんだ。正しいし、強いし、まっすぐなんだ……」


 黒嶋は、拳を強く握り締め、目頭を潤ませながら叫んだ。

 私には、黒嶋の向こう側、下校しようとやって来た生徒が、痴話喧嘩の現場に遭遇してしまった、というような驚愕と気まずさをいっぱいに表した表情を浮かべて引っ込んだのが見えたが、今はそちらに構っているわけにはいかない。


「でも! それはわかります、わかりますが――あなたはヒーローである以前に緑十字那由多っていう人間でしょうが! だから、その……えっと……ええいもう! 言わせていただきます! 鈍野の野郎は、あなたを侮辱したんですよ!」


 普段の黒嶋とは違う、まとまりのない文脈。

 しかし、それゆえに、彼が本気なのがわかる。喋っているうちに、感情のコントロールがきかなくなってきたというのもあるのだろう。

 彼は、鈍野が言ったという侮辱の言葉を思い出しているのか、わなわなと震えていた。


「口にするのも憚られるような酷い言葉を並べ立てて、アイツは先輩を侮辱したんだ! フラれた逆恨みで! ……ああ、言いたくなかったですよこんなこと! でも先輩はきっと、アイツが何を言ったのか俺が事細かに伝えても、ヒーローとして動くんでしょうね。俺はそれが、鈍野の暴言と同じくらい我慢ならないんですよ……!」


 黒嶋の目から、涙が伝い落ちる。

 小さい頃は、物理的な要因で男子をよく泣かせたが、それとはわけが違う。

 私は、嘘でもなんでもなく、圧倒されていた。

 思いがけない黒嶋の本心に、愕然としていたのだ。


「俺は知るのが怖かったんです。先輩が、自分が侮辱されたことを知ってもなお、私情ではなくヒロイズムで動く人間だってことを。ああクソ、俺はヒーローとしてのあなたを尊敬しながら、怖い危ない気持ち悪いとも思ってる。苛々するんです。なんでそんなに正しく在れるんだよ、強く在れるんだよって。なにより俺自身が、どこまでいってもヒロイズムを追求するであろうあなたを、生理的に受け入れられないだろうってわかってたんです。だから」


 黒嶋は。

 自嘲たっぷりに、こう言った。


「俺にはあなたを愛する資格がない。そう思い知らされるのが怖かったから、シラを切り通すつもりでいたのに……あなたの発言にムキになって、こうして墓穴を掘ってしまった。それはつまり、俺はそれだけ、ヒーローを貫くあなたに対する嫌悪感が強いってことで……ははは、やっぱり、愛する資格がないってことでしょうね」



 校則に忠実すぎるほど忠実な女、風紀委員長・紫山忍は、当然、携帯電話を校内に持ち込んでなどいない。ゆえに、校内でもスマホがあるという状態に慣れている私からすれば、忍との連絡手段としてスマホが使えないのは不便以外の何物でもなかった。

 最も親しく関わることも多い人物と、最も長く過ごす場所で、最も便利な交信手段を使えない。なんともおかしな話だ。

 私は生徒昇降口で一人、忍を待ちながら、そんなことを考えている。

 ……黒嶋は、十五分ほど前に去っていった。

 『すいません、余計なこと、喋りすぎました。忘れてください』などと、無理なことを言い残して。

 ……すでに私はすべてを理解している。

 喜ぶべきか悲しむべきか、こんなときでも頭の回転は鈍らなかった。

 私が出した結論は、自分は黒嶋を侮りすぎていた、というものである。

 黒嶋は、鈍野がしようとして失敗した『妥協』を、私にすら悟らせないレベルで成功させていたのだ。

 つまり黒嶋は、自らの恋心を隠し通してきたということである。桃井先生やまどかに気があるように見せていたのは、カモフラージュ。表面的に自分自身を騙すくらいはしていたかもしれない。

 彼がそこまでした理由は、彼自身が語った通り。

 私に対する、尊敬と軽蔑の入り雑じったような複雑な、折り合いのつかない感情が、常に渦巻いていたからだ。

 そう考えると、これまでの彼の態度もわかる。……きっと彼は、その愛憎を、私に一生涯語るつもりはなかったのだろう。


「まったくもって馬鹿な奴だ。一人で葛藤して一人で結論を出して、そんな自己完結は愛とは呼ばないぞ。それはな」


 私は、夕焼け空を見上げながら呟いた。


「――ただの偶像崇拝(あこがれ)だよ」


 そしてヒーローとは、偶像でなければならない。

 ……私は強くないよ、と、いつかの問いに胸の内で答えを返す。黒嶋のとんだ認識違いだ。

 しかしあるいはそれも、彼の苦悩の原因だったのかもしれない。

 愛する人の本当の姿をまるで知ることができない自分と、知らせない私に対する焦りと苛立ち。

 ……お前だって本心を隠していたくせに、と思ってはみても、それは卵が先か鶏が先かの堂々巡りになるだけだ。

 いずれにせよ、これで今回の件、自分が原因であるということはハッキリした。

 一人の女を巡って二人の男が争う。

 ははは、なんだこれは、これではヒーローではなくヒロインではないか。

 私は乾いた笑いを漏らす。

 ヒーローどころかトラブルメイカーだと言われたことは何度もあったし、そう自覚せざるを得ないような空振りや失敗もあった。

 しかし、忘れていた。

 まどかのような理解者が現れたり、忍と仲直りしたり、それらが原因で少しだけ周井の評価が変わったりしたことで、その苦味を忘れていたのだ。思っていたヒーローと違うなどと贅沢な悩みを抱きながらも、悪からず思っている自分がいた。増長していた。一種の達成感すらあった。

 今回の件も、容易に解決できるとたかをくくっていたに違いない。そうは思いたくないが、そうとしか考えられない。無意識のうちに私は自分が、枠組みから外れて高みにいるような錯覚に陥っていたのだ。

 ……ああ、なんてお笑い草だ。

 この無様で滑稽な女の、どこがヒーローなのだろう。

 私は、噛み殺したように笑い続けた。

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