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あるく  作者: 亜梨
1.同じ歩幅で
1/3

 6月の朝。街路樹の緑が窓の外を流れていくのを、後部座席から見ていた。

 今日の日差しは昨日までより強いようで、木々の影がくっきりとアスファルトに落ちている。暑くなるかな、と思っていると、兄貴が言った。

「夕方、降るってさ」

 と同時に、車がゆっくりと速度を落として交差点に止まる。兄貴がラジオのボリュームを上げると、確かに軽快なBGMの上で、アナウンサーが梅雨に入ることを告げている。

「帰りどうする?」

「うーん、どうしよっかな」

「迎えに来てもいいけど。何限までだっけ?」

 木々の下に見覚えのある姿を見つけ、あ、と思ったらもう、兄貴の声は耳に入っていなかった。

 すぐそこで信号待ちをしているのは、葵だ。黒い髪をポニーテールにし、カーディガンの袖をまくり、恨めしそうに太陽を見上げながら。

 見覚えのある――というのも、おかしいな。俺はあいつをよく知っている。兄貴への返事も忘れてしまうほどに、視界に入ったら思わず見つめてしまうくらいにはよく知ってる。

 じっとその姿を見ていたら、突然、前のウィンドウが開いた。

「おーい、葵ーっ」

 兄貴が声を掛けたのを聞いて、はっとする。見つめていたことに気づいて、兄貴にばれてたことにも気づいて、唇を噛む。

 歩きながら音楽を聴いていたらしい葵は、車に気づくと、イヤホンを外して窓のそばに駆け寄ってきた。

「健くん。おはよう。これから仕事?」

「そう。ついでに耀を大学まで送ってくとこ。早く乗りなよ、信号変わるから」

 葵が後部座席の方を覗き込む。俺と目が合うと、にっこり笑って、助手席のドアを開けた。葵が乗り込むと同時に、ちょうど信号が青に変わった。

「いやー、今日暑いねえ。まだ6月なのにさ。カーデはおってきたの後悔しちゃった」

「あ、でも夜は降るらしいよ。梅雨入りだって」

「そうなんだ、知らなかった! ビニール傘買わなきゃかなー」

 葵が兄貴としゃべっている、その後ろ姿も、ヘッドレストの間からぼうっと見つめている。

 車の中もさっきまで暑かったのに、葵がすぐそこにいるだけで少し涼しい風が吹いている気がした。

「葵は今日は授業あんの?」

「今日は授業はないんだけど。午後からゼミがあるから、図書館で予習しようかなと思って」

「こんな朝からか。えらいねぇ」

「うちの先生、結構厳しくってさぁ。前もってプリント配られるんだけど、ちゃんと目を通して論点をピックアップして来なさいだって。就活で休むのも許してくれないんだよ」

 苦笑しながら話すのを聞いて、少し冷静な頭になる。

 4年になると授業がほとんどないことも、就職活動が本格的に始まるってことも、頭ではわかっているけれど、なんだか俺には近いようで遠く思えた。できれば同じ学年になって同じ話をしたいが、葵が留年してくれない限りそれはありえない。今だって手を伸ばせばすぐそこに葵はいるのに、なんだかもう追いつけないような気が、ずっと前からしている。

「耀は?」

 突然葵が振り向き、運転席と助手席の間から首を回してこっちを見てきて、焦る。ぶつかった目線を、思わず逃げるように外してしまう。

「……俺は、1限と4・5限」

「なにそれ? 変な時間割にしちゃったね」

 まったくだ。1限が10時に終わり、4限が始まる午後2時半まで何をして過ごすかというのが、今期の水曜日の悩みになっている。まあ、こんな風に履修科目をセットしたのは俺なんだけど。

「1限の授業、3年までの必修なんだけど、本当は去年単位取りたかったのに落としちゃったから」

「ああ、だから今年取らなきゃいけないんだ」

「4限と5限はゼミだから外せないしさあ」

「去年サボったツケが回ったよなー。それがなきゃ午後からゆっくりだったのに」

「うるせー、兄ちゃんに言われたくないし」

 兄貴が学生時代単位を落としまくり、留年スレスレで卒業したのを俺は知っている。

 そんな話をしている間に、車が大学の門の前についた。もともと徒歩でも行けるくらいの距離なのだから、家からはそんなに遠くない。

 スライドドアを全開にし、横に積んでいた車イスを下ろした。折り畳みのそれを開いて移り乗り、カバンを膝の上に乗せる。葵は先に降りて待っていた。

「健くん、乗せてくれてありがとうね」

「おー。耀、帰りどうすっか後でメールして」

 手を振っている兄貴に、ん、と小さくうなずき、ドアを閉める。

 兄貴の車が行ってしまい、門の前に葵と二人残される。まだ時間は8時すぎ、人影はまばらだ。大学生の朝は遅い。

 黙って車イスをこぎ始めると、葵は横をついてくる。微妙な距離と、微妙な沈黙。

「今日ほんと天気いいね、焼けちゃいそう」「そうだな」なんて天気の話をしてみたりするが、それも長くは続かない。

「……そういえば、昨日樹と会ったよ」

 ふと思い出したようなふりをして、葵が言う。

「おー、元気だった? 実験が忙しいとかって言ってたけど」

「やっぱり忙しそうだったかな。早く終わらせて飲みたい! って言ってたよ。だから今度飲もう!」

「いいけど。あいつ、酒好きだなあ……」

 高校までは勉強と部活しかやってなかったのに、ここ数年で髪を染め、酒とタバコを覚えた樹の姿を思い出す。所謂大学デビューというやつだ。今の樹もそれなりに楽しそうだが、そのかわりにあいつは大量生産型の大学生になってしまった。

 図書館の前で葵と別れた。俺はもう少し先へ行き、経済学部の講義棟の自動ドアをくぐる。

 と、そこに、瞬がいた。

「よっ。おはよう」とこちらに手を挙げるが、なんだかにやにやしている。

「おはよ。……何笑ってんの、きもいんだけど」

「さっき見えたんだよ。一緒に来てたじゃん」

「ああ、葵ね」

 なんでもないふうを装って、横を通り過ぎてさっさと先に行く。瞬は後ろから追いかけてくる。

「ただの幼馴染だって言ってんじゃん」

「ほんとかよ? でも付き合ってたんでしょ」

「昔の話だって。ほら、閉めるぞ」

 エレベーターに先に乗り込み、ボタンを押す。瞬が滑り込むと同時に扉が閉まった。

 ごうんと音を立て、ふわふわとエレベーターが上昇していく。

 瞬はまだ葵のことを聞きたがっているようだったが、俺が笑っていないのを見て、話題を変えてきた。

「昨日、送別会だったんだけどさ」

「ああ、イスバスの飲み会あったんだっけ。送別会だったのか」

「そう、一人仙台に引っ越しちゃってさ。結構ベテランだったから、痛いんだよね」

 この話の流れの先はわかっている。車イスバスケの選手兼マネージャーをやっている瞬に勧誘を受けるのは、これが初めてじゃない。

「俺はやんねーよ?」

 先に言うと同時に、背後でエレベーターのドアが開いた。正面の鏡を見ながら、バックで出る。先に降りた瞬は、鏡の中で唇をとがらせている。

「まだ何も言ってないのにさあ」

「いや、わかるだろ。懲りないねーお前も」

 笑いながら言うと、瞬も笑いながら言い返してくる。

「だって、元バスケ部のエースがこんな身近にいるのにさ。もったいないじゃん、」

「はい、この話終わり―」

 瞬を追い越し、小走りで(実際には手を速く動かして)奥の講義室へ向かう。が、講義室の入口は自動でもなくて重い扉なので、結局瞬が追いかけて来るのを待って、開けてもらい部屋の中に入る。バタバタうるさいだろうと思うけど、朝の廊下は空いているからこんなことばかりやっている。もうハタチもすぎたそれなりに大人なんだけどな。

 今日も、長い一日が始まった。




 日中の暇な時間は瞬と昼飯を食ってだべり、1限で出されたレポートの課題をやって、ようやく5限のゼミが終わったのは、午後6時を過ぎてからだった。本当に長い一日だった。疲れた。車イスになる前は、朝練やって授業を受けて、夜遅くまで部活やっても、一日があっという間だったけどな。体力がなくなったからか、精神的な辛さからなのか、どちらなんだろうといつも不思議に思う。

 帰ろうとして玄関へ向かうと、外は強く雨が降っていて、固まった。周りの学生たちも傘を持ちながらも外に出るのをためらっているほどの大雨だ。たちまち玄関のドアの前が混雑しはじめ、邪魔にならないように端の方に車イスを停めた。

 俺は傘を差して動くことができない。どうしよう、兄貴に迎えに来てもらうか。でも車は構内に入れないから、門までは濡れるのを覚悟で行かないといけないし。車イスにつけてるバッグの中に雨合羽が入っているが、正直カッコワルイから着たくない。

 少し雨が弱まり、周りの学生たちも皆出て行った。外は暗くなり始めている。

 やっぱり兄貴に来てもらおう。そう思い携帯を取り出したとき、雨の中を赤い傘がこっちに向かってくるのが見えた。

 見覚えのある、いや、よく知っている歩き方だった。ドアをくぐり、傘を閉じると、葵が「やあっ」と言って笑った。

「なんで?」

 驚きと疑問が、先に来た。

「ゼミ早く終わって一旦帰ったんだけど、雨が降り始めたから耀が困ってるかなって思ってさ。あ、この傘派手すぎるかな? 家にあったので一番大きいの持ってきたんだけど」

 確かに大きめなその傘を、葵がぷるぷると振るい、雫が俺たちの間で舞った。少し遅れて、嬉しさが来た。

 俺は笑顔を隠しながら、兄貴に打ちかけていたメールの文面を直す。……「葵と帰る」と。



 実際のところ、葵の傘に入って帰るのは少し恥ずかしかった。真っ赤な大きな傘で女子学生と車イスの男子学生が相合傘している。どうやっても目立つらしく、帰りの時間が一緒の学生たちが、みんな一瞬、ほんの少しだけこちらを見る。でも、葵が何も気にしていないようなのは有難かった。 

 葵は、傘を俺の方に少し傾けて差していた。

「なあ、葵、濡れてない?」

「うん。大丈夫」

「……いや、カバン濡れてるぞ。思いっきり」

「うわっ! ほんとだ!」

 外側の肩にかけていたカバンを、手に持ち替える。そんなに大きくない。

 手を伸ばし、ぱっとそのカバンを貰うと、俺の膝の上に置いた。

「え、あ、ありがと……」

「いいよ。入れてもらってるし」

 雨の音を聞きながら、二人で帰る道。

 15分くらい歩き、俺の家のすぐ近くで信号待ちをしているところで、急に強い風が吹いた。雨が横から激しく当たってくる。葵が「うわっ」と声をあげ、俺はとっさに二つのカバンを腕でかばったけど、大して意味がない。

「濡れちゃったね。大丈夫?」

「うん、俺は」言いながら顔を上げる。「ごめん、カバン濡れちゃった」

「いいよ、そんなのは。それより耀が」

 葵を見上げると、髪がさっきの強風と雨で乱れに乱れ、顔に張り付いている。俺は思わず噴き出した。

「ひでー顔!」

「ちょ、言っとくけど、耀もひどいからね」

「わかってるよ」と、顔についた雨粒をぬぐい、髪を整える。葵も笑っていた。

 信号が青になり、残り少なくなった道を行く。気まぐれな雨が弱くなりはじめ、葵も気まぐれにそういえば、と言い出した。

「そういえば、昔も一度相合傘したことがあったね」

「……ああ……あったな、そんなこと」

「あれ、いつだっけ? あんまり覚えてないけど」

 家の前についたので、葵のカバンを返す。傘から出てひさしの下に入った。

「ありがとう、送ってくれて。助かった」

「こちらこそ。ありがとうね、カバン持ってくれて」

 それじゃあ、と葵が手を振る。

「気をつけて帰れよ」

「うん、大丈夫。またね」

 葵の後ろ姿を見送る。ここから葵の家までは、歩道が少し狭くなる。当たり前だが、車も普通に道路を走っていて、ときどき葵の姿をヘッドライトが照らす。

 本当に気をつけて帰れよ。雨は、意外と怖いんだから。

 葵の姿が角を曲がったのを確認して、家の中に入った。

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