#28 少女たちは海に行きたい
「と、とにかく、海! 海、行こうね!」
誤魔化すようにして紀香はそう言った。慌てていることがハッキリとわかる。そんな彼女を俺は半開きの目で見て、ふう、とため息をついた。
「その前に、宿題を片づけろよ」
紀香がバグってフリーズしたゲーム画面のように動きを停止させた。しばらくして動けるようになったのか、ぎこちない動きでこちらを見てきた。
「マジで?」
彼女はそう言って、俺に確認を取ってきた。そんなの、決まってるだろ?
「マジで」
俺はそう答える。それを聞いた紀香は頭を抱えてうなっていた。
「まあ、手伝ってやるから、やる気出せ」
俺がそう言うと、彼女の表情は一変してとても明るくなった。
「見せてくれるの? 解答」
「なわけねーだろ。自力でやれ。力にならない」
そう答えるとまた一瞬で態度が変化し、彼女は拗ねたようにして不平を口にしていた。そんな不平を言うなら手伝いすらしてやらないぞ。
そんな冗談を言うか言うまいかと自分の中で議論をする。少し面白い気がした。
***
私、笹原 栗子。決断を下しました。
今年。今年こそは……
「氷空! 氷空! そーらー!」
私は愛する弟の名前を連呼する。ここは家。周囲の目を気にする必要は無い。少しして、面倒くさそうにして彼が来る。
「なんだよ。お姉ちゃん。朝っぱらから……」
少し寝ぼけていて、怒り気味の氷空。かわいい。
笹原 栗子:ブラコン
って、そうじゃなかった。今はこれを。今年こそは……
「氷空! 海、海に行きましょう!」
そう。海に行きたいんだ。
去年は氷空が受験だったから行けなかったし、一昨年は私が風邪を引いちゃって……
とにかく、今年こそは……
「お姉ちゃん。大学受験の勉強は?」
「ぐっ……」
忘れていたわけではない。ただ、今年こそは行きたかったんだ。
「だ、大丈夫だから。大丈夫じゃないけど……」
「なら、却下」
即答された。割と真面目に凹む。でも、ここで食い下がるわけにはいかない。「で、でも……」と言い、なんとか食らいつく。
「ほら、息抜きとか必要だとは思わない?」
私がそう言うと、彼は少し考える仕草をして「うーん」とうなっていた。そのとき、スマホのバイブが振動する音がして氷空はポケットに入っていたスマホを取り出した。
画面を操作してなにかの作業をしていた。2分ほどして彼は画面を消し、こちらを向いて言った。
「いいよ。なら海に行こうか」
私は今、きっと凄く明るい顔をしていることだろう。鏡を見なくても分かる。表情筋が言うことを聞かないんだから。
「氷空! 大好き!」
思い切り地面を蹴り、私は彼に飛びつく。体勢なんて気にしていない。きっとかわされれば地面に激突するだろう。
「ちょっ、お姉ちゃ……」
そして彼を巻き込んで倒れた。氷空は背中から倒れて「いって……」と言っていたが、もう、そんなことはどうでもいい。
まあ、申し訳ないという思いがないわけではないけれど。
でも、それよりも今は、目の前にある氷空の匂い、氷空の温度、氷空の感覚をもっと感じていたかった。
***
「あ、返信が来た」
「なんて言ってる?」
スマホを覗き込もうとする紀香を防ぎながら俺はスマホの画面を見た。
「えっと……海に行けるけど、1人増えてもいいか? って言ってる。まあ、誰なのかは想像つくけど」
俺が紀香にそう聞くと、「私は構わないけど、隆俊は?」と聞いてきた。
「なら、俺も構わないし、大丈夫って返信しておくな」
俺がそう言いながらスマホを操作していると、彼女はまた覗き込もうとしながら聞いてきた。
「遠野と橘さんの連絡先はどう?」
俺はメッセージを送信すると、目を閉じて首を横に振った。
「そっかー。どうしようか」
さて、どうしたものか。
「どうする? 遠野と橘さん」
先ほどから同じことを繰り返している気がする。今の紀香の声もだ。
「どうするもこうするもな……」
連絡先もわからなければ家の場所もわからない。そんな状況ではここで話していてもなんの進捗も得られない。というか、
「俺の連絡網駆使して誰1人あの2人の連絡先がわからないって。橘さんはまだ来てから日が浅いからともかく、葵もそうだったとは想定外だ」
クラスメイトの半数以上の連絡先は持っているが、ほぼ全滅。返信がまだ無い人も、ここまでくると希望はないだろう。
「仕方ねえし、行くか」
俺は立ち上がり、棚の角にかけてあった帽子を取った。行動の理由が理解できていないのか、紀香はこちらを向いて「どこに?」と尋ねてきた。俺は帽子を被りながら言った。
「決まってるだろ。人捜しだよ。人捜し」
俺がそう言っても、彼女はまだキョトンとしていた。
***
「さて、なにをするかな……」
宿題なんてもうすでに終わらせた。時計を見る限り、夕食の準備に取りかかるには早すぎる。
少し悩んでいると、玄関の扉が勢いよく開く音がして、俺は音のした方を見た。声が聞こえた。
「ただいまー!」
この声は……美弥か。そんなことを思いながら俺は視線をリビングへと移す。クーラーの効いた部屋では、クラブなどどこ吹く風の小学2年生の2人と、その勉強を見てあげている小学5年生の幹人がいた。
「お兄ちゃーん!」
リビングと食卓が兼用化された部屋の扉が勢いよく開く。やはりそこには美弥がいた。
彼女は文芸部に所属しており、今日は珍しく活動があったらしい。
「ねえ、お兄ちゃんって部活に入ってないでしょ? てことはさ、お兄ちゃん夏休み中暇なんだよね? ね?」
押し通すようにして彼女は確認してくる。「まあ、暇という表現が合うのかどうかはわからないけど、時間はあるな」と、俺は答える。
「ならさ、どこか出かけようよ!」
少し息が荒げている。もう少し落ち着いて言わないとこちらとしても聞きづらいんだけど。
「まあ、俺は構わないんだが」
俺がそこまで言うと、ものすごく嬉しそうな顔をしていた。早まって嬉しがっている彼女に対して、今の言葉の補足をしようとしたそのとき、別の声が聞こえた。
「お前、受験勉強と宿題は? って兄ちゃんは言いたいんじゃないのかな? 姉ちゃん」
その言葉に美弥は勢いよく後ろを振り返る。そこには嘲るようにして笑った卓がいた。
「す、卓……」
「ただいま。兄ちゃん、姉ちゃん。それから弟たちと妹よ」
彼は舞台上を跳ねるかのようにして、リズムよくその場の全員に帰宅を告げた。
おそらく痛いところを突かれたであろう美弥は卓の名前を言ったきり何も言えなくなっていた。それと対照的に、幹人や舞綾、啓太の3人は兄の帰りに「おかえりなさい!」と、元気よく答えていた。
俺は何も言えなくなっているであろう彼女に話しかける。
「とりあえず、宿題終わらせようか」
美弥は成績が酷く悪いわけではなく、むしろかなり良い方ではある。ただ、面倒くさがりで宿題を最終日付近に大忙しで全て片付けるというとがもはや風物詩である。
そんな宿題嫌いの彼女は「むう」と言いながら、鞄の中から宿題を取り出していた。
「俺が手伝ってあげるから。終わったら海でもどこでも行こう。受験勉強は……大丈夫なんだよな?」
美弥の成績なら相当高いところを狙わない限り大丈夫だと思うけれど。
「大丈夫。模試では志望校より上の高校でもA判定取ってるから」
A判定か。ということは、合格率が8割を超えたいるのか。それならまあ、安全圏だな。
「そうか。じゃあある程度は安心して行けるか」
俺がそう言うと、彼女は酷く喜んだ様子でその場で飛び跳ねていた。
「じゃ、その前に宿題だな」
そう言うと、きっと思い出しているのだろう。先ほどとは一変して、もの凄く落ち込んでいた。
「手伝ってくれるんだよ……ね?」
彼女はこちらをそう言いながら見てきた。俺は「ああ」と言うと、嬉しそうにしていた。
「ただ、教えるまでだがな。宿題は自分でやるものだ」
そう言うと、彼女はブーブーとブーイングしていた。
仕方ないだろう、俺がやってしまえば彼女のためにならない。
「よし、どうせ卓も終わってないんだろ? 全員まとめて俺が見てやるからわからないことがあったら聞け」
俺はそう言い、最後に付けたすようにして続けた。
「そんでもって、全員終わったら、どこか行こうか」
そう言うと、主に小学生組から歓声が上がる。卓は不機嫌そうな声だったが、どこか嬉しそうな表情をしていた。
まあ、これで夕食の準備までの時間は潰れそうだ。




