苛む傷跡
照り付ける真夏の日差しと、それをまぶしく反射するロイヤルブルーの大海原。白い砂浜に、響く潮騒。碧海 翔の眼前に広がるのは、そんな景色だった。深く息を吸い込むと、香ってくるのは磯臭い海特有の匂い。顔を優しく撫でる海風が、熱くなった体を遠慮がちに冷ましていった。翔は一度大きく深呼吸した。早くも潮の香りが身体に染み付いた気がした。
「翔兄はやく~!そんなんじゃ日が暮れる前に鎮守府に着けないよ~!」
波打つ音に負けないぐらいの大声が、翔の左側から聞こえてきた。見ると、セミロングの黒髪を海風になびかせた少女が口元を両手で囲い、翔を呼んでいた。若葉色のワンピースが髪と共に優しく風になびいている。
「そんなわけないだろ、まだ昼にもなってないんだから」
そう言いながら少女の方へ歩み寄る翔。それを少女、碧海 瑞希は待ちきれないと言わんばかりにうずうずしている。思わず翔の口からため息がこぼれた。この妹は、相変わらず待つことが苦手らしい、と。
「瑞希、あんまり慌てるなよ。はぁ……お前は昔っからせっかちだなぁ……」
「仕方ないじゃん!だって楽しみなんだもん!」
「そう言って毎回面倒事に巻き込まれてるだろ。ちょっとは我慢を覚えなよ」
「はぁい、わかったよ~」
「絶対反省してないな……」
翔はとてもとても深いため息をついた。『楽しそう』『面白そう』『興味津々』……瑞希がこう思って自分の好奇心の赴くままに突っ走った結果、トラブルを大量に抱えて翔の元へ駆け込んでくるのはもはや両手で数えきれないほどある。一歩間違えば大惨事になりえたこともあった。しかも大抵尻拭いをするのは翔……まさにトラブルメーカーである。
「ほら、早く行こうよ!」
「はいはい」
嬉しそうに走り出す瑞希と、そんな瑞希をため息をつきながらも優しい眼差しで追いかける翔。二人はなんだかんだ、仲の良い兄妹なのだった。
「ようこそ、舞鶴鎮守府へ。お待ちしておりました。案内役の桜田 夕と申します」
何かの植物の蔓が壁に這う赤煉瓦の倉庫群を抜け、翔達がたどり着いた建物の前に立っていた少女がそう告げた。歳は18歳である翔より少し下ぐらいで、15歳の瑞希より少し上ぐらいだろう。セーラー服に似た服をきっちり着込んでおり、黒髪はショートカットをピンで十字に留めていた。シルバーメタリックのメガネが日光を反射して輝いている。夕は淡々と二人を舞鶴鎮守府内の工廠待合室へ迎え入れた。二人は夕に促されるまま、室内へ足を踏み入れた。
「こちらでお待ちください。今工廠は空いているので二人同時に別々の船渠で核埋め込み手術を済ませてもらいます。鎮守府内はその後、体調に配慮して案内させていただきます」
「ありがとう夕さん」
「またあとでね~!」
工廠待合室に着いた翔達は案内役の夕と別れ、夕が工廠と呼んでいた建物へ入る。普通の軍港のような工廠設備を想像していた翔だったが、艦人用の設備のため少し作りが違うようだ。見渡すと電灯の光に照らされて整備中の艦載機が見えた。奥の船渠には海水がはってあったが、なぜかすぐ隣にベッドが見えた。船渠の大きさは大型艦でも余裕で入れそうなほど大きかった。
『碧海翔さん、碧海瑞希さん、1番2番ドックへお越しください』
「あ、呼ばれたな」
「うわぁ、楽しみだなぁ!」
「た、楽しみってお前……」
場違いなほどテンションが高い瑞希に、翔は呆れ顔になる。核埋め込み手術を受けるということは、今世界を恐怖に陥れている黒霧潜艦との戦いに身を投じるということだ。怪我をすることもあれば死ぬ可能性だってある。むしろ死ぬ可能性の方が何倍も高いのだ。基本的に適合者は核埋め込み手術を受けることが義務になっている。嫌々受けた人だっているだろう。楽しみというのは少々不謹慎ではないだろうか。
そう思って瑞希を戒めようとした翔だったが、瑞希の何かを決意したような表情と零した一言に思わず口をつぐんでしまった。
「……これでやっと、ママたちの仇を討てる……私が、この手で、奴らを沈めてやるんだ」
「瑞希……」
独り言が声に出てしまったことに気づいた瑞希が慌てて元の楽し気な表情で翔に笑みを見せる。そしてそのまま駆け足で奥の船渠へ行ってしまった。その場には、悲しい顔をした翔がただ一人残された。
翔達には両親がいない。数年前、黒霧潜艦の活動が活発になってきたころに襲撃に遭い命を落としたのだ。
まだこのころは黒霧潜艦の脅威が世界に浸透する前であり、人々は普段通りの日常を送っていた。フリーのカメラマンだった二人の父は、妻と共に仕事で訪れた瀬戸内海に浮かぶ大久野島を訪れていた。そしてその帰り、黒霧潜艦の潜水艦による通商破壊攻撃に巻き込まれたのだ。内海にまで出没すると思われていなかったため、客船が単体で航海していたのが運の尽きだった。放たれた数発の魚雷は逃げる客船を一瞬で捉え、反抗の余地なく致命傷を与えた。客船は瞬く間に沈没し、生存者はゼロ。救援及び黒霧潜艦撃破のため呉から出撃した艦を赤子の手をひねるように瞬殺した潜水艦は悠々と瀬戸内海を後にしたという。
翔がこの事件を知ったのは通っていた中学校から帰宅した時だった。テレビの報道を見た瞬間、翔は父の携帯に祈るように電話を掛けた。だが何度掛けても、聞こえてくるのは無機質なコール音と留守番電話。おそるおそる翔の様子を見に来た瑞希は、兄の様子ですべてを察したようでその場で泣き崩れた。彼らの日常が壊れた瞬間だった。
その事件から月日が経ち、瑞希の顔に笑顔が戻ってきた。世界は黒霧潜艦の脅威に包まれ始めていたが、翔にそんなことはどうでもよかった。壊れた日常は決して元には戻らない。それでもその傷を乗り越えて、前に進んでいたのだ。
それから暫く経ったのち、二人に適性があることがわかり、翔と瑞希は国から核埋め込み手術の話を聞いた。また平穏な日常から追い出されることに翔は渋い顔をしたが、瑞希はとても喜んだ。その時には理由を語らなかった瑞希だったが、まさか両親の敵討ちを考えているとは翔は露ほども思っていなかった。
『私が、この手で、奴らを沈めてやるんだ』
瑞希の言葉が、翔の頭の中で何度も反響した。どす黒い感情と深い悲しみが翔を襲う。人知れず、涙がこぼれた。兄として、妹を護ろうと強く保っていた心が、音を立てて決壊したように感じた。
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。おそらく工廠の職員だろう。だが翔にはもう、その声は聞こえなくなっていった。体を揺さぶられる感触、それが、翔の最後に感じた感触だった。翔の意識は深い闇の中に音もなく沈んでいった。
知識不足で違和感のある所などあるかもしれませんが、大目に見てもらえると嬉しいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。不定期更新ですが、これからも読んでいただけると嬉しいです。