死に神
刺激してはいけない。ゆっくりと立ち去るべきだ。
玄狩の言う通り、音を立てないように移動する。
化物から離れ、玄狩へと近付いた。その場で反転し、化物を視界に収める。
直後、目を逸らしたくなる衝動に襲われた。
「……嫌になるぜ、まったくよ」
元は人の形をしていたホームレスが、いまやただの赤黒い塊だ。体表を管と触手がうねり、のたうち、蠢いて、皮膚と衣服はすべて剥がれ落ちていた。奴を見ていて沸き立つ感情は、嫌悪に類するもの以外にない。
一秒だって、見ていたくない。今すぐにでも背を向けたい。だが、しかし、俺達はこいつを監視しなければならない。いつ襲って来ても対処できるように。
「このまま下がって、この奥へ」
化物の見たくもない動向を窺いながら、少しずつ後退する。
こうなると洞窟が悪い意味で明るすぎる。満月の夜のようにはっきりと物が見えるのは、なにも人間からだけじゃあない。化物からも見えるはずだ。今は血を啜るのに夢中になっているが、きっと些細な切っ掛けでまた襲いかかってくる。
慎重に慎重を重ねたつもりだった。細心の注意を払ったつもりだった。
だが、不運にもその切っ掛けは起こってしまう。
踵に生じた硬い感触と、それを蹴った感覚。すぐに背後を振り返ったが、もう遅い。からんと高い音が鳴って洞窟内に反響する。その音の正体、転がったもの。それは先ほどまで俺が右手に携えていたもの。
鉄パイプ。
「なんで……こんな所に」
思い当たる節は、すぐに見付かった。
押し倒された時だ。倒れ込んだ拍子に手放して、それに気付かないでいた。
間抜け、間抜けにもほどがある。自分を護るはずの得物で、危機に陥るなんて馬鹿げてる。けれど、それでも現実は起こった事実を元に、その反応をただ返す。
「グォオオオオオオオオオッ!!」
獣のような、怪物のような、酷く濁った声。
洞窟内を反響する音に呼応するように、返事をするように叫ばれた咆哮は、俺達の脳内に同等かそれ以上の大きさの警報を打ち鳴らした。
「あぁ、不味い。不味いぞ、これはッ」
三度、目にした化物の姿は獣のそれに近かった。
すでに二足にあらず、地を這うような四足で化物は立っている。口が裂け、目が潰れ、耳が塞がれ、鼻が削がれてもなお、化物はその底なしの暗い瞳でこちらを射抜いている。それはこの世にあってはならない姿だった。
「走ってッ」
その言葉に突き動かされるように地面を蹴る。行き先の見えない暗闇に向かい、駆け抜ける。
逃げ出すと共に、化物も動きを見せた。四肢が異常に膨れ上がったかと思えば、次の瞬間にバネの如く跳び上がる。一瞬にして天井に張り付いた化物は、そこから更に天井を跳ねて牙を剥いた。
その速度は人間とは比べ物にならないほど速い。逃げ出してから稼いだ距離など無に等しく、呆気もなくその四肢が届く範囲にまで追いつかれた。
「ままならないね、何事もさ」
その四肢が、その管や触手が、俺達の背中を襲おうとした時、玄狩百合は反転する。
化物の接近をものともせず足を止め、瞬時に後ろを振り返る。それを隣で見ていた俺の脳裏に嫌な言葉が浮かぶ。自己犠牲、時間稼ぎ、囮。だが、しかし、それは間違いであると直後に知る。
「〝死に神〟」
現れるのは、無骨で巨大な湾曲した刃。
携えるのは、禍々しい瘴気を纏いし鎌。
振り返りの最中に顕現したそれを握り締め、玄狩は勢いのまま薙ぎ払う。横一閃に過ぎた刃は、軌道上にあるすべて刈り取り、過ぎていく。血に濡れた鎌から飛沫が散った時、すでに化物は二つに分かたれていた。
腰の部分を切断され、化物は上下に分かたれる。だが、玄狩は更に追い打ちをかけるように、そのまま回転した。ぐるりと舞うように回り、今一度、刃に遠心力を乗せて今度は下方から掬い上げるように振り上げる。
これにより上下だけでなく左右にも分かたれた化物は、四つの肉塊となって地に落ちる。ぼとり、ぼとりと鈍く濁った音を鳴らしたそれは、地面を赤く穢していた。
「な……ぁ……」
あまりの出来事に、理解不能な現状を前に、言葉が出なかった。
今起こったすべてのことを、一つたりとも正確に理解できる気がしない。
「直ぐに再生する。はやく行こう」
「あ、あぁ……って、再生!? まだ生きてんのか、あいつッ」
「そう、あれくらいじゃ死なない。だから、逃げるの」
一度、化物に目を落とす。
玄狩の言う通り、たしかに化物は再生しようとしていた。四つの肉塊からそれぞれに向かい、無数の管や触手が伸びている。結びつき、引き寄せ合い、結合しようとしている。その動きは活発ですぐにでも起き上がりそうだった。
「……冗談キツいぜ」
吐き捨てるように呟いて、先を行く玄狩の背中を追いかけた。