#117 少女は想いを受け取る
翌日に部室へと向かってみると、不思議なことに、ノックをしたのに返事がなかった。
疑問符を浮かべながらも、とりあえずは中に入って待っていようかと思うと、
「あっ」
「しー」
ドアを開けたら。ちょうど、黄乃ちゃんと遭遇するところだった。
彼女は口元に人差し指を当てると、私に静かにするようにそう伝えてきて、そのまま布……毛布を引きずりながら部屋の奥へと歩いていった。
「学校で寝るなとか、そういうことを思うかもしれないけど」
ポロッと、彼女がそうつぶやきながら、バサリと乱雑に毛布をかける。
そこには、床にダンボールだけを敷いて横になっている紫崎さんの姿。
「許してあげてほしい。さっきまで、寝てなかったから」
寝てなかった? と、その言葉の意味はわかるけれど、なぜだろうと、そんなことを思いながら、いつも座っている席へと向かうと、そこにはひと組の紙束。
「えっ、これって」
「しー」
思わず大きな声が出てしまって、すぐに黄乃ちゃんの制止が入る。
慌てて口を塞ぎながらもそれを確認すると、丁寧な字で手書きされた、たくさんの問題。
「残りの科目は、また明日に作るから。今日はそれを持って帰って」
「作るって……えっ?」
音量に注意しながら、そう聞くと、彼女はコクコクと。
「私も、龍弥も。教えるのは得意じゃない。……話すの、慣れてる人相手なら、ともかく。でも、型に嵌めたやり方を伝えるだけなら、できる」
そうとだけ言うと、彼女はモゾモゾと紫崎さんの腕の中へと潜り込んでいき、すっぽりとその中に入る。
「私も、眠いから。……おやすみ」
と、そう言うと。ふたりで並んでスヤスヤと寝息を立て始めた。
さっきまで寝てなかった、ということは。もしかして、昨日から徹夜でこれを作っていてくれたということだろうか。
そういえば、テストの範囲については昨日に牧坂ちゃんから聞いていたはず。そこからこれを……、
パラパラとめくってそれらを確認して。その必要労力を思うとゾッとする。
少なくとも、こう、ポンッと渡されていいものではない気がする。
いわゆる小問系統の問題は当然解けるものとして、それ以外の、大小様々とはいえ、なにかしらの引っ掛けがかかってきたり、それ特有の考え方をしなければならない問題を、おそらくは自作したということだろう。
同封されている紙には、その問題の解答。そして、解く上でのポイントや、ミスを起こしやすい箇所の注意点まで書かれている。
基礎ができているという前提は必要だが、たしかにこれをしっかりと行っておけば、かなりいい点数は取れそうな気がする。
本当に、無償で貰っていいようなものではないと思う。
けれど、ここに置かれているということは。そして、黄乃ちゃんのあの発言を鑑みるなら、おそらくこれは私のためのものだろう。
パラ、パラ、と。中身を確認する。
「こんにちはー!」
「あっ、牧坂ちゃん、しーっ!」
大きな声で入ってきた彼女に、黄乃ちゃんに私がされたように、同じく唇に人差し指を当てる。
「……あー、そういえば先輩と黄乃ちゃん、疲れてるんだもんね」
「牧坂ちゃんは知ってたの?」
私がそう尋ねると、彼女は「絶対にそうだと言えたわけじゃなかったけどね」と、
どうやら聞けば、昨日の夕方。私たちが部室から出たあと、とりあえずの試験範囲暫定を決めた紫崎さんと黄乃ちゃんが、これだけの問題になると、作るのにかなりかかるぞ。と、そんなことをため息混じりに話していたらしい。
今の状況を見ただけでもなんとなくそうなのだろうという推察はついていたが、やはりというべきか、本当にとんでもない労力だったのだろう。
「お、すごい。それが作ってた問題なんだね」
ちょっと見せて! と、牧坂ちゃんがいい、私は紙束を渡す。しばらく眺めて、彼女は「うん、やっぱり私は満点は無理だね!」と。
「数学はどうしても頭がぐるぐるってなっちゃうから苦手なんだよね」
大きく身振りをしながら、牧坂ちゃんはそう伝えてくれる。彼女の苦手意識がよく伝わる、大きな身体の振り方だ。
「……あれ、なら、どうして牧坂ちゃんはここ、数学研究部にいるの?」
苦手なのに、どうしているんだろう、と。そんな純粋な疑問が浮き上がる。
「それはね、苦手だから、なんとかしたいなーって。数学研究部だから、きっと得意な人がいるかなーって思って」
まあ、たしかにその考えは間違いではないだろう。そして、そうやって自身の苦手を克服しようとしている彼女の姿に、感心と尊敬を抱く。
「まあ、実は実際はここにいる人、特別数学が得意ってわけじゃないんだけどね」
「えっ」
思っていたこととはすっかり違ったことを言われてしまい、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「紫崎先輩と黄乃ちゃん、それから黒崎くんは数学が得意というよりかは、全般的に全て得意でしょ?」
昨日、白石さんたちに聞いた話をそのまま鵜呑みにするならば、紫崎さんは本当に、ほぼ学年トップの成績らしい。成績の順位などが公開されるわけじゃないから、それを確認することはできないが、点数だけを見て、ほぼそうだろうと推測できるとのことだった。それも、全教科で。
そしてそれを保証する、この問題集。いくら1学年下の教科だとしても、これを作り上げられる人の学力が低いわけがない。
そして、黄乃ちゃんも同じくこれに携わっているのだとすれば。……いろいろと不服な面はあるが、間違いなく私よりあの子のほうが賢いのだろう。
「それから、白石先輩と鈍川先輩は、別に数学が得意ってわけじゃないのよね。どちらかといえば、紫崎先輩がいるから入ったというか――」
「おやおやあ? 紅花ちゃんは、先輩のことをどう思ってるのかなあ?」
ずいっ、と。牧坂ちゃんの肩越しに、顔がひとつ飛び出してきた。
突然のことに、ひっ、と、一瞬怯んだ彼女の様子を、白石さんが面白がって笑い、ため息を付きながら、鈍川さんが諌める。
「実際、そのとおりだしな。俺たちはどちらかといえば数学が得意とかそういうわけではなく、紫崎が部活を作るための数合わせとして参加したし」
「そうそう。鈍川はともかくとして、私は紅花ちゃんと同じく数学は苦手な部類だしね」
たしかに、メンバーを見てみれば数学が別段得意という人はいないように思える。
しかし、そうであるならば。特に、部活の創設メンバーであるならば、どうして数学研究部にしたのだろうか。
「それはまあ、数学って看板を立てとけば入部者が寄り付いてこないかなあって。まあ、その考えは黒崎くんと紅花ちゃんによって見事打ち砕かれたわけだけど」
「あっ――」
なるほど、と。奥の様子を見て、納得する。
正直私自身慣れかけていたが、黄乃ちゃんがいる今の状況は明らかにイレギュラーなわけで。
そして紫崎さん自身が周りから距離を置かれている事情などで、言ってしまえば部活としては、人が来ないほうが都合がいい。
「まあ、そういうわけで。……最初は、苦手をどうこうしたいって思ってこの部活にいたんだけどね」
もちろん、今でもその気持ちはあるし、ときどきいろいろと教えてもらって、成績もかなり良くなってるんだけど、と。そう、補足してから。
「今の、みんなの空気感が私はすっごく好きなの。白石先輩が騒いで、黒崎くんと、鈍川先輩がそれを止めて。紫崎先輩と黄乃ちゃんが面倒くさそうな顔をして。そんな中で、私は笑っていたいの」
「待って、紅花ちゃんの中での私の評価そんな感じなの!?」
思ってもみなかった評価だったのだろう。思わずツッコミを入れる白石さん。
「でも、最近の黒崎くんは、部活でも教室でも元気無かったから」
牧坂ちゃんは別のクラスなのだけれども。黒崎くんの様子を心配して、ときおり訪れてくれていた。
やはり憑き物がついたかのように、やや孤立気味に集中している黒崎くんを。
「私は頭悪いから、応援以外なにもできないけど。……頑張ってね」
「……うん」
白石さんから、鈍川さんから。
紫崎さんから、黄乃ちゃんから。
そして、牧坂ちゃんから。
受け取った想いはとてつもなく重たいけれども。
これは、私が果たさなければ、ならないことだから。




