#1 少女の中から消える過去
例の彼女が橘だということが判明したその次の日。
後ろの席には案の定誰もいなかった。
よく考えてみれば昨日もいなかった。けれども放課後の廊下には彼女の姿があった。昨日はあまり気にしていなかったが、改めてみるとおかしい。
少し気になった俺は、放課後に先生に聞いてみることにした。
「橘? ああ、遠野の後ろの席だったな」
職員室の入口で俺は頷いた。
先生の話を聞く限りでは、どうやら学校には来ているみたいなのだが訳あって教室には来ていないらしい。
さすがにその訳までは教えてくれなかったけれど。
先生曰く、なぜなのか気になるのなら本人に聞けということらしい。
まあ、当然だろう。
職員室から離れ、既に放課後を迎えてそれなりに経つ廊下を歩く。なんとなく1階に降りてみる。
もしかしたらと、全く期待していなかったというわけではないが、まさかそんなことは起こらないだろうと高を括って歩いていた。
そう。まさかそんなことは起こらないだろうと思っていた。
だから、視界にそれが映ったときには、この偶然に作為的ななにかが働いているのではないだろうかと考えてしまった。
1階の廊下。またしてもそこには橘がいた。ここまで連続して出会うことがあるということは、もしかすると橘も俺と同じように学校を散歩しているのだろうか。
近くまで来たら声をかけてみよう。それとも彼女の方からなにか起こしてくるだろうか。あるいは……
そんなことを考えていると、彼女は挨拶も会釈も、全くなんの素振りもなく横を過ぎ去ろうとする。違和感が思考を占領する。なにか、おかしい。
「た、橘!」
彼女と完全にすれ違う直前、急いで彼女の名前を呼んだ。
違和感がなんなのか確かめたくて呼んだその声に、彼女はピタリと足を止めた。
こちらを見た橘の顔を見て改めて違和感を感じた。今の彼女の表情もそうだし、通り過ぎようとしたときの彼女の様子もそう。
なんというか、まるで俺が知らない人とすれ違うときの様子……いや、もっと簡単に言えば、彼女にとって俺は名前も知らない全くの他人であるかのように。
驚きとわけのわからなさからきているような怪訝な顔で彼女は口を開いた。
「なんで、名前を……?」
彼女はその怪訝そうな表情を崩さず、さらに聞いてくる。
「すみません。あなたは……誰ですか?」
空気がピシャリと凍ったのを感じた。いや、しかし、確か、
「俺、自己紹介したよね。昨日」
そう。昨日は彼女の名前が橘 優奈であることを確かめて、そのときに俺の名前を伝えたはずだ。
「昨日のこと……なるほどそれで……」
彼女は自分の中でなにか納得できる事があったのか、そう呟いた。だかしかし、彼女に納得できても俺にはできてない。
「なるほどって?」
そう尋ねると彼女の顔がこわばった。聞かれたくなかった質問だったのだろうか。
「あ、えっと……」
確実に混乱している。俺は「言いたくないなら別にいいよ」と付けたした。
「いえ、迷惑もかけているのでキチンと言います」
彼女はすぅ、はぁ。と、大きく深呼吸して言った。
「信じてもらえないかもしれないですけれど、私」
眠ると、よく記憶が飛んでしまうんです。と。
橘 優奈:記憶障害
「記憶が飛ぶ……?」
馴染みの少ない言葉ではあった。
だが、仮にそうだとしてしまうと今までのことに説明がつく。昨日のことも、今日のことも。
「はい。眠ると一部の記憶が無くなるんです。どれくらい無くなるかは日によって差はあるんですが、基本的には前日の出来事はほぼ一切覚えてません」
あまり、想像をしやすいようなことではないが、大変だろうということはよく分かった。
それにしても、
「なあ、その敬語、できるならやめてもらえない? いちおうさっき初めて会った相手に急に名前を呼ばれて驚いたのはわかるけど、同級生なわけだし、慣れないっていうか、俺も敬語で話すべきなのかとか思ってしまうから」
実際、さっきから凄く違和感を感じている。それとも、俺がただほぼ初対面の相手に馴れ馴れしかっただけだろうか。
「うん。わかりま……わかった」
そんなことはなかったらしい。おそらく。
「よし。で、その、眠ると記憶が飛ぶってやつ、そんなに酷いのか?」
そう言うと、彼女はキョトンとして、こちらを見てきた。
「どうしてそう思うの?」
「いや、だってクラスまで来れてないから、クラスの場所とか覚えられていなくて来れないのかなって」
その問いかけに純粋に答える。すると、橘は、クスクスと笑いながら言った。
「別にそんなことないよ。行こうと思えば行ける」
俺は耳を疑った。行こうと思えば行けるだと? それなら、
「来いよ」
「……え?」
俺の呟きに、橘が反応する。
「クラスに来られるのなら来いよ」
せっかくなんだし、来られるのなら来たらいいのに。
彼女が目を丸くした。おそらく、そんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。
少し悲しげな表情で、でも、笑顔を作った表情で、彼女は言った。
「やめておくよ。きっと私がいても迷惑だから」
***
「やめておくよ。きっと私がいても迷惑だから」
そう。きっとクラスに私がいても迷惑だ。だから。
そう思って言ったのだが、目の前の彼からは予想していないようなことを言われた。
「迷惑かどうかはお前が決めることじゃない。クラスのやつらが決めることだ。少なくとも俺は迷惑とは思わない」
なんで?
「でも、私、すぐ忘れるし」
「物忘れが激しいやつなんて沢山いるぞ」
なんで?
「私、教室どこにあるが覚えてないし」
「誰かに聞けばいいだろう。なんなら俺がここまで迎えに来てやる」
なんで?
「でも、私が、あなたのことを忘れちゃったら?」
「何度でも教えてやる」
なんで? なんでなの?
「でも」
言う前に遮られる。
「ともかく、明日からは教室に来ること。いいな?」
「……っ!」
返事が出来ない。覚えていられる自信が無い。だから教室には行きたくないって言ってるのに。
なのに、なぜなのかこの人は関わろうとしてくる。そして私はその勢いに押される。
「はい。これが俺の名前。あと連絡先とかもろもろ。この学校には来れるんだよな?」
メモパッドかなにかを取りだした彼は、同じく取り出したボールペンで書いた文字を押しつけてきた。
「はっ、はい」
勢いで反応してしまったが、嘘では無い。一度、定着してしまえば、人並みの記憶力と同じくらいでは覚えていられる。
「よし、じゃあここで待っておくから。明日からは教室に来ること。いいな?」
「イ、イエッサー!」
あ、返事しちゃった。
それなりに人の詰まった電車の中。私は周りの人に聞こえないように呟く。
「不思議な人だったな……」
あのときはつい間違って記憶のこと言っちゃったけど、言っちゃったものは仕方ないし、むしろそのことを使えばきっと手を引いてくれると思ったのに、
それでもなお執拗に私に関わろうとしてきて。相当なお人好しか、お世辞か、それとも――
結局、半分無理矢理に結ばさせられた口約束で、明日は教室に行くことになったし。
彼から渡された紙には、彼の名前と連絡先、あとは、朝、昇降口のところで待っているから来ること。それから、敬語禁止。と書かれていた。
私はその紙を丁寧に4つ折りにして鞄のポケットに入れた。
「少しだけ、明日が楽しみだな」
明日を楽しみにしたのはいつぶりだろうか。
しかし、今日の私は明日にはいないと思うと、やっぱり悲しく思えてくる。
明日のことは明日の私がなんとかするだろうし、今の私があーだこーだ考えたところで、だろう。
考えたくなくなった私は、明日の運勢をガラス越しに光を送り込んでくる夕日にでも託してみたくなった。