#47 モブは宿題が終わっていない
本当に、私、変わったんだな。
まさか、帰り道を1人で歩くということを珍しいと思うようになるなんて。
遠野くんから借りた傘をさして道を行く。前にも後ろにも、横にも誰もいない。聞こえるのは雨の音だけ。
微妙に明るい空に、街灯がつこうかつくまいか考えている。
「ただいま。お母さん」
私は上機嫌で玄関の戸を開ける。するとリビングの戸が開き、お母さんがその顔を覗かせた。
「おかえり。優奈」
お母さんが笑ってそう言ってくれたのを見て、
「あのね、お母さん。今日はね――」
きっと楽しみにして待ってくれていただろう、私の今日の1日の思い出をお母さんに伝える。
***
「ほら、ぼけっとしてないでさっさと手を動かす!」
俺、野鴨 信太はいったいどこで選択肢を間違えてしまったのだろうか。
目の前の状況は、ため息をつく暇さえ許そうとしなかった。
今日は8月の半ば。残る夏休みは、あと3日――
とりあえず、現在の状況を再確認しておく。
今日の日にち、8月16日、金曜日。
休み明け最初の登校日、8月19日、月曜日。
本日、朝起きた時点での宿題遂行済量、ゼロ。
現在時点での進捗、国語のワーク。
現在地、俺の部屋。
部屋にいる人数、俺を含み4人。
目の前にあるもの、数学の宿題。
写そうと思っていた解答書、奪われた。
なにをしているのか、もちろんながら宿題。
「手が止まってる! 手伝ってって言ったのはあなたなんだからもうちょっとやる気出してできないの?」
さっきから立て続けに罵声を聞き続けることかれこれ1時間以上。数学の宿題を始めてからほぼずっと言われて続けている。
さすがにここまで聞き続けるとそろそろ疲れてきた。左耳が痛い。とにかく痛い。
けれども、なにがなんでも宿題を終わらせないといけない。えっと次の問題は……えっと、これは、その……
さっきからいったい何度目の焦燥かはわからない。
「あ、あのー、麻衣さん? その、解答書を、渡しては貰え……」
普段は下の名前で。それも「さん」づけでなんて呼ばないんだが、なんとなく、つけてしまった。
すると、かなり無理に作ったような笑顔で彼女がこちらを向いた。
「なんで?」
もはや冷め切りすぎたその声色に戦きながらもその質問に答える。
「その、ですね。答えがわからないので……その、答えを写そうかとおも――」
「却下」
極めて短く放たれたその言葉に、さらにため息をつきたくなる。が、今はそれが許されない。というのも、
『ため息をつくたびに1回殴るから』
本人曰く、宿題に付き合ってあげている私たちの方がため息をつきたいくらい。だからだそうだ。
「全く。わからないなら聞きなさいって言ったでしょ? ったうく、どの問題?」
彼女。俺から解答書を取り上げ、さっきから罵詈雑言と言ってもいいようなほどの罵声を浴びせ続けているクラスメート、斎藤 麻衣が少しだけ机に身を乗り出してノートを覗き込んできた。
「ああ、この問題ね。これならさっきの問題の応用だから――」
悔しいが、彼女の説明はとてもわかりやすい。とてつもなくわかりやすい。そう、わかりやすいのだ。
が、ひとこと多い。ときおり混じる暴言がひとこと多い。
教えてもらった通りに解くと、わからなかったということが嘘みたいに簡単に解ける。解けるかわりに少しばかりの精神がすり減る。
同じく解けるようになるだけなら――
そう思いながら、羨むように対面の様子を窺う。
「ああ、なるほど。こうやって解くのか。しかしまあ、もともと信太が頼んだことなのに俺の分まで手伝ってもらってすまねえな」
「いやいやいやいや、別にそれくらい大丈夫だよ。むしろ私の説明でごめんね? 他人に教えるのは苦手で、うまく説明できてたらいいんだけど」
まるで、どこかしらで絶対的な境界線が引かれているかと思わせるレベルの扱いの差。
「ほら、また手が止まってるよ。それともわからないところでもあったの?」
そう言われ、急いで視線を宿題に戻す。戻しながら、心の中で大きくため息をつく。
いったい、どこで選択肢を間違えたというのだろうか。
♢♢♢
「なーんで俺がこんなことをしなくちゃいけないのさっ!」
「まあまあ、そんなこと言わずにとっとと運んじまおうぜ」
ダンボール箱を両手で抱えるように持ちながらぼやく。ったく、つくづくついていない。部活帰りに偶然担任に出会って、
『すまん、こいつ運んでくれねえか?』
と頼まれてしまった。それで断ることができず、結果今に至る。
隣で一緒に運んでいるのは郷沢。同じく担任に捕まった被害者だ。
ぼやぼやとぼやき続けていれば、そのうち時間はたち、教室に辿り着く。
両手がダンボール箱で塞がっているので、多少無作法ではあるが、人も郷沢しかいないわけだし足で扉を開ける。
ぱっと開かれた教室には、すでに電灯がついていた。
「ああ、誰かと思えば雨宮か。久しぶり」
教室の真ん中あたりの机には雨宮がぽつんと1人で座っていた。彼女は机に向かってなにか作業をしていたのだが、俺の声を聞いたからか、彼女は顔を上げてこちらを見た。
「野鴨くん、郷沢くん、久しぶり」
中に入り、教卓の上にダンボール箱を置く。郷沢はその隣に置く。
しかしまあ、相変わらず仕事のスピードが速いな。紙の山がどんどんと移り変わっていた。
それにしても、雨宮はいったいなにの作業をしているのだろうか。少し気になり、迷惑にならないように近づいて紙束を見る。なになに、うわ、マジか。夏休み明けに英語の宿題あるのかよ。
というか、先生も先生でプリントのホッチキスとめるくらい生徒に手伝わせずに自分でやりゃあいいのに。まあ、あの担任だから……まあ。
うん? 夏休み、宿題?
なにか、なにかを忘れているような……
頭がそのなにかを思い出すことを全力で拒否しているのを感じる。しかし俺はわかってしまう。なにを忘れていたのかを。
「宿題、まだ全然やってない……」
待って、今日って……
急いでスマホを取り出して画面をつける。浮かび上がってきた文字列、8月15日。
「ああ、宿題のこと、てっきり忘れていた」
後ろから低い声が聞こえてくる。全くやっていない仲間がいたのかと、俺は歓喜を……
「あとどれくらい残っていたっけかな?」
訂正、ちょっとだけ敵だった。あと、こんなことで歓喜しちゃいけないな。うん。
「雨宮は終わってるのか?」
俺がそう尋ねると、彼女は顔を上げて「うん」と頷いた。さすがは雨宮……というか、俺がイレギュラーなだけか。
いや、あのね。ほら、だって夏休みは(クラブとかゲームとかだらだらしたりとかで)忙しかったし、宿題の存在とか忘れてたし。
うん、まがうことなんてどこにもない。正真正銘、俺のせいだ。
そして、そんな俺のもとに1つの考えが降ってきた。宿題を、迅速に終わらせるための。
「なあ、雨宮……さん、宿題手伝ってくれないかな? もしよければでいいんだけれどさ」
仕事がとてつもなく速いスピードで消えていく雨宮が手伝ってくれたら、きっと宿題だってすぐに終わるだろう。そんな感じの結構邪まな考えだった。
「へー。モブ太、宿題終わってないんだ」
突き抜けるような声が耳を穿った。
「斎藤……お前、いつの間に」
「いいんじゃない? 手伝ってあげれば。郷沢くんも終わりきってはいないようだし、明日あたりに4人で勉強会的なことでもすれば?」
「麻衣ちゃん、でも明日って」
斎藤の発言に、雨宮はなにか言おうとしていたが、「いいじゃない別に」と、その言葉は斎藤に遮られた。
「実行委員になったんだから、これを機に交友関係を広げて置いた方がいいと思うんだけど」
雨宮はいい負けたようで、ぐぬぬ……と、唸っていた。
「じゃ、明日の朝、モブ太の家でね。あ、2人には家の場所は教えといてあげてね」
「はあっ!?」
唐突すぎるその言葉に、俺は思わずそう叫んだ。
「なにか文句でもあるの?」
有無を言わせないようなほどに、にっこりとしたその黒い笑顔に、「いえ、なにも……」としか返すことができなかった。
♢♢♢
「そもそもなんで8月の半ばから学校があるんだよ。9月からでいいじゃねえか。9月からで。小学校や中学校みたいにさ」
「愚痴ばっか言ってないで手を動かす!」
数学の宿題をついさっき終わらせ、今は生物基礎のワークに取りかかっている。
「あら、生物基礎は案外すんなりといきそうね」
「このワークは結構詳しい解説がページの初めにあるから結構簡単なんだよ」
逆に、さっきまでの数学の応用問題が難しすぎただけで。
「じゃあ、少し私は休ませてもらうわ。昨日ちょっと寝るのが遅くなったせいで寝不足なのよ」
「そうなのか? それならベッド使うか?」
着かれているのなら。と思いそう提案すると、彼女は電池が切れたかのようにして止まった。かと思うと今度は全身を赤く紅潮させて、
「ばっ! なに言ってんのよ、この変態!」
は? いったいなんで俺は怒られて……ん?
男子の部屋で、女子がベッドに……
つまり、それは、その、エロいこ――
「いやっ! それはそんなつもりで別に言ったわけじゃ……!」
「うっさい変態モブ! ったくもう、じゃあいったん私は寝るから変なことしないでよね。絶対に」
はい、としか言いようがないだろ。まあ、個人的には宿題でそれどころじゃないってのが本音ではあるけど。
「じゃあ、ベッドは借りるから」
「えっ? 使うの?」
「使うか? って聞いてきたのはモブ太のほうでしょう?」
いや、たしかに聞いたけど。たしかに聞いたけどさ、
変態とかあれだけ散々言われた後だと、釈然としないというか、割り切れないというか。
とにかく、解せん。




