#20 少女は再び保健室に向かう
すう、と大きく息を吸った。
トラック上に引かれた直線の前に、8人の生徒が1列に並んでいる。
私はその内側から見て3番目にいる。順番はくじによって決められる。この位置が運がいいのか悪いのかはわからない。
とにかく、左耳に全神経を集中される。耳が、そして脳がトラックの内側にいる生徒のピストルをいまか、いまかと心待ちにして待っている。
アドレナリンが噴き出していることを感じられる。異常なまでの緊張による興奮状態が、身体の感覚を麻痺させていく。周囲からは応援の声もしているだろうが、全てシャットダウンされている。まるで、今この耳はピストルの音を聞き取るためだけにあるかのように。
心拍数も上がってきている。うるさいまでのその心音が身体の中で騒いでいる。
(とにかく、役に立たないと)
他はなにもなくて、その一心だった。
少しでも速くこのバトンを届け、少しでも勝利に近づけるようにしないと。
覚えられないことによって迷惑をかけているみんなに、少しでも貢献するために。
少しでも、贖うために。
ピストルの乾いた音が鳴り響いた。この瞬間を待ち侘びていたかのように耳が。そして足が、頭で考えるよりも速く反応する。
湧き上がるアドレナリンで、私はいつも以上の速さで走れている。珍しく軽やかに回る足は、普段感じられないような風を私に感じさせ、走っていることを楽しくさえ思わせた。
ぱっと前を見てみるともちろんながら人が走っている。前で走っている人もいるけれど、人数を見る限り、後ろで走っている人もそう少なくはないようだった。
距離は50メートル。この最も短い長さを私は紡ぐ役目だった。
残りはもうほとんどない。次の人はテイクオーバーゾーンを走り出した。あともう少しで次の人に、次の……
そのときだった。きっかけはわからない。けれど身体がふわりと浮き上がった。その瞬間、私の思考回路は溶け落ちた。
なにがあったのかがわかったのは、ドザァと、砂が擦れ合うような音とヒリヒリとしたような痛みの直後だった。
「う……そ」
こんな所で、転んでいるわけには行かないのに。
2走目の人がこちらへ駆け寄ってくる。その間にも後ろからは人が次々と追い越していく。
テイクオーバーゾーンはギリギリ越えていた。2走目の彼女がこちらまで来ると私の手にあったバトンを取って、すぐさま走り出した。
(また迷惑をかけちゃった……)
このままでは走る人の邪魔になる、邪魔にならないようにトラック内に入る途中、後悔が雫となって、乾いた砂へとこぼれ落ちた。
競技の後、いろいろな人に救護所に行くことを進められた。私の膝からはまあまあな出血があった。
しかし、救護室は外にあり、人が多くいるところにいることに抵抗を覚えてしまい、結局私は保健室へと向かうことにした。
廊下に入って人がいなくなると、自然と涙がこぼれてきた。窓の開いていない廊下では、私の荒れた呼吸が響いて聞こえた。
手で瞼を擦りながら保健室へと向かう。転んで擦りむいたところには痛みなどない。ただ悔しくて、悲しくて。こぼれた涙を廊下に落とすことになぜか引け目を感じて。
ってあれ、保健室にってどこだっけ?
「なに泣いてるの?」
突然聞こえたその声に、私は驚きの感情を隠せなかった。
「保健室に来たんじゃないの? 通り過ぎてるよ」
昨日の人。私は朝に思い出した人物の中に、うっすらとだけこの人がいることを思い出す。
「白石……さん?」
「とりあえず、おいで」
優しく彼女は招いてくれた。
「酷く泣いている砂かぶり姫は、いったいなにを無くしたのかしら?」
戯けるように彼女は言った。
「少し、きかせてくれないかな」
「ふーん、で、泣いていたの」
ここまでの経緯を話した。白石さんは、そう言いながら救急箱を弄り、「はい、消毒するから、とりあえずその前にあそこで傷口洗っておいで」と、言った。
私はその言葉に従って低い位置につけられた水道で傷口を洗う。砂や軽く出ている血が流れていく。
「きちんと洗えたら、そこにあるタオルで軽く拭いてからこっちにおいで」
近くを見てみると、そこには真新しいタオルが置かれていた。私はそれで傷口を拭くと白石さんの前に座った。
「染みるけど、我慢してね」
彼女はそう言うと、消毒を始めた。傷口に消毒液が刺すような痛みを呼び込む。
「あ、でも転んだくらいで気にすることないと思うよ」
消毒しながら彼女はそう言った。私は思わず頓狂な声を漏らす。
「だって、そのことについてみんなは咎めずに傷の処置を促したんでしょ? なら、迷惑になんて思ってないよ」
「でも、私のせいで、順位が……」
そう言うと、彼女は「はい、消毒終わり」と言った。
「順位なんて、まだ終わったわけじゃないんだから気にすることないよ。そんなことより、他の人のことを今は応援する方がいいかもね。そんなにも自分のせいだと思うのなら」
彼女はそう言って笑って見せた。
「頑張らないとっていう言葉の枷なんて捨てちゃった方がいいよ。というか、そんなもの必要ない」
溢れる言葉と思いが水となって流れていく。
「ほら、泣かないで、笑って。どうやら、馬車ではないけれどお迎えも来たみたいだしね」
私の目尻を撫でながら白石さんは言った。わずかに手袋の感覚の残る目尻から近くにある耳は、確かに足音が近づいてきていることを感じ取っていた。
「王子様に、泣き顔見られちゃっていいのかしら?」
***
「橘さん、泣いてた」
なんの脈絡もなく、突然紀香がそう言った。俺は「そうだな。それほど悔しかったんだろうな」と返した。
「橘さんの分も頑張らないと」
「あんまり気構えをするなよ。身が持たなくなるから」
俺はそう忠告した。
紀香がトラック上に立った。1000メートルリレーのアンカーとして。
爪先から髪の毛の先端までガチガチに緊張したまま、彼女はそこに立っていた。
1人あたり250メートル走るこの競技では、いくら250メートルとはいえ、ペース配分を無視して無茶苦茶に走れば体力が持たないだろう。あの状態ではそんなこと頭に入ってないだろう。
「あんまり囚われすぎるなよ……」
勝つことにだけ、囚われるなよ。お前らしくない。
なにごとも楽しんでこそのお前だろうが。
ピストルの音が鳴ってもトラック上の彼女はガチガチに緊張したままだった。
「おいおい、大丈夫か? あれ」
さすがに心配になってくる。あの状態で、いい走りができるとは思わない。全く。
そうこうしているうちに、ついに第3走者にまでバトンが継がれた。俺はため息をついて、その反動で大きく息を吸った。
「何を緊張してんだ、こんのバカ猿ーっ!」
周囲から一瞬応援の声が止む。どよめきの声さえ聞こえはした。しかし、その中で、たった1つだけ、大きく目立って聞こえてきた声があった。
「うっせー! 猿じゃねーって言ってんだろーっ!」
トラック上から飛んできたその声を聞いて俺は満足げに笑った。
緊張した彼女はもういなかった。
バトンを受け取った彼女の走りは、とても軽やかなものだった。先程の緊張なんて、どこ吹く風と言わんばかりのその走りは、トラック上を瞬く間に駆け抜けていった。
「さすが猿だな……」
冗談交じりにそう呟く。張られたゴールテープが切られると、俺の周囲から歓声が沸き立った。
その中でただ1人、俺だけがため息をついた。
***
「大丈夫か?」
隆俊に言われて迎えに来たものの、話すことが思いつかなかった俺は隣に歩いている橘にそう聞いた。
橘はこちらを向いて、「大丈夫だよ」と答えて、また前を向いた。その様子に違和感を持った俺は、再び口を開く。
「おまえ、また無理してただろ」
今度はそう聞いてみる。橘がビクッと反応をした。図星だったようだ。
「ったく、気楽に楽しめって言っただろ?」
俺がそう言うと、彼女は小さな声で「ごめんなさい……」と言った。
「精一杯楽しんでおけ。1年に1度しかないんだから。俺とは違って……」
「俺とはって?」
その橘の言葉に俺は失言をしたことに気づく。すぐに、「いや、なんでもない」と、言って誤魔化した。
「そっか……うん。楽しむ」
彼女のその言葉を聞き届けた。そろそろ下足室に着く頃だった。
外からは大きな歓声が聞こえてきていた。
「さて、そろそろ昼ご飯だな」
俺がそう言うと、橘はあからさまになにか反応をした。
「作ってきてくれたんだろ?」
彼女は目をそらして頷いていた。
「と、おの……」
なにか後ろめたいことがありそうな表情で灰原はそう言っていた。その隣にいる隆俊は、どうやらなにごとかを理解しているようで、訳知り顔で遠い目をしていた。
「昼飯なんだがな、弁当なんだがな……」
忘れてきた。とでも言われるのかと思いきや、キチンと弁当箱は出てきた。
「こんな、惨事になってしまってだな……」
カパッと灰原がフタを開けると、そこには真っ黒ななにかが詰まっていた。
「こんなんで悪いんだけど……どうぞ」
「バカかっ!」
スパーンと隆俊が頭を叩いた。灰原は隆俊のことを即座に睨むが、なにも言えないでいた。
「なんでこんなものを他人に食わせようとしてるんだよ。人間全員が全員、お前みたいに胃袋の耐久値が高いわけじゃないんだから食ったら腹は壊すんだよ」
隆俊はおそらく諭しているんだろうが、灰原はこの暴言だらけの言葉に納得するのだろうか。
「うん。そうだ……な」
納得した。もしかして、暴言って気づいていないのかもしれない。
「とりあえず、この暗黒物質はコイツ自身に処理させるから、俺の作った分を食っといてくれ。ちょっとしかないんだが、すまねえな」
彼は小さめの弁当箱を1つこちらへと差し出してきた。俺はそれを受け取ると礼を言った。
「遠野くん、いちおう私のも、あるけど……やっぱり、これは自分で食べるね。たぶんまずいし」
橘。また卑屈になってやがる。えっと、たしかこういうときは、
「いや、貰ってもいいか? たぶんこれだけじゃ足りないし」
俺がそう言うと、橘がフリーズした。え、嫌だったのか?
それどころか後ろでしゃべっていた2人もフリーズしていた。あれ、この言葉、選択ミス?
「ど、どうぞ」
なぜか顔を赤らめて橘は弁当箱を差し出してきた。「あ、ありがとう」と言って俺は受け取った。赤面するほど恥ずかしかったのか。それは悪いことをした。
「なあ、あいつって天然タラシなの? それとも意識して言ってるの?」
「前者じゃねえかな。とりあえず、現実で俺はああ言うのは言えねえよ」
なにか後ろから聞こえてきた気がした。
午後からの彼女は、この体育祭が終わるまで、とても楽しんでいるように見えた。日が傾きかけるまで、他の人を精一杯応援しては、幾度もその顔に笑みを浮かべていた。
こうして時間は過ぎていき、ついに閉会式を迎える。
「第1位!」
そして、結果発表が始まった。
「優勝ー! おめでとうー!」
「うひゃあっ!」
ホームルームが終わって、帰路に立とうとしていたとき、隣から騒々しいやりとりが聞こえてきた。俺の隣を歩いていた橘に、灰原が突然抱きついたのだ。
「うん。おめでとう」
突然のことから落ち着けた様子の橘がそう返す。「楽しかったね」という会話も聞こえてきた。
「楽しかったね。遠野くん」
「あ、ああ。そうだな」
楽しかったのなら、それでよかったのだろう。
***
「あ、ああ。そうだな」
遠野くんの言葉は安心するようで、ときどきどこか不安になる。それがなんなのかは分からない。
「あ、そういえば、あれに2人は来るの?」
灰原さんがそう聞いてきた。「あれって?」と、私は聞き返す。
「決まってるじゃん。打ち上げだよ! 打ち上げ!」
とても楽しみだということが手に取るように分かるくらい、彼女は満面の笑みで答えていた。




