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#105 栗色の不定方程式

 扉の前に腰をおろし、背中をドアに向ける形で座り込む。


「私ね、氷空に避けられ始めた頃はすっごく不安だったの」


 ぽつり、ぽつり。ゆっくりと、すこしずつ言葉を重ねていく。


 氷空がなにも言わずに先に登校しちゃって。帰ってきても自室にこもりっきりで。私がなにか、氷空を怒らせるようなことをしちゃったのかと、けれど思い当たる節もないわけで。不安で不安で仕方がなかった。

 家にいるときも、学校にいるときも。どうしたらいいのか分からなくて、どうしようもなく、この上なく。ただひたすらに悩んでいた。


「そんなときにね、階段下でちょっと小耳に挟んだんだ」


 あれは本当に偶然の極みみたいなことだった。本当にたまたま、人がほとんど訪れないような階段を利用していて、そこで行われていた内緒話を耳にした。

 その話を聞く限りでは、私は氷空に嫌われたわけではなく、むしろ好きだからこそ、私のことを想って避けてくれているんだということを知った。


「正直それを聞いたそのときは、めちゃくちゃに嬉しかったし、とっても安心した。氷空が避けてくれているのは私のためだったわけだし、それ自体氷空が無理をしてやっているとのことだったから、今すぐにでも話しに行って、今までみたいに仲のいい私たちに戻ろう。そう思ってた」


 けど、そこで一度足が止まった。

 氷空はテイとしては私の受験に合わせて私から離れようとしてくれている、ということだったけれど、もしかしたら私たちの関わり方について見つめ直そうとしているんじゃないか。そう、思うようになった。

 受験が終わって、そうしてまた今までどおりに戻って。そうなってしまえば、またいつかは同じような未来を繰り返す。そうなってしまえば、また同じような苦しみを繰り返す。

 であるならば。しっかりと、私たちの関係性を見直すべきなのではないか、と。

 姉と弟。その関係を、見直すべきでないか、と。


「私ね、知ってるの。氷空はうまく隠してたつもりかもしれないけど。……ううん、実際うまく隠してた。けど、氷空が中学の2年生と3年生のとき、孤立してたって」


「――ッ!」


 明確に、扉越しに動揺の見える息遣いが聞こえた。

 私も両親も気づいてなかった。担任から相談を受けるまで、誰ひとりとして気づきやしなかった。情けない話だ。


「私ね、思ったの。このままの状態で。今までの私たちのままで私が大学に行けば、きっと氷空は再び中学の頃みたいになっちゃうんじゃないかなって」


 階段下のあの会話を聞く限りでは、氷空のことを心配してくれるいい友人がいることはわかっていた。だから、純粋に全く同じになる可能性は低いとは思っていた。

 けれど、それはゼロじゃない。少なくとも氷空はまた私と同じ大学に入ろうと必死で勉強するだろうし、それに伴って他者との交流が減ることだろう。

 少しばかり誘いを断るくらいなら些末な問題ではあるのだが、それが二度三度、どんどん繰り返すようになり、そうして常態化していけば話は別になる。

 どうせ断られるだろう、と。そもそも誘わなくなる。そうして関わりが薄くなり、そうしていくうちに、はたして友人と呼べるのか怪しいような間柄になってしまう。


 なら。そうなってしまうのであれば。今、ここで決着をつけてしまおう。ここで、しっかりと見つめ直しておこう。そう思った。


 そのためには、まずは私自身の気持ちに整理をつけないと、決着をつけないといけないと、そう思った。

 けれど、思ったよりも事態は早く進展した。


「びっくりしたよ。氷空があんなにも早く自分の気持ちに整理をつけて、話しかけに来るだなんて」


 もちろん、氷空のほうが早くから気持ちの整理を始めていたというのは事実だ。けれど、それにしても早いと感じてしまった。

 なにせ、私自身が気持ちの整理をつけ始めた直後のことだったからだ。当然、気持ちの整理なんてついてるわけもなく、結果的にいえば彼を拒む形になってしまった。


 だというのに、彼はしっかりと自分の気持ちに向き合うことができていて、そうして自分の想いを私に伝えようとしてくれた。


 コトン、と。私がドアに頭を預けると、板1枚を挟んだ向こうから、氷空の声が聞こえてくる。


「友人から。……そいつに、なんていうかな。焚きつけられたというか、尻を蹴っ飛ばされたというか」


「そっか。とても、とてもいい友達だね」


「うん」


 もしかしたら階段下で話していたあのふたりのどちらかだろうか。そんな偶然を想起しながら、しかし氷空を救ってくれた人に感謝を抱く。


「とはいえ、やっぱりどうしてもまだ私自身の気持ちの整理はついてなくて。けれど、その過程でこうも思うようになったの」


 この問題は、私ひとりじゃ解けやしない。当然ながら、氷空ひとりでも解けやしない。

 だからこそ、しっかりと面と向かって話し合わないといけない。お互いの気持ちを、お互いにぶつけ合わないといけない。

 そうして行く過程で、どちらにとってもいい、ちょうどいい、そんな着地点を見つけに行くべきなんだ、と。


 けれど、私は弱かった。どうしても自分の気持ちの整理がついていない段階で、そうすることが怖くって。

 だからこそ、卑怯だけれど、こんな扉越しだなんていう中途半端な行動に移した。


 ……本当は、どうしたいかなんて目に見えているけど。その結果を考えると、どうしても尻込みしてしまった。

 私が苦しいのはどうだっていいけれど、氷空が苦しむことには、どうしても納得がいかなくて。

 けれど、きっと彼と面を合わせてしまうと、きっと私は強欲だから、自分の希望を、願望を。優先させてしまうような気がして。


 だから、私は扉越しで、彼に聞きたかった。


「ねえ、氷空。氷空はどうしたいの? どう、ありたくて。どうなっていきたいの?」






     * * *






 お姉ちゃんからの問いかけに、俺は一瞬戸惑った。

 その答えに対して、拒絶されてしまったらどうしよう。困らせてしまったらどうしよう。より、お姉ちゃんのことを悩ませてしまったらどうしよう。そんな、たくさんの考えが溢れてきて、考えれば考えるほどドツボにはまっていくように感じて。


 けれど、思い返す。隆俊に言われたことを。

 少しは、自分自身の気持ちを大切にしてあげる。

 俺は、お姉ちゃんのことが好き。紛れもない事実だ。


「俺は、お姉ちゃんと仲良くしたいと思ってる。それはもちろん、姉弟としてもだし、それだけじゃなくって……」


 言葉を紡ごうとして、一気に胸が苦しくなる。今、自分が出そうとしている言葉の重みを強く感じる。

 けれど、言わなくちゃ。伝えなくちゃ。


「それから、その、そういう男女の関係としても」


「……!」


 扉の向こうにいるお姉ちゃんから、言葉にはなっていない、けれど確かな動揺を感じた。

 それが嫌悪や拒絶から来ているものではないと願いながら、俺は言葉を続けた。


「だからこそ、しっかりと話し合いたい。きちんと、お互いの気持ちを確かめたい」


 これは、俺ひとりの気持ちを優先してはいけない。当然ながら、お姉ちゃんひとりの気持ちを優先するものでもない。

 隆俊の言っていた言葉は、当然ながらお姉ちゃんにも適用される。お互いが幸せになるためには、ふたりどちらの気持ちだって蔑ろにするべきじゃない。だから、


「話し合おうよ、お姉ちゃん。ちゃんと、面と向かって」


 しっかりと、俺が思っている「どうするべきか」を伝える。


 返事はしばらくなくて。……まだお姉ちゃんの気持ちがはっきりしていないのに、早まったかな、なんて、そんなことを思っていたら。


 ガチャリ、と。背中を預けていた扉が、ゆっくりと開いた。

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