#21 少年はトイレに逃げ込む
「お疲れさまー!」
右手にコップを掲げた少女が、そう音頭をとった。コップには、その掲げる動きでこぼれなかったのかと思わせるほどのオレンジジュースが並々と注がれていた。
その音頭に他の人も口々に「お疲れー」などと言っていた。私の隣には遠野くんが、というか、先程、強制的にといってもいいくらいの方法で隣に座らさせられた。
私をその席へと座らせた犯人は、丁度つい先程までは音頭をとっていた。そして、今では私の目の前でニヤニヤとした笑みを浮かべている少女。灰原さんだ。その隣では、蓬莱くんも一緒になってニヤニヤしている。
私は服装を確認してみる。普段はあまり着ていないけど、この私服……
「灰原さん、蓬莱くん、私の私服、どこかおかしい? それとも私には不似合いだった?」
もしかすると、この服がおもしろおかしくてニヤニヤしているのではないかと思い、そう聞いた。
すると、彼女はどこか期待が外れたかのような反応をして、「いやいや、そんなことないよ。かわいいし、似合ってる」と言った。隣では、蓬莱くんがうなずいている。
(本当に、この二人は仲がいいな……)
意見の同調し合う二人に私はそう感じた。隣を見てみると、既に食事を始めている遠野くんがいた。私の視線に気づいたのか、遠野くんが食べているものを飲み込むと、「食べないのか?」と、聞いてきた。
「食べるよ」
私はそう答えて、食器を手に添えた。
***
「ねえ、どう思う?」
私は隣にいる隆俊に聞いてみる。「どう思うって、見たままじゃねえのかよ……」と言われてうなずく。しかし、本人たちは否定している。
(どう見たって、付き合ってるカップルじゃね?)
「おい、急いで食べるな。口にソースついてる」
遠野はそう言いながら左手でナプキンを手探りで探す。
「えっ? 本当に?」
その言葉と同時くらいに遠野の手のひらには紙ナプキンが持たれていた。
「ほら、動くなよ……はい、取れた。ちゃんと咀嚼して、それから食べないと消化にも悪いからな」
「……うん。ありがとう」
口を拭われた橘さんの頬は、どこか仄かに赤めいていた。その行為に何も感じなかったのか、それともポーカーフェイスを貫いているだけなのかはわからないが、遠野は何事も無かったかのような表情でナプキンを折りたたんだ。
ごちそうさまですとしか言いようがなかった。なんだよ。口についたソースをナプキンで拭くとか。
今私の目の前で繰り広げられているのは、どこかの少女漫画かなにかのシーンか?
「どう見ても……」
きっと、隣にいるこいつも同じこと考えているんだろうな。
***
「黒崎ー、お前マジで凄かったなー」
「そうそう。あのロングレンジでシュートしてきた人相手によく戦えたよなー」
この言葉は何回聞いただろうか。こいつら、ホントに酒入ってねえよな? それとも時間がループしてる? まあ、いい。
周りを飛び交う言葉たちにウザささえ感じてきた。「そうだね」と、とりあえず答えておけばあしらえる。こいつらの言葉には、その程度の重さしか感じられなかった。
「ふう……」
思わずため息をついてしまう。どうにかこの面倒な、騒々しい世界から立ち去りたい。
「俺、ちょっとトイレ行ってくる」
とりあえず、トイレに行こう。考えるのはそこからにしよう。周囲からは、多少からかいの言葉が聞こえてくる。けれどけ聞こえないフリ。聞こえないフリ。
店内の道を彷徨い、トイレへと辿り着いた。トイレの中は、先程までとは大きく違い、静寂の渦の中にあった。個室のドアを開き、中に入ると、ドアの閂をかけた。
喧騒ひしめく世界から孤立したような個室では、どこか落ち着くことができる雰囲気があった。
さて、いつ席に戻ろうか……
結構な時間をトイレで過ごしてから、席に戻った。
席に戻ってからは、時間の経過とともに人々の間に気怠さのような物が蔓延りだした。
たしかに体育祭の打ち上げというだけであって、それ以外には何か明確な目的があって来ているという人は少なかった。逆に言うと、大部分はそれに値する。
要するに、なんとなく騒ぎたかったやつらが、なんとなく集まって、なんとなく騒いでいただけ。
「はは……」
なんだか、凄く、疲れた。
体育祭にも、この気怠い空気にも。
「じゃあ、そろそろお開きにするかー」
一人の男子がそう言った。
「宴も酣……は合わないな」
彼はそう言った。確かに、この気怠い空気には宴も酣の言葉は合わないだろう。
「それじゃ、お疲れさまでした! じゃあ、一本締めで終わります。お手を拝借、よーおっ!」
パンッ! と1発全員の手が打たれた。ちなみにこれでは一本締めではなく、一丁締めである。
なにはともあれ、こうして打ち上げは幕を引いた。
「じゃあまたなー」
店の外に出ると、それぞれ自分の家へ向かって歩き出した。俺も家に帰ろうとしたそのとき、
「だーかーらー! 大丈夫だって」
突然大きめの声が聞こえて思わず振り向く。そこには見慣れた4人の男女がいた。
「ああ。いつもの4人か」
俺はそう言うと4人を後にして家へと帰っていった。
後ろのほうのそこいらにいる、クラスメートへヒラヒラと手を振りながら。
***
あー、面白い。
「大丈夫だから。帰られるから」
「いや、この時間に女子が一人で帰るのは危なくないか?」
「大丈夫だから!」
いやー、なかなかに面白い。この二人が言い合ってるのが凄く面白い。
まあ、このままただ言い合ってるのも時間の無駄だし、助言してやるか。
もちろん、そうなったらおもしろそうなほうにだけどな。
「橘さん、せっかくなんだから着いてきて貰ったらいいじゃん。確かに女子が一人だと何があるか分からないし」
俺がそう言うと、隣から「そうそう!」と言う声も聞こえてきた。紀香だ。
「うー」
3人に言われて、橘さんはそんな唸り声のような声を出した。そして、ついに折れたのか、
「それじゃあ……お願いします」
彼女は少し後ろめたそうに、そして悔しそうに。でも、どこか嬉しそうにそう言った。
「行ったか」
「だな」
葵が橘さんについて行ったのを見届けて、俺たちはそう言った。
「帰るか」
そう言うと、俺たちは反対方向にある家へと歩みを進めだした。
「なあ、やっぱりさ」
紀香が声をかけてきた。
「あの2人、付き合ってるようにしか見えないよな」
「ああ、俺もそう思う。まあ、そうでなければ親子。もちろん、親は葵な」
俺はそう答える。冗談ではない。本当にそうとしか思えなかった。
「嘘ついてるのかな。それとも……」
確かに俺にもその疑問はある。
しばらく歩き続けると、もう目に焼き付いた景色が見えてきた。
「そろそろ着くな」
店が家から近いこともあって、あまり会話のないまま家へと着こうとしていた。
どうしてだろう。今はなぜか、時間経っていくのが憎い。
***
帰宅ラッシュも終わり、ガラリとした車両の中をたった2人で座席に座る。ホームに流れるアナウンスと音楽と共に扉の閉まる音がした。
なんだか申し訳ないような気まずいような空気の中、私は何も言い出せないでいた。
何か話題を見つけないと……でも、何も見つからない。そんなとき声が聞こえた。
「楽しかったか?」
遠野くんだった。遠野くんは私の顔を軽く覗き込みながらそう聞いてきた。私は「うん」と、肯定をすると「そうか」と言う声が聞こえてきた。
「覚えていられるといいな」
その遠野くんの言葉に、嬉しさと、悲しさの感情を私の心は孕んでしまった。覚えていられればいいんだけど。
「遠野くんは、楽しかったの?」
私はそう聞き返してみた。すると、遠野くんは「あっ、えっと……」と、少し詰まって答えた。
「楽しかったよ。俺も」
笑って、そう答えてくれた。
そんなとき、私たち以外誰もいない車両に、車内アナウンスが流れてきた。もうすぐ目的の駅に着くのだろう。
「あ、お母さんどうしよう……」
私は思い出したように呟いた。あれからお母さんはよく「遠野くんは次いつに来るの?」と聞いてきている。この状態で帰ったとすれば、おそらくまた遠野くんが拘束されてしまうだろう。
「遠野くん、時間大丈夫?」
私はそう聞いてみた。すると「ああ。時間なら問題ない」と、答えてくれた。
「多分またお母さんが……あ、なんならここまでまでもいいから」
私はそう言うと、遠野くんは「大丈夫だ。最後まで送る」と言ってくれた。本当に、優しいんだな。
空を見上げてみると、月の光は一切見つからなかった。
今日は新月の夜。空は1色の黒闇に、ただ包まれていた。




