彼女の名は
「なんなんだ、いった――いッ!?」
左手から生じた痛みが腕を駆け上り、鋭く脳天を突く。
虚を突かれて目を見開き、すぐに視線は左手に向かう。
痛みの原因、それは言うまでもなく貫かれた怪我が原因だ。だが、今までとは痛みの種類がまるで違う。この針で奥深くまで刺されるような、身の毛もよだつ感覚は明らかに可笑しい。
痛みで霞む視界の中、それでも焦点を合わせて傷口を見る。
「あ――」
引き抜いた筈の管や触手が傷口の中で蠢いている。
残りの命を振り絞るかのように活動を再開していた。
瞬間、駆け上がってくる。這い上がり、駆け上がり、痛みと同じ経路を通って、管が、触手が、脳を目指して急速に昇ってくる。
廻り、巡る、感情の濁流。身の内側を侵される不快、焦燥、悪寒、嫌悪、恐怖、激情、絶望。
様々な負の感情が背筋を駆け抜け、それは俺に再び鉄パイプを握らせた。
この左手は、もう俺のものではない。化物だ。化物になってしまった。だから、殺さなければ。始末しなければ。殺される。殺される。殺される。いやだ。いやだ。いやだ。それだけは、絶対に。
「ああああああああああああああああああああッ!!」
絶叫を上げて、振り下ろす。
自分の左腕だったものを殺すために。
「待った」
しかし、実行には移せない。
振り下ろす段階で背後から誰かに腕を掴まれた。逆らえないほど強く、握られた。すぐに背後を振り返ろうとした。だが、それよりも早く体勢を崩され、抗う術もなく背中から地面へと押し倒される。そうして無防備になった所へ、腹の上に誰かが乗り右手を押さえ付けられた。
自分の上に馬乗りになった謎の人物、それは同年代くらいの女子だった。
「これ、食べて」
視界いっぱいに写るのは、目の前に突き出された丸い何か。
「ふざけるなッ!」
「ふざけてない、早く。時間がない」
時間がないのは俺も同じだ。皮膚の下を這う化物は、もう首元にまでやって来ている。早く殺さなければ、殴らなければ、潰さなければ、壊さなければ、取り除かなければ、化物になってしまう。
邪魔をするなら、容赦はしない。
「こ、のォ!」
「おっと、そうはいかないよ」
精一杯の抵抗を試みたが、しかし不思議なことに身体はぴくりとも動かない。
相手は女子だと言うのに、尋常ならざる力で押さえ付けられる。左手は元より自由が利かない。だが、右手は今でも健在だ。女子一人ていど軽く押し返せるはずなのに、それが出来る気がしない。
いったい何者なんだ。何がどうなっている。
「あぁ、もう、頑固なんだから。しようがない」
そう言った彼女は、何を思ったのか突き出していた丸い何かを口に含んだ。
そして。
「むぐぅ!?」
彼女以外が、見えなくなった。
重ね合わさる唇と唇。強引にこじ開けられた口内に、噛み砕かれた固形物が流れ込んでくる。あまりに予想外で、衝撃的な行動。理解不能な状況に陥って抵抗もままならず、成されるがまま流し込まれた何かを呑み込んだ。
喉が鳴り、呑み込んだことを確認したのか。彼女はその後、ゆっくりと離れていく。口元を隠しながら立ち上がった彼女は、二歩ほど俺から距離を取った。
「な、なんのつもりだ、これは」
上半身を起こして、彼女を見据える。
「しようがなかったんだよ」
そう言う彼女の頬は、すこし赤らんでいた。
「こうでもしないとキミ、死んでたし」
「……どう言う意味だ?」
「左手、見て見なよ」
そう言われて、見るまでもなく気が付く。あの異質な鋭い痛みが消えていることに。それどころか傷口自体の痛みもない。遅れて視線を左手に写すと、あれだけ深い傷が跡形もなく消えていた。
化物も活動を停止したのか、ぴくりとも動かない。動かないが、たしかにそこに存在していた。
「いまキミに……その、食べさせたのは、寄生生物の活動を抑制する実だよ。早く摂取しないと手遅れになる。だから……あぁしたの」
口移し。
「そう……なのか」
色々と信じがたいことばかりだけれど、現にこの寄生生物とやらは活動を停止している。していなければ、今頃あのホームレスのようになっていた。赤黒くておぞましい、あの化物に成り果てていた。
「その……なんだ。悪かったよ、あぁいうことをさせて」
「いいよ。キミは助かった」
そう言って彼女は微笑んだ。
感謝の言葉もない。だが、ここは素直にこう言って置こう。
「それと、ありがとう」
「えへへ、どういたしまして」
疼きもなくなり、正常に戻った左手を支えに立ち上がる。
その後、手の平を握ったり開いたりしてみたが、痛みもなく、違和感もない。しかし、いなくなった訳じゃあない。寄生生物は活動を抑制されているだけで、今でもこの手にいる。安心は、まだ出来なかった。
「……そう言えば、まだ名前を聞いてなかったよな? 立花尊人だ」
「私は玄狩百合。高校二ね――」
そこで玄狩は言葉を切る。唐突に、喋るの止めた。
「尊人くん。ゆっくり、音を立てずにこっちに来て」
その言葉の意味は、すぐに理解できた。
この耳に届く水音が、血を啜る音が、背後にいる何かの存在を明確にした。まだ生きているのだ。死んだかに思われた化物は、ただ気絶しただけだった。そして、今まさに意識を取り戻そうとしている。