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#37 忘却少女は名前で呼ばれる

 カレンダーを見る。そこに記されていた日がやって来た。


 数日前に書かれたノートのメモを見る限り、買い物の日は、なかなかに悲惨だったという。主に道のりが。


 ボールペンで書いているはずなのに、まるでサインペンの太字で書かれたように主張の激しい赤字でノートには、灰原さんが超がつくほどの方向音痴であること。そのため、間違えても道案内などをさせてはいけないことが書かれていた。


「数日前の私、ドンマイ」


 無責任に、私は過去の自分に苦笑いを向ける。しかし、そこに書かれた文字に。たったひとことの文字に、羨ましさを覚えながら。


「楽しかった……かあ」


 私には、あまり楽しい思い出が残っていない。というのも、楽しい思い出よりも、嫌な、不快な思いでの方が皮肉にも印象に残りやすく、結果、誰も望まないような、悪い思い出が記憶に多く残っているからだ。

 もちろん、友人と買い物に行った思い出も含め。


 そんなとき、インターホンが鳴った。私は反射的に「はーいっ!」と返事をして、近くに置いておいた鞄を持った。


「行ってきます!」


 確認せずともわかる。外にいるのはみんなだ。


 リビングにいたお母さんからの「いってらっしゃい」という声が聞こえたのを確認して、私はドアを開け放った。


「おはようっ! みんな!」


 いち、に、さん……全部で10の人影がそこに並んでいた。


「これで全員か。じゃあ行くか」


 遠野くんがそう言って、駅の方面へと歩き出した。私もそれについて行く。


 というか、全員がぞろぞろとついて行く。


 今日は、約束していた海水浴の日だ。






 青崎市は、案外海に近い。


 といっても、それでも大小様々な市町村を5つ6つ跨ぐことになる。

 そのため、海水浴場まで、しばらくの間電車に揺られることになる。


 私は普段から電車に乗っていて、変わることと言えば混み具合と窓の外の風景。

 それから車内放送くらいだが、普段から電車を使わない。さらに言えば、電車に乗った経験自体も少ないような小学2年生(ちいさな子供たち)にとっては、きっと新鮮なものなのであって、


「見ろよ、舞綾! すっげー速いぜ!」


「こーらー。たしかに速いけど騒がないの」


 先ほどから、他にほとんど誰もいない座席に膝立ちで窓を覗き込み、そんな会話を漏らしていた。


 他の人たちは、ほとんどなにも動じずに座席に座るなり、吊革を掴むなり、個々のことを行っていたが、その中でただ1人、灰原さんだけが、そわそわしながら到着を心待ちにしていた。




 しばらくたったころ、とある駅に到着した電車は、その扉を開いた。降りる駅でも無かったため、気にもとめなかった。はずなのだが、それを私の感覚は許さなかった。


 扉が開いたことによって入ってきた空気が、ふわりと香りを漂わせた。扉はまた閉まり、次の駅。また次の駅と、駅を重ねるごとにだんだんと香りは強くなっていった。


 潮風。磯の香りだった。


「次だな」


 そう言いながら、遠野くんが席を立った。窓の外には青々と煌めく海が広がっていた。






「うーーみーー!  ひっろおおおおおい!」


 着くや否や、波の音より先にまず聞こえたのは灰原さんの声だっただった。


「うるさい猿。しかし、それにしても人が多いな。芋を洗ってるようだ」


 芋を、洗う? なに、それ。


「芋? どこかで芋洗って売ってるのか?」


「そうじゃなくて、芋を洗うってのは人で混雑していること。芋を洗うときに容器に水を張って、そこに大量の芋を入れて洗った様子からそう言われるようになったとされてる」


 へー。知らなかったや。というか、そんな言葉があるんだね。初耳なんだけど。


「まあ、そんなうんちくは要らないから、早く着替えに行こっ!」


 ガシッと腕を掴まれ、私は一瞬戸惑う。そして、朝見たメモの内容を思い出す。


「は、灰原さんっ!」


 全力でそう叫ぶと、灰原さんの手の力が抜ける。


「更衣室の場所、わかるの?」


 そう言うと、灰原さんは氷のように固まっていた。その隣では蓬莱くんが大きな声を上げて笑っていた。


 危なかった。ちゃんとメモ見ておいてよかった。




 浜辺にある、女子更衣室。

 その中で、私は絶句していた。


 そして、今朝、数日前の私を怨んだ。

 鞄の中に入った、ビキニを見て。


「嘘……でしょ……?」


 他の人に聞かれないようにして、私は小さく呟いた。もう少しマシなものもあったろうに。


 ふと横を見てみると、もうすでに灰原さんが着替え始めていた。スレンダーなその肢体に似合わぬ大きなそれに、私は自然と自らの胸元へと視線が向いていく。


 その奥には、氷空くんのお姉さんが、またもや大きなものを持っていた。それを見て私の手は、服を着ているにも関わらず、胸元を隠そうとしているのか、はたまた別の理由か、無意識のうちに、胸元を覆っていた。


 灰原さんと買い物に行った……のなら、もしかすると数日前の私も同じことを思ったのかもしれない。


「橘さん、着替えないの?」


 灰原さんにそう言われ、私は急いで着替え始めた。もう、どうにでもなれ。と、思いながら。

 瞬間、鞄の中から袖口を見せた、それに私はもしかするとという希望を見いだした。


 それを引っ張り出して、見てみた。


 中身を見た私は安堵の息を漏らした。どうやら、数日前の私はきちんと対策をしておいてくれたようだった。




 私は、着替え終わった灰原さんたちを待たせないようにと、せっせと水着を着た。


「えっ? それも着るの?」


 灰原さんがそう聞いてきた。私は頷いて答えた。彼女は、「ふーん」という、少し納得していないような声で答えていた。


「お待たせしましたー」


「行こっ! 海っ!」


 氷空くんのお姉さんが水着に着替えた姿でそう言った。その隣で、はしゃぐようにして舞綾ちゃんが言っていた。


「それじゃ、行こうか」


 全員が着替え終わったのを確認すると、灰原さんがそう言った。




   ***




「女性陣、遅いですね……」


「なに言ってるんだよ。少年よ。女子の着替えが遅いのは常識(あたりまえ)だろ? ゲームでも漫画でもアニメでも小説でも」


「知りませんよっ! そんな常識みたいに言われても、ここは現実ですし! あと、俺には(すぐる)っていう名前があります!」


 俺とそんなに歳が変わらなさそうな葵の弟にちょっかいをかけてみる。案外面白い。


「で……隆俊さん……でしたっけ?」


「おお、名前を覚えていてくれたのかー」


 少し嬉しくなった。ただ、直後に小さな呟きで、「あなたとは違ってね」という声が聞こえたのは心外である。


「おーい! 男どもー!」


 やけにうるさい声が聞こえたと思ってみてみると、そこには水着姿の、先ほどまで、この卓少年が遅いと言いながら待っていた彼女たちが来た。


「さーて、全員揃ったことだし」


 といいながら、周りを見回して、全員いることを再確認する。

「たぶん、お初の組み合わせも居るし、とりあえずは」


 両手をパチンと打ち合わせて、注目を集めて言った。


「自己紹介といきましょうか。っと、あと今は俺が仕切ったけど、あとは頼む。葵」


 と、言うと、「えっ?」と、葵がこちらを向いた。




 砂浜の上に敷かれたレジャーシートの上に全員が座る。その一部分はパラソルなどで日陰になっているが、それ以外の部分では、それなりの熱さを帯びていた。

 その上であぐらをかこうものなら、


「熱っ……」


 こうなる。しかし、熱いのは最初だけで、だんだんと身体がその熱さに慣れてくる。


「なんで俺が仕切ることになったのかは知りませんが、とりあえず遠野 葵です。よろしくお願いします」


 トップバッターがそうとだけ言うと、軽く礼をして、頭を上げた。そして、左右に首を振ると、どちらへ順番を進めるべきかと尋ねてきた。


「どっちでもいいだろ? そんなもん」


 俺はそう答えた。


 自己紹介も進んでいき、氷空のお姉さんの番になった。


「えっと、笹原 栗子です。よろしくお願いします」


 ペコリと頭を下げ、栗子さんはそう言った。そして、頭を上げると、一つの質問をこぼした。


「あのね、1つ疑問があるんだけど……」


 その声は、ディミヌエンドをかけてどんどんと小さくなり、最終的には、聞こえなくなった。


 と、思いきや、思い切ったのか、突然に大きな声で、


「たぶん私が1番の年長者なのにさっ、なんで私が仕切ってないんだろうって!」


 と言った。しばしの静寂。僅かに荒れた栗子さんの呼吸と波の音がやけに大きく聞こえていた。


「いや、たぶん……」


 口を開いたのは氷空だった。


「いや、絶対に」


 確信を持った目で言った。


「お姉ちゃんが、頼りないだけだろ」


 キッパリと言い切られた彼女はしばらく呆然とし、そして直後、


「氷空っ! 酷いっ!」


 運悪く、栗子さんの隣に座っていた氷空は、肩を両手で掴まれ、前後に振り回された。「待って、お姉ちゃん。酔った。酔ったからっ!」と言うが、聞く様子が無かった。


 しかし、誰1人として氷空の言葉を否定しようなんて者は居なかった。




「遠野く……」


 橘さんが葵に声をかけた。その瞬間。


「えっ?」


「あ、呼ばれたのは兄ちゃんか」


 葵を含む、遠野家の兄弟姉妹(けいていしまい)たちが一斉に振り向いた。


「あっ、そっか。みんな遠野なんだ……」


 その事に気づいた橘さんが葵のことを呼ぼうとして、「あ、葵……くん……」と、顔を真っ赤に赤面させながら言っていた。


「どうした? 橘。いや、俺が葵って呼ばれるなら、優奈って呼ぶ方が良いのか?」


 苗字で無く、名前を呼んだだけで真っ赤に赤面していた橘さんが、さらに名前を呼ばれたことにより、沸騰した湯のように顔から湯気を立ち上らせているかのようにも見えた。それほどに赤面していた。


「いいい、いや、わたっ、私は橘は1人ですからっ! 橘でいいい、良いですよっ!」


 完全にテンパりながら、彼女はそう言った。俺は紀香に目をやると、面白いものを見つけたかのように、ニヤニヤとしていた。きっと、俺もそんな感じの表情になっているのだろう。


 だがしかし、やはり葵は、橘さんの様子にや(も感じなかったのか、テンパっている橘さんを気遣ったのか、はたまた本当に何も気付いていないのか、「そうか」とだけ、表情を変えずに言った。


 未だ、橘さんは赤面している。

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