#38 少女は蹂躙する
「よし、じゃあ海へ行くぞっ!」
突然に紀香がそう言うと、俺は「行ってこい」と言う代わりに、払いのけるような仕草を取ろうと手を出した。
が、しかし。
「えっ、ちょっと!」
俺の出した手は、その手首をしっかりと掴まれ、きっと今、俺の顔には焦りが浮かんだ。
「俺はここで――」
彼女の方を見ると、完全に興奮状態。こうなると、こいつは他人の声を聞かない。
助けを求めようと、後ろを振り返ってみると、もうすでに別の作業に取りかかっている葵と橘さんがいた。
他の人物は既に海へ。
仕方なく、俺は腹を括った。
***
波の音とともに聞こえてきたのは、男女入り混じった笑い声だった。あるところからは、高揚した笑い声。あるところからは、罵るような笑い声。
「遠野く……葵くんは行かなくていいの?」
橘がぎこちなくそう聞いてきた。
「馴れないなら、今は2人だし遠野でもいいぞ?」
俺はそう言うと、彼女から、どこか固まったなにかが解けたように見えた。
「遠野くんは行かなくていいの?」
その口調は、先ほどまでと比べてみると、随分とスラスラとした口調だった。
「まあ、俺は付き添いみたいな感じで来てるからな。まあ、行く必要があればその時に行くよ」
そう答えて、今度は逆に聞き返した。
「橘こそ、行かなくていいのか?」
そう聞くと、彼女は痛いところを突かれたのか、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、力なく苦笑いをしていた。
「それに上着まで着て。暑くないのか?」
普通に気遣ったつもりでいたのだが、それが逆に追い打ちになってしまったようで、彼女の顔がさらに引き攣った。別にそんなつもりは無かったのだが。
だがしかし、彼女は俺が言うとおり、水着の上から薄めの灰色のパーカーを着て、しっかりと前のファスナーを上まで閉めていた。
「あはは、これはね……」
そう言いながら、海の中で遊んでいる灰原や栗子さんへと目を向けて言った。
「私は、他の人に比べて、その、ぷっ、プロポーションにさっ! じ、自信が無いというかなんというか……それにこの水着はその……」
言葉を詰まらせながらも彼女は文章を紡いでいく。
「露出が多すぎて、私には似合わないかなあって」
「でもそれ、せっかく灰原と買ってきた水着なんだろ?」
ショッピングモールまで行って。と付けたして言った。彼女は少し俯き気味で返事をした。
「せっかくだし、泳いできたらいいじゃないか。留守番なら俺がしておくし」
俺がそう言うと、彼女はまだ躊躇っているのか、「でも……」と言っていた。
そんなとき、海の方から、1人の男子が歩いてきた。
「おい。葵。交代だ」
隆俊はそう言うと、親指で背面にある海を指差して言った。
「紀香の相手、頼む。俺は休む」
疲労度だけ見ると、満身創痍の隆俊が指差したところでは、「おーい、橘さーん! 遊ぼー!」と、大声で叫んでいる灰原がいた。
「ほら、橘。灰原が直々にご指名だぞ?」
俺がそう言うと、彼女はどこか不服そうにそのパーカーを脱ぎ、ビーチサンダルを履いた。左肩には、浮き輪を携えて。
「じゃあ行くか」
俺は彼女の前を歩き始めた。
後ろにいる、彼女に俺は言葉を投げた。
「なんだ。水着、普通に似合ってるじゃん」
顔こそ見えないものの、彼女の呼吸が変わったのがわかった。
「橘でオレンジっぽい色……か。安直そうなそれは灰原の案か?」
そうとだけ言うと、彼女からの返答を許さないようにして、俺は歩みを速めた。
***
「お兄ちゃん! やっと来た!」
「兄さん。遅いですよ?」
「葵兄。遅ーい」
「お兄ちゃん! それにお姉さんも! 遊ぼ!」
海へ行くと、遠野くんの弟や妹たちの声が一斉に聞こえた。
遠野くんは本当に人気なんだな。と思いつつ、その声の主である小学生たちと、美弥ちゃんたちを見た。
「遊ぶっていっても、なにをするんだよ」
遠野くんが放ったその言葉に反応したのは、今まで視界外にいた人。そして、私をここに呼んだ張本人。
「そんなの、決まってるじゃないかっ!」
灰原さんだった。
灰原さんは自信満々でそう言った。
そうか、こういうときになにをするのかっていうとは決まってるのか。やっぱり、記憶が無くなるというのは不便だな。と改めて思った。そういうことまで忘れて……
「お前が勝手に決めた。の間違いだろ?」
いつもと変わらない声で、遠野くんがそう言った。「ばれたか……」と、灰原さんが舌を出して苦笑いをした。
「ま、まあいいじゃん? 別に」
焦った様子で彼女はそう言った。
「で、なにをするの?」
遠野くんが改めてそう聞く。灰原さんは軽く咳払いをしてから、その質問に答えた。
「鬼ごっこ」
「えっ?」
私は聞き間違えをしたように思い、思わず聞き返した。
今、鬼ごっこって聞こえたような……
「鬼ごっこ」
今度はハッキリと聞こえた。聞き間違いの効かないまでにハッキリと聞こえたその言葉に、私は疑問を抱く。鬼ごっこ?
私の記憶が正しければ、鬼ごっこというのは、通常、陸上で複数人が互いに互いを追いかけ回す遊びなんだけど、まさかとは思うけど、誰が一番鬼の真似が上手かを競う遊びだったり……
「ルールは氷鬼と同じで、特別ルールは海から出ちゃダメなこと! 鬼にタッチされたらその場で止まって、仲間からのタッチを待つ」
まあ、そんなことは無かったらしい。よかった。
よかった……? あれ? でもそれって……
「橘とか、舞綾、啓太たちの浮き輪、邪魔じゃないのか?」
「たぶん、邪魔……」
私はそう答える。
でも、私は泳げないから、浮き輪が無いと私の行動範囲は渚あたりだけになる。だからといって、浮き輪で海へ逃げたとしても、浮き輪じゃスピードが出ないから、結局……
あれ? もしかしてこれ、浮き輪があろうがなかろうが、変わらない……?
「まあ、あってもなくても大丈夫……?」
私は何故か疑問形でそう補足説明をした。小学生たちを見てみたら、「邪魔じゃないよ! でも、灰原のお姉ちゃんがすっげー速いんだ! だからすぐに捕まる!」と、捕まるのに、なぜか楽しそうに最年少の男子が言っていた。
「じゃあ、お前たちも氷鬼でいいんだな?」
遠野くんが弟妹たちにそう聞いた。すると即座に「全然いいよ!」という啓太くんの声が聞こえてきた。その隣では、舞綾ちゃんや幹人くんが頷いていた。
「お兄ちゃんがいいのなら私も」
美弥ちゃんが最後にそう言った。そういえば、いつの間にか卓くんはどこか別の場所に行ってしまったようで、見当たらない。
「じゃあ、私と美弥ちゃんが鬼で、10秒後にスタートで。じゃあ、数えるから逃げてね! よーい」
急にそう言われ、私は急いで逃げてみる。
他の人を見てみると、浮き輪を持っている舞綾ちゃんたちは海の中へと逃げていた。私もそれを真似するようにして海へ逃げてみる。
「はち、なな、ろく……」
数が1つずつ数え下ろされていく。
私はとにかく逃げてみることにした。灰原さん相手に、少しだけ抗ってみよう。意味ないと思うけど。
***
レジャーシートの上に置かれた小さなクーラーボックスから、スポーツドリンクを取りだして、中身を口に含む。冷たい。
飲み込んで、俺は先ほどのことを思い出して呟いた。
「あいつ……マジで無茶苦茶しやがって……」
海の上で、今現在、葵や橘さんと遊んで。もとい蹂躙状態で制圧している紀香を見た。
「蓬莱さんも、逃げてきた組っすか?」
少年がそう言って近づいてきた。先ほどまで俺とともに紀香の蹂躙を受けていた。名前は確か、卓と言ったか。
「そうだ。あんなのに付き合ってたら、身体が壊れる。あと、隆俊でいい」
正直、名字で呼ばれるのは馴れてないし、好きじゃない。あ、でも、そういえば、
『蓬莱くん』
橘は名字で呼んでいたな……忘れていた。まあ、いいか。
「じゃあ、隆俊さんで」
彼はそう言った。「それと同じの、貰っていいっすか?」と言ってきたので、クーラーボックスから新しいのを取りだして渡した。
彼はそれを受け取ると、礼を言って、俺の隣少し間を開けた場所に座った。




