#19 少女たちは弁当作りに奮闘する
しばらくの時間が流れた。床の軋むような音が次第に近づいてきて、建て付けの悪そうな音を立てて扉が開いた。
「お疲れ様です」
私は入ってきた彼にそう言った。
「ああ。お、穂香じゃねえか。久しぶり」
能天気というか、とにかく明るい声で彼、龍弥は言った。それに対して穂香は一瞬後ろめたそうな、バツの悪そうな顔をしたが、すぐに元の顔に戻った。「久しぶり」と、彼女は言い、小さく手を振った。龍弥が別のことに気を向けている隙に、彼女は「大学の件は龍弥には秘密で」と、耳打ちしてきた。私は小さくうなずいた。
「それじゃあ、帰るか」
私に向かって龍弥はそう言った。
「そうですね」
私はそう答える。穂香が「また来るね」と言ったのを確認すると、私は龍弥の隣へと移動した。
「そういえば、今日は面白そうな下級生に会った」
「へえ。どんな人ですか?」
「それはな……」
こんな他愛もない日々がこれからも続きますように……
***
「大丈夫だった?」
教室に戻ると、灰原さんが駆け寄ってきて聞いてきた。私は「大丈夫だよ」と返し、笑って見せた。
私たちが帰ってきたのを確かめると、着席を促す声がした。私たちが席に着くと、先生はホームルームを始めた。
「おまえら、とりあえずなんでもいいけど、体育祭はまともに楽しめよ、な? 頼むから、さ」
まともにって……なにかあったのか?
どこか疲れているような長い先生の話を軽く聞き流していると、そのうちチャイムが鳴った。
「起立、礼」
先生に指示され、学級委員がそう言うと、全員が礼をして、口々に挨拶をしたり、しなかったりする。その挨拶の中にも、「さようなら」だったり、「ありがとうございました」だったり、種類は豊富だった。
「俺が朝に言った意味、わかったか?」
前の席の遠野くんが振り向いて聞いてきた。
『まあ、そんなに心配しなくてもいいと思うぞ?』
朝に言われたその言葉が頭に浮かぶ。あの時言われたあいつらが誰かも今はわかる。
「うん。わかった」
そう言うと、私は遠野くんに尋ねて、改めて今日の戦績を確認した。
とは言っても、遠野くんの把握している範囲だけだけど、それでもそこに並んでいるのは、輝かしいまでの勝利だった。ほとんどの競技で成績上位に入っている。
「私なんて、玉入れ1つも入らなかったのに……」
「まあ、気にすることはない。適当にやってればどうにかなるさ」
私の頭に数度手を置きながらそう言った。子供扱いされているようで、どこか悔しさに近い感情がこみ上げてきた。なのに、それほど嫌に感じなかった。
「そういえば、まともに楽しめって、なにかあったのかな?」
「なんでも、他クラスで変なことしてパニックが起こっていたらしい」
変なことって、なにがあったんだろう……結構気になる。
「ま、明日のリレー、頑張れよ」
遠野くんのその言葉に、私は小さく頷いた。
私は家に着くや否や、忘れないうちにお母さんに言った。
「お母さん、明日の朝、お弁当の作り方教えて」
お母さんは、いったいなんのことかさっぱりわかっていないようでキョトンとして、私の方を見ていた。しばらくして私の言った言葉の意味を理解したのか、ものすごくいい笑顔で答えてくれた。
「いいわよ、いくらでも教えてあげるわ。なんなら練習がてら、今日の晩ご飯の手伝いもして貰おうかしら!」
え、今日はやっても明日の朝には忘れてるから別にいいんだけど……でも、やたら乗り気だし、もう準備始めちゃってるし、いいか。
そうだ、明日の私が混乱しないようにメモもしておかないと。
私は軽くその旨をお母さんに伝え、自室へと向かった。
「準備できたら呼ぶからその時には来てね」
お母さんのその言葉に、私は軽く返事をすると、リビングの扉を開けて廊下に出た。
***
どうやら、俺の朝は爽やかな朝というものから程遠いもののようだった。
「ほんぎゃぁぁぁあ!」
つい隣の家から、そんな絶叫が聞こえてきた。
朝、6時過ぎのこの時間からすれば立派な近所迷惑なその声に、俺は大きくため息をついた。
「なあにやってんだよ、あいつ」
まあ、きっと作ってるんだろうけど。
俺はそれにフタをすると軽く手を洗い、玄関へと向かった。
ピンポーン。
インターホンを押すと、家の中からそんな音が聞こえてきた。
しばらく待っていると、バタバタとなにか焦って動いている音がして、ガチャリという音がして、小さく開いた扉から紀香が少しだけ顔を出した。
「お、おう、隆俊。どうした? こんな朝早くから」
「どうしたもこうしたも、朝っぱらからあんな大声出して」
そう言うと、彼女は苦い顔をしていた。やはりか。
「入れろ。中に入れろ」
「ああ、ちょっと待って――」
紀香は俺の行動を阻止しようとするが、問答無用。そんなことは気にしない。無理に押し入るようにして中に入る。
入った途端どこからともなく異様な臭いがしてくる。微かではあるが、かなり酷い。
とりあえず、元凶と思われる台所へと向かう。彼女はやはり引き止めようとするが、気にせずにどんどん突き進む。突き進んでいく。
そのうちに台所のドアが見えてくる。後ろで紀香がなにかギャーギャー言っているが気にせずにそのドアノブに手をかける。
「うわぁ……」
開いてみると、そこに広がっていたのは惨事と言ってもなんら問題はないような状況だった。
床に落ちた卵液、黒く焦げ付いた鍋。
「おまえ、母さんは?」
「勝手に自分で作れって、まだ寝てる」
マジかよ。それでこの惨事が……
混沌としたその臭いと、想像を絶していたその状況に、一瞬俺の意識はいくらか遠のいた気がした。
***
「ふあぁ……」
朝。私はベッドの上で考える。日差しが眩しいのはいつものことだ。
考えることは、覚えていることはなにか。遠野くんや、灰原さん、蓬莱くん、黒崎くん。それから紫崎さんと白石さん。
紙に書いている人物は覚えていた。そのことに対して、安堵の息を漏らすが、私は不安も感じていた。
この忘れるということの怖さは、忘れていても気づけないところにある。そう。こうやって紙にでも書いていなければ、覚えているかの確認さえままならない。忘れていても気づけない。
「怖い……」
忘れてしまうことが。この記憶を、失ってしまうことが、
「怖い」
忘れたくない。その感情が、ねずみ算よりも速く増えていく。
メモをめくり、やることを確認する。今日は体育祭か。嫌だな。
ん? なんだこれ。
「おーい、優奈! お弁当作るんじゃないの?」
私、お弁当なんて作れた記憶無いんだけど。
「おはよう」
昇降口には彼がいた。いつも通り。そして、いつも通り声をかけてきてくれた。私は「おはよう」と返す。
いつも通り、教室へと向かう。いつも通り遠野くんの左隣を歩いて。
「スエーデンリレー、頑張れよ」
放たれたその言葉に、私はそっとうなずいた。
「頑張る」
この会話はいつも通りではない。体育祭今日限りのもの。そうだからか、それともそれ以外の理由なのかはわからないけれど、なぜかとても忘れたくない。
とりあえず、頑張らないと。
あと、このお弁当、どうしよう。食べて貰えるようなものになっただろうか……




