#90 蓬色の方程式
「……ったく、なんでこっちが慰める側になってんだよ」
「だがどじぃ……」
溢れる思いを堰き止めていた壁が、崩壊した。流れ出す気持ちが抑えきれない。
「全く、お前というやつは俺がいないとどうしょうもねえな」
「……うるさい」
「ははは。でも、まあ、助かった。お前が来てくれて、話せたおかげで、ちょっと気分が楽になったよ」
私の頭がそっと撫でられる。とても気持ちよくて、安心する。
「明日、一緒に学校に行ってくれるか?」
「うん」
「……そっか。ありがとうな」
……どうしよう。え、マジでどうしよう。
さっきまでは比較的感情に左右されてたからなんともなかったけどさ、けどさ、
めっっっちゃ気まずいんですけどっ!
「なあ、紀香」
「ど、どうしたの?」
なんかちょっと神妙な雰囲気で、ベッドに二人並んで腰を掛けてるんだけど、これどういう状況なの!?
「よく、さ、信じてくれたよな」
「なにが?」
「さっきの話。あんなバカげた話をよく信じたなって」
「えっ、嘘なのか!?」
声を荒げてそう尋ねると、ちょっと声を大きく出しすぎたようで隆俊が耳を抑えて顔をしかめた。
「いや、嘘じゃないぞ。ただ、あんな話をよく信じてくれたなあって、そう思って」
「うーん、なんていうかさ、嘘かどうかなんて考えてなかったのもあると思うんだけどさ」
私は口に手を当てて、少しふわっとした感覚になんとか言葉を与えようとしてみる。どう言い表すんだろう。
「こう、隆俊だし、嘘つく意味とかあるかな? っていうような、そんな感じがあったのかもね」
「……ばっかじゃねえの? 俺が嘘をつかない確証もないのにさ」
なんとなく、ムッとする。ただ、そのいらだちはどちらかというと私がバカにされたというものに対するものではなく、隆俊が隆俊自身を貶したかのように発言したものに対するものだった。
「それもそうだけどさ、それでも、私は隆俊のことを信じてたいってそう思う。だって、隆俊は友達だから」
「友達だから、それだけの理由で信じるのか?」
「うん。だって、友達ってそういうものじゃん」
仮に、隆俊が嘘をついたとして、それにはきっとなにか理由があるだろうから。そうするべき理由があるだろうから。
「変なやつ。まあ、お前らしいっちゃお前らしいけど」
隆俊は、そう言いながら、笑った。こんな笑顔久しぶりに見た。
***
紀香が帰った。ドアが閉じる音とともに、どっと疲れがやってきた。
「うっわあ、マジか、すげえな……」
ははは、ほんと紀香ってやつは、
人が長年悩んできたものを、簡単に壊しやがる。
友達だから、ただそれだけの理由でこうまでできる人間がいたとは、な。
……これからは、紀香にも相談できる。そりゃあできるなら、相談しなくてもいいようにはなりたいけど、でも、拠り所が一つ増えたってことが、俺にとってのこの上ない安心感を生み出した。
その相手が、紀香だからってのも、あるんだろうが。
昔からつるみ続けてきた、腐れ縁のアイツだから。
ぱたり、その場に座り込む。しばらく立ち上がる気も起きない。
「帰ったのね、紀香ちゃん」
「姉ちゃんか……」
後ろから声がして、俺はゆっくりと体を反転させた。
「その、……いろいろと悪かった。姉ちゃん」
「いいのよ。むしろ、私こそ何もしてあげられなくてごめんね」
どうしてか、姉ちゃんが罰の悪そうな顔をする。
「いいや、姉ちゃんが俺にゲームを教えてくれたからこそ、今の俺がいるんだ。何もしてもらってないなんてことはないぞ」
「でも、そのせいで隆俊のことをゲーム依存症にしちゃったんだよ? きっと、もっと他の方法もあったはずなのに」
うつむきながら、姉ちゃんはそう言う。もしかしたら、ずっと、姉ちゃんはそういうことを考えていてくれていたのか……。
俺は首を振り、言う。
「ううん、俺はむしろ、教えてくれてありがたかったよ」
どう言えば、伝わるんだろうか。頭の中でいろいろな言葉を巡らせて、言う。
「教えてくれたおかげでさ、俺は今、すっごい楽しいよ。あっ、でもまあ、他の人には迷惑かけてたりするのかな……」
しまった、最後の言葉はいらなかったか。
少したじろぎながら、姉ちゃんの様子を伺う。
「うん、そうだね。たしかにちょっと迷惑かけてるかもね」
ぽろ、ぽろ、
「ぐっ……」
「でも、ね、隆俊が楽しいと思ってくれてたのは、とってもとても! ……よかった!」
ぽろぽろと姉ちゃんの瞳から大粒の涙が流れ始めた。
「私、ずっと、不安で。隆俊が、生きることを、毎日のことをちゃんと楽しんでくれてるのかなって。私が、したことが、あなたの枷になっちゃってないかなって」
「……大丈夫。大丈夫、安心して。姉ちゃんが俺に教えてくれたゲームってのは、意外と周囲の人との繋がりのきっかけにもなるし、思っている以上に、ずっとずっと楽しいよ」
グシャグシャの顔を手で拭い、姉ちゃんは笑った。
「そっか、うん、そっか……!」
泣きながら、笑った。とてもいい笑顔で。キラリと光る涙が、その笑顔を彩りながら。
とてもとても、いい笑顔。
「ねえ、隆俊」
「どうしたんだ? 姉ちゃん」
「一緒に、ゲームしよっか」
フッ、と。俺は笑った。
「ああ。でも、手加減はしないぞ?」
「ふふ、私のこと舐めてるみたいだけど、あとで後悔しないようにね?」
ふぁぁ……、眠い。まさか、姉ちゃんが「私が勝つまでやるの!」と、深夜まで続けることになるとは。
でも、楽しかった。
朝食は食べたが、まだしばしばする目をこすりながら、制服のシャツに腕を通す。
ピンポーン、音がなったかと思うと、すぐさま窓の外から俺の名前を呼ぶ、大きな声が聞こえてくる。
「隆俊、紀香ちゃん来たわよ!」
「わかってる、今行く!」
姉ちゃんに返事をして、久しぶりにカバンを背負う。ちょっと重い。
トン、トン、トン、降り切ると、そこには姉ちゃんがいた。
「やっぱりいい子ね。紀香ちゃん」
「ああ、いいやつだよ。本当に」
そのまま姉の前を通り過ぎ、靴を履こうとしたとき。
「……で、いつかしら?」
尋ねられた。いったいなんのことなんだろうか。
「なにが、だ?」
「なにって、結婚」
「……へ? いや、……は?」
あっけにとられ、固まっていると、姉ちゃんが笑い始める。
「あっははは、冗談よ、冗談。……でも、そうなんでしょ?」
「いや、別にそんなことは……ぐぬぬ……」
からかいか? それとも本気で言ってるのか……?
「さて、きっと待ってるわ。引き止めて悪かったわね」
姉ちゃんは、ニコッと笑って、言った。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
俺も笑って答え、そして扉に手をかけた。
ずっと休んでいたから、学校に行くのに怖さがないといえば嘘になる。
でも、待っていてくれているから。
「おはよう!」
「ああ、おはよう!」
「よし、それじゃあ行くぞ! 隆俊!」




