#12 少年はなにかやらかした
さて、なぜこうなったのだろうか。
「………………」
俺は、どうして橘の家の食卓に座っているのだろうか。
『ねえ、遠野くん、時間ある?』
橘から告げられたその言葉。それがまさかこんなことになろうとは。全く予想外だった。
さて、それは数分前に遡ることになる。
♢♢♢
「ちょっと家に上がってくれないかな?」
家の中に一度入った彼女は、出てくるとまず始めに少しバツの悪そうな顔をして橘はそう言った。
「ああ。いいぞ」
なにか別な用事があったわけでもないし、たしか今日は両親ともに早く帰ってこれるとか言っていたから、遅く帰ってもあいつらの飯についての心配はない。
安心してそう答えると、橘は表情を変えないまま俺のことを手招いた。
そして、彼女について扉の中に入ると、
「こんばんは。いつも娘がお世話になっております」
扉の奥にいたその女性はぺこりと礼をした。あまりに唐突なことだった。
「とりあえず、こちらへ」
そう言ってその女性は食卓であろう部屋に俺が入ることを促した。
というか、誰だ? この人。
橘はそっぽを向いてなにも言わなかった。
♢♢♢
ということで、俺は今、橘の家の食卓に座っている。しかし、なぜそんな状況になっているのかについては、皆目見当がつかない。
さて、俺はなにかやらかしたのだろうか。
俺の右隣には橘が。そして、目の前には先程の女性、橘の母がいた。
「本当に、娘がいつもお世話になっております」
ぺこりと頭を下げてそう言った。俺も急いで頭を下げた。
うーん、俺は一体なにをやらかしたんだ?
***
この人が優奈の話していた遠野くんか。
礼儀正しくていい人じゃない。
「いつもお弁当を用意して貰ってるとか……」
「いえいえ、どうせ作る量が変わるくらいで、それほどの手間はありませんし、喜んで貰えているようで何よりです」
この人に優奈は影響されて学校に楽しく行けるようになったのか。
「これからも、優奈と仲良くしてあげてくださいね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
本当に、違和感を感じるくらいに礼儀正しいわね。
あなた高校生? って聞きたくなってしまうくらいに。
「お邪魔しました」
「ごめんね。暗くなるまで。気をつけて帰ってね」
「はい」
しばらく話していたら、すっかり外が暗くなってしまった。
遠野くんが外に出て、扉の閉まる音がした。
「ねえ、優奈、あなたは遠野くんのことが好きなの?」
「へ? 好き?」
そう言って優奈は首をかしげて見せた。
「そうだ。お母さん、好きってなんなの?」
私は思い出したように聞いてくる優奈を見てあることを思い出した。
(そうか。この子は……)
記憶が定着しないから、好きがわからないんだ。
だって、好きっていう感情は、本来、積み重ねによって生まれるものだから。
ま、これについては完っ全に私の持論なんだけどね。
「まあ、そのうちわかるよ」
根拠もなく、私はそう言った。
笑って見せてはみたが、やはり心というか心臓というか、なにかがギューッと締め付けられるような感覚に襲われた。
「そんなものなのかな?」
本当に、ごめん。
***
好きってなんなのだろう。
灰原さんに言われてずっと思ってたけど、どんな感情なんだろう。
お母さんも教えてくれないし、もしかしてあんまりよくない感情なんだろうか。
いや、でも、好きは正の感情ってことを聞いた気がするんだけど。
まあいいか。自問自答しても解決はしないし。
しかし、まあいいかとさっきは言ったものの、やはり簡単には割り切れはしなかった。
「やっぱり気になる……」
友人に、そして母親にまで聞かれた。その言葉とはなんなのか。ベッドの上で思考にふける私の頭の中はそのことで一杯だった。
しかし、だんだんとその思考を睡魔が呑み込んでいく。
私はこの疑問をメモせずに、眠りへと落ちていった。
「よーし、全員に模範解答行き渡ったな。それじゃあ、テスト返すぞー。机の上に筆記用具置いてるやつは赤ペンだけにしろよー」
そうとだけ言って、先生が1番から順番に名前を呼んでいく。
「橘ー」
呼ばれた。私は先生の方へ向かう。
「はい」
手渡された解答用紙も持ち、私は自分の席へと帰った。開きたい衝動には駆られたものの、我慢をして。
「どうだった?」
先程まで別の方向を向いてなにかしていた遠野くんが聞いてきた。
「まだ見てない。遠野くんのテストが帰ってきてから一緒に見ない?」
どれくらい差があるのかを見てみたい。
「なら、残り2人のテストも一緒に見ないか?」
ふと2人の方を見てみると、こちらを凝視してなにかサインを送ってきていた。なるほど、さっきのなにかはこれか。
遠野くんはそう言うと、少し離れた席にいる蓬莱くんに合図をした。
「遠野ー」
遠野くんが呼ばれて前へと行った。
「せーのっ!」
灰原さんがそういって、全員が一斉に解答用紙を開く。
だいたい予想通りの点数だった。83点も取れていれば十分だろう。
私は遠野くんの用紙を見た。え……96点って、凄い。
「や……やったーっ!」
しかし、この中で最も早く、そして突然に声を上げたのは灰原さんだった。相も変わらず、蓬莱くんは不機嫌そうな顔をしている。
まあ、それは置いておいて、私は灰原さんの解答用紙を覗き込んだ。
「赤点……回避!」
嬉しそうな声で灰原さんが言う。確かにテストで赤点である4割未満を取っていない42点である。たしかこの教科、数学Aは灰原さんの苦手教科だったはず。
「おいおい、83点の人間と96点の人間に教えて貰ってこの程度かよ……」
嘲笑するようにして蓬莱くんが言った。
「なにをっ! そんな隆俊は何点なんだよ」
「ほら」
食いかかるようにして言う灰原さんに、蓬莱くんは自慢げに解答用紙を見せた。
「73点……だと?」
解答用紙を見た灰原さんは、絶望するようにそう言った。
「ゲームばっかりしてるくせになんでもって取れるんだよ……」
「ねえねえ、これって次の教科もやるの?」
私はそう聞いた。
数日後。テストが返却され切った。
「ふうー、全教科赤点回避ー」
灰原さんはそう言って、背もたれに思い切り体重を預けた。
「お疲れ様でした」
私はそう伝える。テスト返し1つでこんなに大きなイベントになるんだな。
とりあえず今回わかったことは、遠野くんがすごい人で、全ての教科で90点以上だったってこと。ちなみに私は基本80点台。2つ70点台で、1つ90点台だった。
あと、蓬莱くんは1つを除き70点台、その1つは86点だった。ちなみに生物基礎。
灰原さんは今言っていたように全教科赤点回避。数学Aも数学Ⅰも赤点の回避に成功していた。まあ、40点台だから危ないのには変わりないんだけど。
みんなで一斉に開いたりするのは楽しかった。と記録されている。メモ帳に。まあ、実際今日の分は楽しかったけど。
「それにしてもさー、現国の高セン。返すときに点数見えるように返してくるから比べる前に自分の点数わかっちゃってたんだけど」
「ワカル」
灰原さんがそう呟き、それに蓬莱くんが賛同していた。
なんでも一昨日のテスト返し、現代文の先生、高橋先生がテスト返しのとき、その渡し方が完全に解答用紙を開きながら点数が思い切り見える形で返してきたらしい。灰原さん曰く、「楽しみが半減した」らしい。
と、その時。
「ねえねえ! 見てっ!」
突然、テンションの高い声がした。
「ああ、黒崎、どうした?」
その声の主に対して遠野くんが返答をする。黒崎くん、待って、何となく覚えてる気がする……えっと、あ、おっぱぁぁぁぁあ! ダメダメ、これ以上は。うん。
でも、思い出せた。……で、その黒崎くんがなんの用だろう?
「これっ!」
「ん? テストか?」
黒崎くんがテストを見せた。ずらっと並んだそのテストを私たちは覗き込んだ。すると、遠野くん以外の全員がそれを見て驚愕した。
「お、赤点回避できたんだな」
「うん。よかったー」
唯一平然としている遠野くんがそう言って黒崎くんを褒めた。ねえ遠野くん、なんでそんなに平然としていられるの?
私は言葉をこぼした。
「40点ジャスト……」
それも、全教科。
***
俺は教室の隅に座って呼ばれるのを待っていた。
「紫崎」
名前が呼ばれた。俺は無言で先生の元へ向かう。
「はい、テス……ト!?」
先生はなにかに驚いたようにして言った。
てか、あんた採点してるんだよな。その時点で気づけよ。てか、覚えておけよ、1年もアンタの持ちだった気がするんだがある程度どれくらいだったとか。とくに、こんな点数なのならなおさら。
「おまえ、カンニングとか、してないよな?」
「してません」
なわけねーだろ。正真正銘の実力だっつーの。
「そ、そうか」
先生は震えているその手で俺に解答用紙を返した。
0が2つ並ぶその用紙を、俺は半分奪い取るような形で受け取った。
「よし、これで残る教科は古典だけか」
頭の中でここまでの点数を整理する。うん。まだ許容範囲内……だろうか。
古典の授業が終わり、休み時間になっても、基本、俺の席に近づこうとする人はいない。
どう考えても、わざとだとしか思えないくらいに開いた右と前との席の間隔はそのことを補足して強調している。
今日は、いつ帰ろうか。
旧校舎の教室にいるであろう、彼女のことを気にしてそう言った。
「この点数を見て、褒めるだろうか。怒るだろうか」
そう言いながら俺は教科名と数字の羅列された紙を指先で弄んだ。
ほとんどが100と。僅かにそれに満たない数字がほんの少し混ざったその紙を。
さて、今日は帰るのが少し楽しみだ。
***
「テストも終わったし、やっと体育祭だね」
灰原がそう呟くと、橘の顔が曇った。
「大丈夫だよ、一緒に頑張ろ!」
橘が不安がってるのに気づいた灰原がそう言った。
「お願いします……」
とても弱々しそうな声で言った。
そういえば、今週末だな。
今週末……と言っても、2日連続でやるこの学校では木、金曜日に行われるため、月曜である今日から見れば……3日後か。
近いな。なかなかに。
そして例の如く。それか、やはりと言うべきか。
時間が過ぎるのは早い。
「もうやだ……帰りたい……」
「頑張れって。灰原に付き合って貰ったんだろ?」
現実逃避を始めようとする橘に俺は言った。
遂に体育祭当日。
いつも通り、昇降口で会った俺たちはそんなことを言いながら教室へと向かった。
もうすぐ、体育祭が始まる。
「まあ、そんなに心配しなくてもいいと思うぞ?」
「え?」
俺がそう言うと、橘は気の抜けた声をした。
「もっと楽にしておいて、楽に参加すればいい。あいつらがいれば、きっと問題ないしな」
橘は理解していないようだった。
なるほど、体育の時間の記憶はないのか。まあ、そんなに印象に残るようなこともないし、体育の授業なんて、繰り返すこともできないし、仕方ないか。




