3
俺たちが生まれ育ったこの街は、人口30万人くらいの地方都市の中心から少し外れたあたりだ。新興住宅地と古くからの住宅地が混在し、少し郊外へ行くと田畑が広がっている。普段生活する分には不便はないけれど、少し大きな買い物をするには、車で30分か電車で20分をかけ、同じ市の中心部、緑ヶ丘までいかなければならない。そこそこ不便でそこそこ自然があるそこそこの田舎で、少子高齢化と過疎化の波は確実に来ているはずだけど、このあたりは緑ヶ丘から大学のキャンパスが移転してきてから若者が多いから、あまり実感がない。
俺たちが初めて同じクラスになったのは小1の時だった。同じ保育園の隣の組だった俺と葵、私立の幼稚園に通っていた樹。家が近かったのですぐに仲良くなり、毎日のようにお互いの家を行き来して遊んだ。
高学年になると俺と樹はバスケのクラブに入り、放課後を葵と過ごすことはなくなった。俺たちと葵の距離はほんの少しだけど開いて、同時に思春期にさしかかり、少しずつお互いのことを異性として意識しはじめた。でもまだ好きとかではなく、学校の保健の授業や周囲の友達の話で"恋"とかいうものを聞いたけれど、俺にはそんなものよくわからなかった。
初めてそれに近い気持ちを感じたのは、中学の入学式のときだった。セーラー服に身を包んだ葵を初めて見たとき、それまで感じたことのない気持ちに襲われた。
「耀、学生服似合うね」
葵はそう言ってくれたが、俺は返す言葉が思いつかなかった。
「葵も制服似合ってるじゃん」
と言ったのは、樹だ。
「ありがとう! うーん、耀も似合うけど、樹のほうがもっと似合ってるね」
「そりゃ、しょーがねーじゃん。やっぱ背の高い方が似合うでしょ」
「なに、耀、身長気にしてんの?」
「うっせーな、気にしてねーし。これから伸びるんだからいいんだよ。制服もちゃんと大きめの買ったし」
「はいはーい、撮るわよー。樹くんも葵ちゃんも、こっち向いてー!」
母さんがカメラを向け、俺たちは「入学式」の看板の前に並んだ。
この時の写真は、今でも見るのが恥ずかしい。急に大人っぽくなった葵、どこか中学生としての余裕さえ感じる樹と違って、俺はガキのまま不釣り合いな学ランを着て突っ立っている。それまで知らなかった感情が顔に出て、ピースをしながらうまく笑えていないんだ。
葵はどんどん大人っぽくなっていった。中学に入って髪を伸ばし始めた。えんじ色のリボンのセーラー服が、樹に言われなくたってわかるくらい、よく似合っていた。俺は2年になっても3年になってもガキのままで、葵が遠くなっていくような気すらした。背も思ったより伸びなかったしな。
「なあ、菅野って、B組の石川葵と付き合ってんの?」
そうクラスの男子に聞かれたのは、中学3年の夏の昼休みだった。
「は?」
「いっつも一緒にいるじゃん。付き合ってんのかなって思って」
「いやまさか。ただの幼馴染だよ」
俺はまだ、動揺を隠すのが下手だった。なぜ自分が動揺しているのかもわからないまま、「ないだろ、葵と付き合うとか」とまで言ってしまう。
「ふーん、好きなのかと思ってた」
「なっ……」
いよいようろたえ、汗が出てくる。これは夏だからだ、暑いからだ、と自分に言い聞かせ、窓際の席で本を読んでいた樹を振り返る。
「なあ、樹のほうが一緒にいるよな?」
樹は俺が貸した「バスケットボールシュート確率UP!」の本を閉じ、こっちにやってくる。
「なに、何の話?」
「B組の石川葵って、かわいくね? 樹もよく話してるよな」
さっきと微妙に話が違うが「ああ、葵? かわいいよな」と樹が普通に返し、慌てた。
「え、樹マジで言ってんの?」
「なんだよ。普通に、客観的に見てかわいいだろ」
えー……そうか。葵ってかわいいのか。知らなかった。大人っぽくなったとは思っていたが。
「まさか樹が石川と付き合ってんの?」
「いや? 付き合ってないけど」
「じゃあ俺石川に告るけど、いいよな」
「え!?」今度は俺と樹の声が揃った。
「去年石川のクラスと合同の体育で見てから、ずっと気になってたんだよな。女子のコートに転がってったボール拾ってくれてさ。あっかわいーなって思って」
樹と顔を見合わせる。樹がどう思っているのか読めなかったが、チャイムが鳴って樹がパッと顔を上げた。
「やばい、5時間目の予習してねーや」
と、そそくさと席に戻っていく。
俺は5時間目の授業中、気が気でなかった。数学の問題をあてられてすらすらと板書する樹を見ながら、全く授業に集中できなかった。
葵に彼氏ができるかもしれない。どうしてこんなに気になるんだろう。真っ白なノートを前に、何も書けない。なにも考えられない。なんか、頭の中も真っ白な感じだ。
放課後、教室でジャージに着替えていると、樹が言った。
「なあ、葵の様子見に行こうぜ」
「え、部活は?」
「ちょっとくらい遅れたっていいだろ。な、副キャプテン」
去年の夏に先輩がが引退してから、樹はキャプテン=部長、そして俺が副部長になっていた。今年の夏の大会も近くて、後輩が遅刻してきたら怒る所だけれど、教師や監督から絶対的な信頼を得ている樹がそういうならば、それでいいのだろうかと思ってしまう。監督は時間に厳しいので有名だったが、俺も葵のことが気になるので、樹に罪をなすりつけることにした。
B組の教室に葵はいなかった。あれ? と思ったが、樹は教室を通り過ぎ、裏階段のほうへ向かう。
そうか。告白と言えば体育館の裏だけど、うちの学校では階段の裏がよく使われるんだっけ。しかもこの時間、ほとんどの生徒は下校済みか部活に行っていて、あっち側の階段を通る人間はほぼ皆無だ。
静かに歩いて近づいていき、階段前の廊下の角で足を止め、樹と並んで座り込む。男子と女子の話し声が聞こえる。葵たちだ。
「葵ちゃんは、どこの高校に行こうと思ってんの?」
「今の所、西高かな。成績が落ちたらやばいけど」
「お、実は俺も西高志望なんだ。嬉しいな」
まじかよ、こいつ。いつの間にか葵ちゃんって呼んでるし。
葵も葵で、結構楽しそうにお喋りしているようだ。勉強の話、休日の話、好きな音楽の話。
葵が国語が得意なのも、お菓子作りが趣味なのも、意外とロックが好きなのも、俺は全部知っていることばかりで、なかなか面白い話題にならない。飽きてきたし、樹を置いて部活に行こうかな、と思っていると、予告はあったもののいきなりの爆弾が投下された。
「俺、葵ちゃんのこと好きなんだけど、よかったら付き合ってくれないかな?」
そして、予告のなかった追撃が来た。
「ごめんなさい、私好きな人いるから……」
そのあとの会話はあまり耳に入って来ず、少しして樹に無理やり引っ張られて、近くの教室に入った。
開いていたドアの裏に座り込んで潜んでいると、走り去っていく足音が聞こえる。
「どんまいだな、あいつ」
樹がふっと笑い、廊下が静かになったのを確認して立ち上がった。
「よし、部活行くか」
なに急にすっきりした顔になっちゃってるんだよ。と思い、樹は割といつもポーカーフェイスだが、今までどこか表情がこわばっていたことにはじめて気づく。
学校の時計は秒針がなく、1分ごとに長針がかちりと音を立てる。それを見上げると、部活の集合時間までちょうどあと5分となったところだ。今から全力で体育館まで走れば間に合うかもしれない。
「そうだな」と立ち上がって、知らない教室を二人で出る。そこで、葵とばったり出くわした。
葵は目を丸くしている。さすがの樹も、「やべっ」と心の中で呟いたのが聞こえたような気がした。
三人、三角形に並んだまま、しばらく無言で立ち尽くした。人気のない廊下。今出てきたドアのすぐ真上で、時計がかちりと鳴った。
「……何、してるの? もう部活の時間じゃないの?」
葵の声に、さっきまでの階段裏での会話のような柔らかさはない。
「いや……ちょっと、忘れ物を取りに……」
「忘れ物って? ここA組の教室じゃん。ふたりともE組だよね。なんでここにいるの」
責めるような口調に、焦る。どうすんだよ樹、この状況。樹は動かない。
樹を見ていた葵が、こっちを見た。目が合った。無表情のようで、怒っていることは十分に伝わってきた。それと同時に、俺の中の後ろめたさも伝わったらしい。葵がカッと顔を赤くした。
「もしかして、聞いてたの?」
樹が「ごめん」と言った。
「盗み聞きとか、サイッテー」
そう言い残し、葵はぱたぱたと廊下を走り去っていく。
俺たちは呆然としたまま、無言でしばらくそこに立っていた。
何度目か、また時計が鳴る音が聞こえた。同時に、下校時刻のチャイムが鳴り響く。
「部活」樹が先に歩き出した。「行かなきゃ」
やがて走り出した樹を、少しして俺も追いかける。
結局、部活には遅刻するわ、監督には怒られるわ、練習後のランニングを命じられるわ、練習中もミスを連発するわ、さんざんな一日となった。
コートを走りながら、ボールを投げながら、……ずっとどこか上の空で、葵のことを考えていた。