#99 ブラコン少女は覚悟する
「ねえ。隆俊は、私とそういうふうに見られるのは、迷惑?」
突然に告げられたその言葉に、俺は数秒間意味を理解できないでいた。
初めて見る紀香の表情。初めて陥ったこんな状況。
何もかもが知らなくて、分からなくて、想定外で。
「や、やっぱなんでもない! 今のは忘れて! うんっ!」
俺は、何も答えられないでいた。
彼女は両手を前に突き出して、必死で否定を表すかのようにそれを振り回した。
「ほんと、ほんとうになんでもないから……」
そうやって、なんとか誤魔化そうとしているその奥には、真っ赤に染まった紀香の顔があって。
……どう見たって、なんでもないようにしか見えない。
けれど、それを追及することは俺にはできなかった。
「そっ、そうだ! 部活、部活に行かないと!」
「おまっ、まだもうひとつの話が! それに部活はさっき――」
「ごめんね、隆俊! また明日!」
ものすごく慌てた様子で、彼女はその場から走り去ってしまった。こうなってしまえば、到底追いつくことは叶わない。
まだ雨宮についての話ができていなかったが、もうこの際それは、いい。
「はぁ……クソッ…………」
自分自身が、情けない。あのとき、彼女の質問にパッと答えられていたらなにか変わったんだろうか。
『ねえ。隆俊は、私とそういうふうに見られるのは、迷惑?』
頭の中で、言われたことを反芻する。
あのとき話していたのは、誰かが俺たちのことを階段下で色沙汰を起こしている男女に見えるのかもな、ということであり。つまり「そういうふう」というのは、
「――ッ!」
顔に血が昇ってくるのがハッキリと感ぜられる。思わず左手で顔を覆い、その場にうずくまる。
「なんだって、現実世界ってもんは難しいんだよ」
セーブもなければロードもない。当然選択肢なんてものはないし、分岐について考えるための猶予時間もない。
「ほんっと、マジでクソゲーなんだけど……」
自分の犯した判断ミスを棚に上げながら、俺はそんなことをつぶやいた。
こんな感情のまま、明日俺は一体どうやってアイツと顔を合わせればいいんだ。
* * *
盗み聞きしていたのが悪いということはわかっていたけど、ふたりが近づいてきそうと思って慌ててその場から逃げ出してしまった。
心臓がバクバクと跳ね上がる。けれどこれは走ったからではない。
「よかった……氷空に嫌われたわけじゃなかったんだ……」
突然に弟に避けられるようになって約1週間。一体どうすればいいのか。そもそも近づいてもいいものかとずっと考えていた。
もちろんあそこで話していたふたりの話が真実だとは限らないけど、それでも氷空に嫌われたわけじゃないという可能性が見えただけでも私にとっては嬉しいことこの上なかった。
そうと分かれば話は早い。今日は氷空のために張り切って晩御飯作って、存分に氷空と……。
ウキウキ気分でそんな無計画な予定を立てて、そして。
本当にそれでいいのだろうか、と。
ふたりの話を聞いた限りでは、氷空は苦しんでいるようだった。私の負担になるまいと、私の邪魔をするまいと。
私自身の正直な感想を告げるのであれば変に避けられたりするよりかは圧倒的にいつもどおりベタベタと触れ合っている方が負担にも邪魔にもならないのだけれど、きっとそれでも氷空にとっては納得し難いことだろう。
氷空が私の元を離れようとしているその気持ちは、半端なものではないだろう。私がその立場だったらと思うと、とてつもなく苦しいことだと思う。
そんなものを、軽々しく踏みにじっていいものだろうか。……いいや、ダメだろう。
悔しさから、下唇を噛む。行き場のないいらだちが、ふつふつと湧き上がってくる。
もどかしい。何もできない、してあげられない自分が嫌になる。
手を差し伸べるれば、彼は自責を始めてしまい、差し伸べなければ、互いに孤独に苦しめられることになる。
どうにか手立てはないものか。考えてみるも、思いつかない。
それどころか、思いつくのはもっと苦しい事実だった。
「そもそも、いつかはこうなることだったってことなんだよね……」
私は姉で、氷空は弟。私だって興味があって調べたことがあるから知ってる。日本の法律では4親等かそれ以上に遠い関係じゃないと結婚ができない。
私たちの場合は両親が1親等で、その子供に当たるお互いが2親等になる。当然だが、結婚はできない。
4親等になるのは親の親の子供の子供、つまりは従兄弟が同世代としては最も近いことになる。
兎にも角にも、姉弟が結ばれることは、ない。
そうなると、必然的にいつかは別れる日が来るわけで。……もちろん、お互いに一生独身で仲の良い姉弟として暮らしていくことはできるかもしれないが、そんな生き方を彼に強いるわけにはいかない。
それならば、それをきっかけに少しずつ互いに互いが依存している今の関係性を見直していく――離れていく必要があるんじゃないだろうか。
わかってはいたが、考えれば考えるほど苦しさが増していく。
そういえば、あのときのふたり――男の子のほうが何かを言っていた。
『あいつの気持ちに寄り添って、なんとか助けてやりたいと、そう思う』
氷空は、いい友達を持ったね。そう思って少し安心した一方で、この言葉の真意を考えてしまう。
彼の立場としての、彼の考えていた意見というものはどちらだったのだろうか。
そのあとで何か作戦会議というわけではないがこれからの方針を話していたのは覚えている。しかし、そもそも盗み聞きしていただけなので、ハッキリと聞こえていたわけじゃなく、細かい内容までは掴めていない。
たしかお姉さんのところに行ってなにかしてくるのが手っ取り早いみたいなことを言っていたような気はするけど、それだけだとなんとも判断が難しい。
……いや、普通に考えてみれば友達が実の姉のことを好きであるということを応援するだろうか。
社会常識や法律や。いろいろなものを考えてみても、普通なら「姉離れしようという決断をした彼の気持ちに寄り添って手伝ってあげたい」という判断をしたというのが普通に思える。
なんだか少しだけ、スッと重たい気持ちが抜けた気がした。
氷空が私の重荷になりたくないのと同じで、私だって氷空の重荷になりたくはない。
彼の気持ちを。覚悟を。それを尊重するのであれば、私もそれに合わせてあげるべきだろう。
私だって、氷空のことが好きだ。
けれどこの気持ちは、ダメなんだ。
そう確信することができた。そこまでくればあとはもう単純だ。
私も覚悟を決めるんだ。……大丈夫、氷空にはあんなにもいい友達がいるんだ。いい人だってすぐに見つかる。私なんかよりもずっといい人が。
私よりも、氷空のことを想ってくれる人が。
抑え込んだつもりの恋心が、そんな人なんていない! と叫ぶ。
けれどダメなんだ、と。その気持ちを無理矢理に押し潰す。
いつのまにか頬を涙が伝っていたが、私はそれに気づくことはなかった。




