#4 少年少女はない事実を追求される
「おはよー」
教室の中に気の抜けた挨拶が走る。声の主を探すと、私が知らない人だった。いや、この表現はおかしい。おそらく昨日の私は知っていただろう人物だ。
「氷空。おはよう」
遠野くんがわざとらしく名前を呼んで応答をする。彼はこちらにサッと視線を向けながら言ったところを見ると、やはり意図的なものはあったのだろう。
ちなみに彼の名前は、どうやら氷空というらしい。やはり記憶にない。
「あー、氷空? いちおう橘にもう一度名前を教えてやれ」
どうやら私がわかっていないのに気づいたようで、遠野くんがそう促した。
「ああ、うん。わかった! 俺は笹原 氷空! 改めてよろしくね! 橘さん」
「よろしく……ごめんね。覚えられなくって」
私はバツが悪そうに言った。きっと面倒に思われてるから。
私がそう言うと、彼は笑って答えてくれた。
「全然いいよ! 誰にだって苦手なことってあるし。というか、そんなこと気にしてたの?」
苦手なこと……あんまりそうは考えたことなかった。
横からは小さく、「こいつは良くも悪くもバカだから、あんまり気にしてないと思う」という遠野くんの小さな声が聞こえた。
「そう……なの? わかった。笹原くん」
本当にそう思われているかはわからないけど、とても嬉しかった。そう伝えると、彼は補足のように言葉を付け足した。
「あ、俺、お姉ちゃんいるから、間違えないように氷空の方で呼んで!」
そうなのか。昨日の私はそのことを知っていたのだろうか。
話がひと段落したと思うと、氷空くんがなにらや深刻な顔をしていた。
「でね、葵」
「はぁ……なんとなく想像はつくが、いちおう聞こう。どうした?」
遠野くんが適当に返すと、氷空くんはとても嬉しそうな顔をして言った。
「今日もお姉ちゃんマジかわいかった」
「………………そうか、よかったな」
笹原 氷空:シスコン
「もうさ、なんで姉弟なのっ! てくらい。もう……姉じゃなかったら速攻で告白しに行ってるのに……」
そう言って、氷空くんはどこか遠くを見つめていた。
「いっそのこと、義理の姉だったら良かったのに……」
どうやら彼は相当に自身の姉のことが好きらしく、私は報われない恋というものを目の前にして苦笑いしかできなかった。
午前中の授業が終わった。内容はほとんど頭に入ってる。どのみち寝たら忘れるんだけど。
今まで、試験やらテストやらは、当日の朝に一気に復習していた。記憶力自体はいいみたいで、さっと見ただけでも、それなりに覚えることができた。やっぱり寝れば忘れるんだけど。
とりあえず今日は昼ご飯なしのはずだから、帰る準備を……
「橘。昼ご飯食べに行くぞ」
へ? 今日はお昼なしの……短縮授業では?
「なにキョトンとしてるんだ。行くぞ?」
遠野くんの手には、2つの弁当箱があった。
「おいしい……」
ポロリと本音がこぼれ落ちた。
なるほど。昨日の私がねだったのか。にしても、
「食べる前からおいしいって……」
私の呟きに遠野くんがそう言った。しかし、仕方ないだろう。これは。
なんて、おいしそうな匂いなんだ。これなら昨日の私がねだったのもうなずける。
「これ、食べていいの?」
「ああ」
「本当に?」
「いいって言ってるだろ?」
「本当にこれが私の……私だけのものなの?」
「だからそうだって言ってるだろ」
なるほど、たしかに昨日のメモにはどこにも短縮授業とは書いていなかった。
それにしても、学校……来て良かった。
それから、昨日の私、ありがとう。
「ごちそうさまでした」
「おう。お粗末様でした」
もう、おいしすぎて言葉にできない。玉子焼きも、唐揚げも、ほうれん草のおひたしも。それ以外のやつも、とりあえず食べたらおいしいって言わざるをえないくらいにおいしかった。
まさか、白ご飯でおいしいって思うなんてことは想定外だったけど。
「その、とてもおいしかったです」
「そうか、そりゃあよかった」
感謝を伝えると、彼は笑った。でも、どこかでおんなじことを感じた気がする。鼓動が早まって、胸が苦しくなる。そんな感じがした。
そんななか、私に一つの欲求が生まれる。
「あの、できれば……」
「ん? 明日も作ってこようか?」
もはや予想していたかのように遠野くんがそう言う。
そ、その通りです。と、私は小さく頷いた。
***
「今日もいないー!」
目の前で少女が叫ぶ。正直うるさい。
橘さんが学校に来るようになって数日。昼休みのたび、すぐに橘さんは葵と共にどこかに行っている。
目の前でわめいている紀香は、橘さんと一緒に食べようと誘うのを、今日も失敗したようだった。
「昼飯の前に誘えばいいのに」
俺がそう言うと、紀香は反抗するような声で言った。
「それができたら苦労してないよ。周りに人がいることがほとんどだし、いなくても遠野と話してるし。あ、隆俊が言ってよ」
「なんで俺なんだよ。てか、葵に頼めば?」
「あ……」
気づいてなかったみたいだ。やはり猿か。
「遠野っ! 今日の昼飯一緒に食いたい」
次の日、紀香が遠野に言った。しかし、そんな言い方では誤解を生むのではないのか。
「って、隆俊が!」
「なんで俺だよ! てめえだろ」
紀香の言葉に思わず反応をする。そんなこと気にもせずに葵が言う。
「まあ、俺はいいけど、橘はいいか?」
「別に構わないよ。あ、えっと……遠野くん」
その橘さんの僅かな仕草で葵がなにか気づく。俺たちにはなにのことかさっぱりだったが。
「あ、こっちの女子が灰原 紀香。で、男子の方が蓬莱 隆俊」
あ、そういえば、人の顔とか名前とか覚えられないんだっけ? ふむ、すっかり忘れていた。
「じゃあ、お昼は4人で食べるってことでいいの? 遠野くん」
「ああ、そうなるな」
ん? ちょっと待て、
「えっと、4人ってことは、まさか、俺も頭数に入ってる?」
「えっ? 違うのか?」
葵が聞いてくる。橘さんが少し不安げな顔をしていた。
「まあ、さっきのは紀香が勝手に言っただけだし。まあ、別にどっちでも良いんだが」
その言葉に、少し前まで不安そうな顔だった橘さんが嬉しそうな顔をして言う。
「じゃあ、一緒に食べよう! 大人数の方がきっとおいしいよ!」
俺はため息をついて、彼女の言葉に従うことにした。
断る理由もなかったしな。
「いただきまーす!」
物凄く上機嫌な声がした。持ち主は紀香。念願の橘さんとのお昼ご飯を達成した喜びだろう。
「はい。これ」
「いつもありがとう」
ん? 見間違いか? ……見間違いだろうな。そんなことあるわけ、
「今日もおいしい」
「そうか。というか、今日もってことは昨日の昼ご飯の記憶あるの?」
………………見間違いではなかったようだ。ということは葵が橘さんにお弁当箱を。
「うん。昨日もおいしかった。特に玉子焼き」
「進歩だな。もっと記憶できるようになればいいな」
「そうだね」
目の前では小さな声での会話と、それに伴うイチャイチャだった。
マジかよ。付き合ってるのか? この2人。
恋愛フラグらしきものは無かっ……いや、あったな。
何か言おうかと思ったその瞬間、俺の隣から声がした。
「ねえ、付き合ってるの?」
紀香、よくぞ聞いた。
猿にしては上出来すぎる出来だ。
「え、付き合ってる? 誰と誰が?」
その質問に返答したのは葵だった。拍子抜けしたその声に俺は思わず「はあ?」と言った。
まさか、気づいていないとは言わせないぞ?その気持ちをいっぱいに込めて俺は言う。
「どう考えてもお前ら2人だろ?」
「なんで?」
そう言いながら葵は首をかしげる。続いて橘さんも頷きながら言う。
「別に……付き合ってないよ」
「嘘だろ? お前らさ、毎日一緒に教室に来て、毎日一緒に昼飯食べて。で、橘さんの昼飯は葵が作ってる! それなのにか?」
そう言うと、葵と橘さんは顔を見合わせて首をかしげ、声を揃えて言った。
「別に普通じゃない?」
なんだこいつら、アホじゃないか? 或いはバカ。
ただでさえ紀香はボケ枠に入るってのに、これ以上ボケを増やさないでくれ。ツッコミが間に合わない。
しばらく問いただしてみるが、全くもってこいつらはぶれない。
俺と紀香はさすがに折れて、遂にこう呟いた。
「じゃあ、別に付き合ってる訳ではないと」
「さっきからそう言ってるじゃん」
追い打ちをしかけるような葵の言葉に、俺はため息しか出せなかった。
ああ、頭が痛い。
***
「どうして付き合ってるとか聞いてきたんだろうね?」
「さあ? わからない」
遠野くんと一緒にご飯を食べた後、毎日軽く学校を紹介してもらってる。おかげさまで、少しだけ覚えることができた。
前から1人の男子生徒が歩いてきた。スリッパの色は赤色。遠野くんに教えてもらった学年の見分け方では確か、1年が青、2年が赤、3年が緑だったはず。
「2年生の先輩……?」
「お、覚えてたか。見分け方」
遠野くんと過ごすようになってから沢山のことを覚えられるようになった。とても嬉しい。
「あれ?」
前から来ていた男子生徒の後ろに小さな影があった。
すれ違うときに軽く会釈をしたけど、何も返ってこなかった。でも、後ろになにがいたのかはすぐにわかった。
「女の子?」
とても小さな、小学生、いや幼稚園児にくらい見えなくもないくらいのの大きさの少女がいた。