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やっぱり二人で一本の傘に入るのは少し狭くて、風もあったし、体の半分が濡れてしまった。後ろのバッグからタオルを取り出し、玄関で身体を吹いていると、見慣れない傘が目に入った。
よく見ると足元に黒いスニーカーが揃えてある。俺のでも兄貴のでもない。樹が来てるのか。
動かない足から靴を脱がせて玄関に上がり、室内用の車イスに乗り替える。普段なら自分の部屋に直行するところだが、居間の戸を開けた。
「ただいま。樹?」
「おー、おかえり」
樹は居間のソファの上であぐらをかき、本を読んでいた。
「お前、人んちでくつろぎすぎだろ」
「しょうがないだろ、雨がやばくて帰れなかったんだから」
と言いながらも、少し慌てた顔で姿勢を正す。本はしおりを挟んでカバンにしまった。背表紙に「工学」という文字がちらりと見えた。
樹は緑ヶ丘の理系キャンパスにある工学部に通っている。今読んでいたのも大学の教科書だろうか。
「もう帰るの?」
「帰るよ、雨落ち着いただろ? 本に夢中になっちゃって気付かなかったけど、もういい時間だし」
たしかに、もう夕飯の時間だ。隣の台所からいい香りが漂ってくる。
その台所から母さんが顔を出した。
「樹くん、帰るの? イチゴありがとうね。おうちの方にもよろしく言っておいてね」
「はい、お邪魔しました。長居しちゃってすみませんでした」
樹の家はふつうのサラリーマン家庭だが、田舎のおじいさんが農業をやっていて、よく季節の野菜や果物をくれる。今回はイチゴを持ってきてくれたのか。
台所に目をやると、テーブルの上に置かれたパックのイチゴは、どれも大粒で鮮やかな赤で、食卓の照明を浴びて、つやつや光っていた。
玄関に戻り、樹を見送る。樹は玄関の引き戸を開けて傘を差しかけ、「そうだ」とこっちを振り返った。
「土曜日ヒマ? 飲もうぜ」
「ああ、そういえば葵も言ってたな。土曜日ね。大丈夫」
「じゃあ葵にも言っとくよ。いつもの店でいい?」
「『そら』ね。いいんじゃない。俺はそのほうが助かる」
「OK。じゃ、時間とかまたメールするから」
樹が傘を差し、すぐに閉じる。
「雨、やんでる」
本当だ。ずいぶん静かになったと思ったが、もう雨は降っていなかった。
日は落ちて、空はどっぷりと暗い色をしているのに、雨は止んだとは言っても晴れているわけでもないのに、なんだか、外から流れてくる雨上がりの空気は明るい感じがした。
土曜日の午後6時。梅雨入りした空も今日は休憩しているらしく、天気は晴れだった。
夕焼けの空を見ながら居酒屋「そら」まで行くと、樹と葵はもう店の前で待っていた。
「よう。おつかれ」と手を挙げたが、なんだか微妙な気分になった。並んで立って喋っていた二人がカップルにしか見えなかったからだ。
なんというか、そこまでくっついて立っていたわけではないが、距離感というより空気感だろうか。二人の仲がいいのはよくわかっている。なんたって小さい頃から一緒にいるのだ。本当は俺も対等に肩を並べていたはずなのだが。
「おつかれー」「じゃ、入ろうか」「おう」……樹と葵が何も気にせず、普通に俺と接してくれてるってのも、わかっている。
スロープをのぼって店に入ると、マスターが「久しぶりだね」と声を掛けてくれた。この店はバリアフリーが徹底してるからよく来ていたけど、確かに最近ご無沙汰していた。4月から葵と樹と予定が合わなくなったからだ。
テーブル席もあるけれど、奥の半個室の小上がりを選んだ。車イスを降り、手でお尻を持ち上げて床を移動する。背もたれがあった方が安定するので座椅子を持ってきてもらった。
早速ビールが3つ届き、グラスを合わせる。一口飲んで、樹が「くーーっ」と唸った。
「うまい!」
「そんなに?」
「今週実験頑張ったからさー、すっごくうまいわ!」
「実験って、樹、研究室でなにやってるんだっけ?」
葵がお通しの枝豆をつまみながらたずねる。
「ナイショ」
「なんでよ! 別に教えてくれたっていいじゃん」
「葵、やめとけって。工学部の話されてもどうせわかんねーよ」
「そうかもしれないけどさっ」言いながら、また枝豆をつまみ、ビールをごくごく喉を鳴らして飲む。「ん、うまい!」
こいつ、本当に女子かよ。可愛い顔して酒の飲み方がオヤジ臭いんだよ。まあ知ってたけどさ。
半ばあきれながら、俺は一口ずつビールを飲む。酒はあんまり強くないから無理はしない。
学校の授業の話やゼミの先生の愚痴なんかを言い合い(樹は詳しく教えてくれなかったが)、小一時間経つ頃には、俺の前には酔っ払いが二人出来上がっていた。
「あ~~~っ、エクセルの使い方なんか知るかよ、ほんとに工学部の教授かよ、そんくらい自分で調べてくれよ」
「うちの先生も頭固くて困っちゃう、就活でゼミ休めないってどういうこと? 友達は欠席扱いで面接行くって言ってたよ」
「ちょっと厳しすぎるよな」
「普段はいい先生なんだけどさー」
「うちの教授も普段はいい先生なんだけどさあー」
大学の近くの飲み屋で、こんな大きい声で話していて大丈夫だろうか。少し周りを見回すが、少なくとも小上がりのほうには俺たちと同じような学生のグループしかいないようだ。
「就活って、葵はどうすんの?」
さっき就活というワードが出たので、何気なくさらりと聞いた、ようにしたつもりだ。本当はずっと気になっていた。
「うーん、今はこの辺で就職しようか、仙台に行こうか、いっそ東京に行こうか、迷ってる。いろいろエントリーシート出してるんだけどね。そろそろ絞らなきゃいけないんだけどーどうしよう」
ぐでっと机の上に伏せたまま、答えが返ってくる。
「東京……」
そうか、葵は地元を出ていく可能性があるのか。仙台ならまだ近いほうだけど、東京なんて行ったら、盆と正月くらいしか帰省して来ないのではないか。
そんなのは――自分の中で言いそうになってしまう言葉を、言葉にしないまま飲みこむ。
「樹は?」
「俺? どうしようか。まず就職するか大学院に行くか迷ってる」
「4年の春でまだその段階かよ。院試だって準備しなきゃいけないだろ」
「わかってるよ。わかってるんだけどさあ。何がしたいかわからないんだよ。いっそじいちゃん家の農家継ぐのもいいかもしれない」
これには、すごく驚いた。こんなことを言ったら樹は怒るかもしれないが、樹らしくない――高校までまさに「優等生」で、将来のことも見据えて真面目に生きていた樹の口から出た言葉とは信じられなかった。
樹の目が俺の横にある灰皿を物欲しそうに見ていたので、それを渡す。そのままタバコをふかしはじめた。葵はテーブルに伏せたまま目を閉じている。
こんな空気になるとは思わなかったな。もっと楽しく飲みたかった。なんとなくいたたまれない空気から逃げ出したくて、時計を見、それから今までに飲んだグラスの数を数えた。
「トイレ行ってくる」
また床を手で移動し、小上がりの端まで行って車イスを引き寄せる。面倒だから靴は履かなくていいか。
俺も酔ってんのかな。ちょっとぼーっとする――と、手がすべり、盛大に小上がりから転げ落ちた。
ミスった。背中が痛い。しかも店内の注目を浴びて恥ずかしい。おーい、と樹の声がした。
「何やってんだ? 酔ってんの?」
「酔ってねーし! ……あ、大丈夫です、ホントに大丈夫です。一人で上がれます」
駆け寄ってきたマスターやほかのお客さんたちにお礼を言って、車イスに乗り直し、トイレに向かった。
車イスで使えるトイレがある居酒屋というのは貴重だ。「そら」は、マスターのお母さんが高齢で車イスを使うようになり、思うところがあって改装した、と言っていたかな。前にゼミの飲み会で使った居酒屋は、車イスどころか男女兼用の和式のトイレがひとつしかなくて、料理はおいしかったのだがそれ以来一度も行っていない。
洋式トイレに移乗してズボンを下ろすと、頼りない下半身が露わになる。車イスにつけているバッグから器具を取り出し、導尿を始める。
下半身の感覚がないから、自分で排泄もできない。カテーテルを挿すのに初めはものすごく抵抗があったが、さすがにもう慣れてしまった。
トイレから席に戻ると、樹も突っ伏して目を閉じていた。俺はため息をついて、店員さんに水を頼んだ。
「1時間半でよくそんなに酔えるよなあ」
「耀だって酔ってるじゃねーか」
「俺は酔ってないって。さっきこけたのも手が滑っただけだし。おい、大丈夫か?」
葵の肩をゆすると、「さっきウーロン茶飲んだから大丈夫~」と返ってくる。
嫌な予感がして、ほとんど氷だけになったグラスを手に取り、最後の一口を飲んでみる。……ウーロンハイじゃねーか!
ほどなくして、水が運ばれてきた。ずいぶん前に頼んですっかり冷めきったから揚げを食べながら、それを飲む。
「そういえば、耀はどうすんの。卒業後」
樹がタバコを灰皿に押し付けながら言う。
「さあね。まだ3年だし。考えてないわ」
「3年のときからちゃんと考えておかねーと大変だぞ。昔は3年から就活してたくらいじゃん?」
「え、お前に言われたくないんだけど」
ときどき、昔みたいな真面目くさった樹が顔を出す。こいつは変わったようで変わっていないような気もする。
バスケ部の部長と生徒会長を兼務し、医者を目指していた、あの頃と。
俺が将来のことを深く考えていないのは、昔からだ。
「……ま、正直、何がやりたいかってのもだけど、何ができるかよくわかんないんだよね」
タバコを吸ったことはないが、俺も吸いたいような気分になって、ぽつりと漏らす。樹が俺の代わりに煙を吐いた。
「こんな体でさ、社会のために何ができるのかって。ちょっとでも可能性広げておきたくて四大に入ったけど、特にやりたいこともないし」
やりたいことが見つかっても、それができないことだったらと思うと、怖いし。それは言わずに苦笑いしてみたが、樹は笑わなかった。
「あーあ」ずっと寝ていたと思った葵がつぶやいた。「大人になんてなりたくないなあ」
まったくだな。葵に水を飲ませながら、思う。
ずっとこうやって三人で、先のことなんか何も考えず、ぐだぐだしゃべって、飲んで、遊んでいられたら。
ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろうか。