変異
耳を澄ませば、些細な音にも過敏になった。
背後で実の収集をしている玄狩のことはもちろん、自分の心臓の鼓動でさえもはっきりと捉えられる。脈打ち、瞼の裏に波紋を描く、断続的な鼓動の波。一定の間隔で正確に刻まれた、それに混じる、異音。
何かを踏み締める、重い音。
「来たッ!」
「随分とはやい。けど、しようがない。行くよ、此処から脱出する!」
木の上から飛び降りた玄狩は、来た道とは別方向へと移動を開始する。それに続いて自分もこの場を後にしようと踏み出した。化物がくる前に、追いつかれる前に、もっと遠くへ逃げよう。
しかし、その考えは酷く甘いものだったと直後に知る。
駆け出して数秒、視界の端に何かがちらついた。かと思えば、それは凄まじい勢いで巨大化する。いや、違う。巨大化したのではない。それだけ近付いて来たんだ。此処まで、それは伸びてきた。
鱗のような、甲殻のような、硬い何かに覆われた、五本の爪が。
「や――ば」
回避。
間に合わない。
防御。
意味がない。
死。
それらが一瞬にして脳裏を過ぎる。
「世話が焼けるんだから、ホントにもう!」
頭に強い力を受けて、俺は勢いよく頭を垂れた。頭を押さえ付けられ、腰が曲がり、バランスを崩して地面に倒れ込む。またしても俺は玄狩に倒された。だが、そのお陰で直撃は免れた。
倒れると同時に、洞窟の壁面から破壊音が響く。あの五本の爪は俺の頭上を通過し、背後の壁へとぶつかった。その衝撃はクレーター状に凹んだ傷跡が物語っている。あれが直撃していたかと思うと、背筋が凍った。
「立って走るッ! 前に向かう!」
「わかってるっての!」
手の平で地面を押し返し、足の爪先で地面を蹴る。
土だらけにならりながらも走り出し、駆けながら背後を振り返る。その視線の先にいる玄狩は、またあの大鎌を携えていた。どこからともなく現れたそれを振るい、伸びてきた腕を斬り裂いてから、こちらに逃げ出した。
これで腕の再生にまた時間がかかる。
「次はどっちだ」
「左だよ」
玄狩の指示を仰ぎながら、洞窟内を突き進む。右へ左へと舵を切り、周りはまた岩肌が目立つようになってくる。
「……思ったより学習がはやいね」
「つまり、どう言うことだ?」
「そう簡単に振り切れなくなったってこと」
玄狩の言うことは、たしかに正確だった。
どれほど移動したか。走っても走っても、化物は振り切れない。何度も何度も繰り出される攻撃を、あの五爪を、玄狩は大鎌で刈り続けているのに、一向に距離がひらかない。攻撃は繰り返し、振るわれている。
つまり、再生に殆ど時間がかかっていない。
玄狩は学習と言った。それは大鎌に刈られても問題ない攻撃手段を見出したということ。現に化物は先ほどから徹底して遠距離から攻撃を仕掛けている。腕だけなら、再生にそれほど時間がかからないから。
「出口まで後、どれくらいだっ!? このままだと追いつかれるぞっ」
「そこを右に曲がってすぐ!」
「よし!」
最後の別れ道を勢いよく右に曲がり。
「な――」
足を滑らせる。
満月の夜のように明るくても、足下は暗くて見えづらい。曲がった先は急な傾斜になっていた。そうとは知らずに踏み込み、また足場も悪かったことから盛大に足を滑らせた。
後はそのまま止まることなく滑り落ち、やがて平坦な地面に放り出される。ごつごつとした岩肌の上を転がり、あちこちに擦り傷を負いながら停止する。全身に走る鈍い痛みに耐えながら、なんとか立ち上がるとちょうど玄狩が滑り降りてくるのが見えた。
「尊人くん、大丈夫!?」
「あ、あぁ、大したことない……それより後ろだッ」
玄狩に続いて化物までが降りてくる。
改めて相対した化物の風貌は、より不気味に変貌していた。
「かなり変異が進んでる」
変異、と玄狩は言った。
赤黒く蠢く、管や触手。それらが束なり、重なり、結合して外殻と化す。変異。その姿にもはやかつての面影はなく、まるで別生物の如く、化物は鎧を身に纏っていた。その大きな五爪も、牙も、同じ過程を経て作られたに違いない。
「私が時間を稼ぐから、尊人くんはアレに向かって」
「アレって」
指さす方へと視線を向ける。
それは余りにも不自然で、余りにもこの場に不釣り合いなもの。俺がこの洞窟に来た、原因。諸悪の根源。視線を向け、視界に捉えたのは、足の長いテーブルに置かれた、タイプライターだった。




