#32 少年少女は甘味を人質に宿題を進める
「うーん……」
未だに重く感じる瞼を持ち上げて私は辺りを見回した。目の前には、まだ眠っている龍弥がいた。首を上に上げてみると、時計の短針が8の少し前を指していた。
(今日はまだ寝ていてもいいかな?)
そう思い、もう一度寝ようかと思ったが、このままの状態で居て、龍弥の起きたときの焦った表情を見るのも面白そうだ。
私はそう思い、狸寝入りを決め込むのだった。
***
なんだろう。目が覚めてから腹部に違和感というか、温かいなにかを感じる。
そして、それを確認したいようなしたくないような微妙な感覚が俺を襲う。
「うわ……マジか……」
この感覚、絶対に黄乃だ。黄乃がいる。絶対。
少し前にロリコン呼ばわりされたこともあったから、ここはそっと離れ……
「あ、龍弥、おはようございます」
離れる前にそんな声が聞こえた。思わず反応してしまい、
「うあ、お、おはよう……」
目が合った。
「……はい。朝ご飯」
俺は朝ご飯を差し出しながらそう言った。
なんだろう。とても、とても、
「気まず……」
「どうかしましたか?龍弥」
そう言われて、俺は急いで口に手を当てた。考えていたことが口に出ていた。
「いや、なんでもない」
俺はそう言うと、黄乃の反対側に自分の朝ご飯を置き、座ってから小さく「いただきます」と呟いた。
時刻は既に9時半を回っていた。
黙々と遅めの朝ご飯を食べていく。俺が気まずいのは確かだが、仮に黄乃が気まずさを感じていても、どこかいつもと比べて、調子がおかしな気がする。
食べ始めてから、ずっと俯き気味で、どこか考え事をしているようにも見えるし、なんといっても、起きたときに、ロリコン呼ばわりされなかったし、怒られもしなかった。前に同じようなことが起こったときとは大きな違いだ。
食器の音だけが鳴っている食卓に、俺は言葉を投げ入れた。
「なあ」
そうとだけ言うと、彼女はこちらを向いた。
「どこか行くか?」
***
「頼むっ!」
頭を下げ、手をそれより上の位置で打ち合わせ、俺はそう言った。
「宿題、見せてくれ」
頭を下げたままでそう言った。目の前の彼女から漏れたであろう嘆息が、俺の耳にしっかり届いた。
「あのねえ。まだ夏休み始まって数日しか経ってないのよ? 時間あるんだから、自分でやりなさいよ……鈍川くん」
そう言いながら、更なる溜め息を彼女、白石はついた。
「いやぁ、そのですね……宿題終わらせないと旅行に連れて行ってくれないって……ほ、ほら。喫茶店とかでなにか奢るからさ!」
俺は必死で弁解を試みる。しかしながら彼女は依然として冷たい目でこちらを見て、やはり、息を吐いてから言った。
「仕方ないわね。見せはしないけど、教えてあげるわ」
彼女がそう言った。それだけでもありがたい。
「ありがとう! ……助かったぁ。あの教師、問題の答えを配らないから写せなかったんだよ……」
「やっぱり、やめよっかな……」
彼女はいたずらげにそう言った。冷静に考えればどう考えても冗談なのだが、何分焦っていたもので、到底嘘とは思えずに、
「うえっ!? そ、それは……」
「冗談よ」
本気で思い込んでいた。白石のその言葉を聞いた俺は思わず安堵の息を漏らした。
「で、どこに行くの?」
彼女は俺にそう聞いてきた。俺はなんの話かわからずに、首をかしげた。
「喫茶店よ。喫茶店。奢ってくれるんでしょ?」
彼女はデザートを目の前にした子供のような声でそう言った。軽快な足取りで進みながら、「なにを奢って貰おっかなー」と、楽しそうに言った。
「そういえばさ」
俺はシャーペンを動かす手を止めてそう言った。
「白石って、こういうの大丈夫なんだな」
「こういうのってなに?」
彼女はミルクレープに当てたフォークをしたまで下げ、意味を理解できていない様子でそう聞いた。フォークと陶器製の皿が当たってカチャという甲高い音を鳴らしていた。
「ほら、だって白石って潔癖症なのに喫茶店の料理とか、食器とか大丈夫なんだなって思って」
俺は単純に疑問に思ったことを彼女に問いかけた。
「まあ、別に潔癖症って言ってもそこまで酷いわけじゃないし、むしろ普通なくらいだし……で、飲食店なら……」
「ちょっと待ってくれ」
俺が気になって制止をかけると、彼女はキョトンとしてこちらを見た。
「お前の潔癖症の酷さ加減は俺にはわからないが、少なくとも、普通の人で鞄の中に携帯用の掃除道具が入っている人間は、そういないと思うぞ?」
俺がそう言うと、彼女は俺から軽く目をそらし、苦笑いして誤魔化していた。
彼女が常に持っていると言ってもいいくらいに(というか持ってないのを見たことがない)彼女が携帯している鞄には、ミニ箒やミニちり取りなどが見事に整理されて入っている。
「ま、まあいいじゃない。で、話を戻すけど、飲食店とかなら問題ないわよ」
彼女のその言葉に俺は「なんでだ?」と返した。
「きちんと衛生管理が行き届いてるはずだし、食器だってきちんと洗われてるはずでしょ?そのくらいなら問題ないってこと。まあ、確かに洗ったあとに誰かが軽く触ってるかもしれないけれど、そこまで言い出せば、スーパーに売っている食材でさえ無理になるわよ」
彼女は少し笑ってそう言っていた。
「もう……無理……ちょっと休憩……」
勉強を開始してから1時間半ほど経ったころ、俺はそう弱音を吐いた。
「全く……そんなこと言っていると、どんどん財布が軽くなりますよ?」
白石は少し見下し気味にそう言うと、口の中にショコラケーキの最後のひとかけらを運び入れた。
「奢るなんて言わなきゃよかった……」
目の前の彼女に聞こえないように俺はそっとそう言った。
「んー! 美味しかった」
彼女の前にクリーム1つ無い綺麗な皿が置かれていた。これで3皿目である。
「次は何食べよっかなー」
上機嫌で彼女はメニューを捲り始めた。そろそろ勘弁して欲しい。
せめて、慈悲を。
「じゃあ、これにしよっと」
彼女は6個目のケーキを選び終わると、席に備え付けられている呼び鈴を押した。呼び鈴は、1人の店員を呼び、店員はオーダーをとりはじめた。
「じゃあ、このチーズスフレケーキをお願いします」
彼女がそう言うと、店員は「以上でよろしいでしょうか?」と尋ね、こちらがそれに同意すると、頭を下げて去って行った。
「今の店員、かわいい人だったな」
俺がそう言うと、白石は、「へえ。ああいうのが好みなのね」と、企みを含んだような笑みで言った。
「ばっ、別にそう言うのじゃねーよっ!」
咄嗟に否定するが、もしかすると余計に誤解を与えたかもしれない。
ただ、なぜか白石は、笑みの中になにか気がかりがあるような表情をしていた。
***
「ふわぁー」
私の目の前には、いかにも美味しそうなお菓子たちが立ち並んでいた。
「紀香。菓子の前に、宿題をやれ」
隆俊は冷たくそう言ったかと思うと、突然ニヤリと嘲笑うようにして笑い、
「あっ!」
そこにあったプレーンとココアの2色クッキーを口の中に投げ入れた。
「まあ、宿題が終わる前に無くなるかもしれないがな」
嫌みらしく言った隆俊を私は睨みつけて、そして顔の向きを変えた。
「宿題を教えてくれ、遠野! 橘さん!」
今、私は遠野の家で宿題を教えて貰っている。こうなったことにはきちんとした経緯があった。
♢♢♢
それは、昨日のこと。橘さんたちと海に行く約束をした3日後の、日差しの強い公園でのことである。
「じゃあさあ、一緒に水着を買いに行こうよ! 橘さん!」
事の発端は橘さんが水着を学校指定の物しか持っていなかったことだった。
「いや、いいよ。スク水で」
「えー! 絶対ダメ! 隆俊もそう思うでしょ?」
私は隆俊にそう振った。「えっ、俺?」と言わんばかりの嫌そうな顔をこちらに向けてきた。聞く人間間違えたかな?
「まあ、着る水着の議論はどうでもいいんだけどさ」
彼はやる気の無い声でそう言った。私は「どうでもいいってどういうことだよ!」と、反論しようとしたが、それは途中で止められた。
「俺さ、言ったよな? 宿題が終わってからって」
刹那、私の中から先ほどの反論の時の怒りも、さらにその前の楽しさなども全て消し飛び、絶望だけがその場に残った。
「宿題、一緒にしようか」
しかしながら、橘さんが救いの手を差し伸べてくれた。
「じゃあ、明日遠野の家で宿題を2人に教えて貰えよ」
隆俊が私を見下しながらそう言った。
「なんで遠野の家なんだ?」
やはり隆俊は私を見下したような表情でいた。禿げればいいのに。むしろ禿げろ。
「まず第1に、形式上遠野家の海水浴に同行する形なんだから、さっさと終わらせないと迷惑がかかる。よって、迅速に、火急に終わらせる必要性がある」
隆俊がそう言うと、遠野は「別に美弥は何人増えてもいつでもどこでもいいって言ってたから構わないんだが」と言った。
「まあ、それにしても早く終わらせることに越したことはない。そして第2に」
そこで隆俊の表情は見下しを越えて、もはや呆れのような表情に変わった。
「お前が速やかに終わらせるために、遠野と橘さんの2人体制で見て貰う方が確実に速い。集まりやすさを考えると遠野の家が一番全員の中で近い」
つまり、それほどに私の頭は……
「隆俊……」
私はそう言って、そして一気に敵意を込めた声で言い放った。
「強制参加。決定」
彼が反論をする、その前に私はさらに言った。
「隆俊も手伝え」
明らかに手伝いを頼む態度ではなかった。そんなこと、気にしない。
そして時間は今日の朝まで進む。
「たふん……ここのはず……」
橘さんが何か小さく呟いていたが、何と言っていたのかは私には聞き取れなかった。おそらく後ろで不服そうにしている同じくだろう。
遠野と書かれた表札の前で橘さんは出しかけた手をそのまま、大きく息を吸った。
「押す……よ」
彼女は目を瞑り、一気にインターホンを押した。
無機質な呼び鈴の音がしたかと思うと、ドタドタという廊下を大急ぎで走る音がした。
「なにもそんなに急がなくても……」
私がそう言った次の瞬間、私の予想は大きく裏切られた。
「お姉さーーーーーーん!」
銃弾の如く飛び出してきたのは小さな女の子と甘い香りだった。
「いらっしゃい。……とはいえ、まだ焼き上がってない分があるから、すこし舞綾こいつたちと遊んでやっておいてくれ。まあ、俺の部屋に上がって先に始めてくれてもいいんだが、なんか、昨日話したら凄く嬉しそうだったから。ついでに……な」
彼がそう言うと、橘さんは「焼き上がってないって何が?」と聞いた。
「あー、一応クッキーをな」
そして現在に至る。
♢♢♢
2色クッキーの他にジャムが乗っている物、シンプルな物など、たくさんのクッキーの誘惑の隣で、私は黙々と宿題を続ける。
ひとつ、またひとつとクッキーの残量が減って行く。最初は不服そうだった隆俊が、今となっては1番楽しそうである。
「橘、少し頼むな」
遠野はそう言うとその場で立ち上がった。
「どうしたの?」
少し不安げな表情をした橘さんがそう聞いていた。すると遠野は手近にあったデジタル時計を見せて言った。
「昼ご飯、作ってくる」
昼食を終えてしばらく、隆俊のクッキー消費のペースは格段に落ちた。
「うおおおおお!」
今こそ好機だと、全力で集中して問題に取り組んだ。
私は答えを見ているかのようかスピードで宿題を解いていく。
「ひたすら漢字の読みを書きながら変な声出すなよ。猿」
唯一私が得意としている漢字の読みを書きながら。
「猿って言うなあー!」
私がそう言ったとき、突然橘さんが「違う」と言った。
「ほらっ! 橘さんも違うって!」
「いや、そうじゃ無くって」
即、否定された。
少し悲しくなって下を向くと、「いや、猿じゃないけどね!」と、急いで付け足していた。
「出納これ。出納って読むんじゃなくて出納って読む」
ほんの3秒ほど、私はフリーズした。
その間にクッキーが一枚1減った。
「お、終わったあぁ!」
日が暮れだした。時計を見ると5時半を少しばかり回っていた。クッキーはまだごく僅かではあったが残っていた。
「面倒なのが少しでも終わっていてよかったね」
橘さんのその言葉に私は小さく頷いた。少しだけではあるが、自分でも進めていた物があったのだ。
「じゃあ、次は水着だね!」
私がそう言うと、彼女は驚きが混じった、いかにも嫌そうな表情をした。
私は彼女の耳元で小さく囁いた。
「遠野もスク水じゃない水着の方がいいんじゃないかな?」
次の瞬間、橘さんはビクッと反応していた。そして小さく、「少しだけ、考える」と言っていた。
私はさらに残ったクッキーを口に入れた。上に乗せられたイチゴジャムが、程よい甘酸っぱさを感じさせた。




