帰宅
四階建てのこのマンションには、エレベーターが無い。二人は一階のオートロックのドアを開け、足音のやたら響く階段をできるだけ音を立てないようにそろそろと上がり、最上階の『402』と書かれた扉の前に着いた。
マナミはバッグから家の鍵を取り出し鍵穴に差すと、ドアノブに手を掛けた。と、同時に男性に向かって小声で、
「一応言っておくけど、うち、猫が居るの。あなた、アレルギー大丈夫?」
と訊ねると男性はこくりと頷いた。
「それと、もしおかしな真似したら大声で騒いで警察呼ぶから。このマンション、古いから声が響くのよ。すぐに近所に聞こえるから、間違っても変なことを考えないでね」
自分から連れてきたとは言え、やはり怖いものは怖い。
軽率なことを言うものではなかったと、マナミは今更後悔していた。
ドアを開け、家に入るといつもはお迎えなどしてくれないはずのマロが、何故か今日はちょこんと玄関に座っている。
「あれ、どうしたの。珍しいこともあるものね。この子、お出迎えなんて今まで一度もなかったのよ。そんなにお腹が空いているの?」
嬉しそうに笑って靴を脱ぐマナミの横を、まるで無視するようにするりと抜けて、マロは男性の足にすり寄った。男性も、猫は嫌いではないようで慣れた手付きでマロの背中を撫でている。
「わあ驚いた。マロが知らない人に懐くなんて、初めてよ。あなた、本当に不思議な人ね」
マロの態度に憮然としながらも、まるで警戒心の無い様子を見たマナミは、男性にやや興味を持った。
家に入る前の恐怖や緊張は、すっかり和らいでしまっていた。
リビングに入り明かりを付けると、マロはそそくさと自分の皿の前に座った。この時ばかりは、普段売らない媚びを精一杯売って、マナミに食事をねだる。
「ナァン」
まさしく『猫撫で声』である。
しかしマナミとて、そんなことはとうにお見通しなので、
「普段もそのくらい可愛ければね……」
さっさと寝室に入って着替えるのであった。
そんな猫と飼い主のやり取りを、男性は遠巻きに見ているしかない。そこには、家族にしか分からない空気が流れている。
マナミは部屋着に着替えて寝室から出たと思いきやリビングを出てどこかに行き、程なくして戻り、手持ち無沙汰でぼうっと突っ立っている男性を風呂場へと連れて行った。
「取り合えず、あなたはお風呂に入って。そのままじゃ風邪を引くわ。着替えは……私の部屋着を貸してあげる。少し小さいかもしれないけれど、我慢して。下着は悪いけれど貸せないから、今のでいいわね。タオルはここ。シャンプーもボディーソープも気にしないで使って。ああ、出る前にお湯を抜いてね。シャワーの使い方、分かる?」
矢継ぎ早に話しかけてくるマナミに気圧されて、男性はただがくがくと頷くしかなかった。
「じゃあ、ごゆっくり。お風呂から出たら、きちんと髪を乾かすのよ」
まるで母親のように言いおくと、マナミは脱衣場の引き戸を閉め、リビングへと戻って行った。足音が遠ざかる。
男性はしばし呆然としていたが、やがて破れたスウェットをもそもそ脱いで、風呂へ入った。