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姉のような人

作者: 雨咲ひいら

 二十三歳になった夏の日の事でした。池袋の役所で手続きを済ませ、時間を潰すために漫画喫茶で未読の手塚作品を読み終え、その店を出た後に僕は出会いました。外はすっかり陽が落ちていて、頭にネクタイを巻いたサラリーマンが闊歩している中、ドルチェのパンツスーツを着崩した一人に、肩を叩かれ、手錠をかけられたのです。

 彼女は僕のことを、高杉君、と呼んでいました。僕は高杉君ではありませんでした。知り合いにも、そのような姓の人はいませんでした。それでも彼女は僕を、高杉君、高杉君とアルコールで上擦った声で連呼し、引導したので、僕は付いていきました。彼女はJR池袋駅の改札を通って、山手線に乗車した後、巣鴨で地下鉄の都営三田線に乗り換えました。西高島平に向かう終電でした。彼女はそれを、「珍しい、珍しい」と、さぞかし嬉しそうに繰り返すので、僕は、ほうと感心しました。僕は仕事が下手だったので、終電で帰宅した事しかありませんでした。彼女は仕事ができる人のようでした。

 彼女と僕は、手錠で繋がれた手で吊革に掴まり、すし詰め状態の電車に何度も揺らされました。いくつかの駅を通過した頃、彼女が立ったまま寝始めたので、僕は彼女の重たそうな瞼を意に介せず、降車駅を訪ねました。彼女は返事をしました。不明瞭で、僕には聞き取れませんでした。仕方なく僕は、駅の一覧がプリントされているプレートを見ながら、駅名を一つ一つ訊ねてみました。そうしているうちに、満員に近い車両は停車の度に乗車客を排出していき、最後には僕と彼女だけになりました。すぐに青色の開襟シャツを着た駅員が現れ、「終点ですよ」と低く投げやりな声であしらわれた僕たちは、少し恥ずかしく、寂しい気持ちで電車を降りました。

 改札を出て、手錠に引っ張られながら夜の道を歩き、彼女は若干高級そうに見える煉瓦調のアパートの前で止まりました。駅からは予想したほどの距離はありませんでした。おそらく、終点が彼女のアパートの最寄り駅だったのでしょう。部屋に入り、眠い、ねむい、と唸っていた彼女は、上着を脱ごうとして、眉をひそめました。僕の手錠が、脱衣を邪魔しているのに気付いたようでした。彼女は自分の手にかかった手錠を外し、億劫そうに、近くにあったメタルラックの支柱にかけました。再度、眠い、ねむい、と喚きながら、彼女は下着姿になり、電気も消さないまま、ベッドの上に倒れました。

 僕は、やれやれ、と思いました。とりあえず、手錠が繋がれたメタルラックに載せられたAV機材を一通り確認しました。ラックの支柱から手錠を外すには、二枚のシェルフを外す必要がありました。そのシェルフには、片手では持ち上げられるとは思えない、荷重の大きいボーズのモニター用スピーカーと、数え切れない程のCDが乗せられていたのです。僕は諦めました。強引にそれらを払い落として、ラックをシェルフとポールに分解する手段がありましたが、僕はそれを選びませんでした。彼女を起こしたくはありませんでした。

 僕は手をラックに繋がれたまま、膝を折って、床に座りました。床のフローリングにはモスバーガーの紙袋や、am/pmのビニール袋、月刊アスキーが散乱していました。髪の毛や埃も十二分にあり、酒瓶は転がって、液の零れたものもありました。飲み残しのビール缶にはマイルドセブンの吸い殻が差し込まれて、生け花のようでした。僕は再び、やれやれと思いました。


 朝が来て、雀の鳴く声で僕は目覚めました。肩に鈍い痺れを感じていました。手錠で吊された上腕の筋肉が緊張していたので、時間をかけて何度も弛緩させました。

 ベッドの上の彼女は、朝日に照射されて白くなりながら、寝息を立てていました。枕に拭き取られたマスカラが、チェック地に薄く滲んで、哀れに、そして少し艶めかしく思えました。

 彼女を起こすか起こすまいか、僕がしばらく悩んでいると、目覚まし時計の甲高いベルが静寂を割り、反応した彼女はのそっと上体を起こしました。寝惚け眼で時計のベルを止め、お腹の底から発声された大きな欠伸をしました。そして、思い出したように、僕を見つけました。

「ああ」

 とても間抜けな声だったので、僕は拍子抜けしました。大きな過ちの後の叫喚を密かに期待していた僕は、裏切られました。彼女は緩慢な動作でベッドから立ち上がると、「高杉くん?」と枯れた声で訊ねましたので、僕は、「違います」と即答しました。彼女は「だよね」と溜息混じりに呟き、下着のまま、僕の前を通り過ぎました。ドアが閉まり、沈黙。そして、激しい水濁音の後、ドアから出て、下着姿でもう一度僕の前を通り、「あなたは誰?」と彼女は訊ねました。僕は名前を名乗って、貴女に誘拐されたと説明しました。そして、僕もお手洗いで排泄をするために、一度手錠を外して欲しいと懇願しました。

 彼女は腕を組んで、いかにも重大な言葉を封じるように口を真一文字に結びました。僕はもう一度、外して欲しいと切迫した後、そうでなければこの場で排泄すると脅迫しました。それを聞いた彼女は、そんな方法があったのかと、驚きと関心を笑みに混ぜました。彼女は「いや、私は――」と濁らせ、「まあ、いいか」と自己完結し、手錠を外しました。僕はそのまま逃げても良かったのですが、実際に尿意を催していたので、真っ先にお手洗いに向かいました。用が済んでドアを開けると、ベットの上で手持ちぶさたに手錠を振り回す彼女が、すっかり視界に入っていました。

 僕は彼女に背を向け、玄関に向かいました。そして自分の靴を探そうと、照明のスイッチを探している間に、僕は再び、手錠を掛けられました。今度は両手をしっかり繋がれました。彼女は自分の行為を説明できないのか、僕の両手を見て、きょとんとしていました。「うん」と僕は声に出してみて、「うん」と、今度は首肯して見せました。

「ヒマだからさ――」照れ臭くも何ともない様子で、彼女は口を尖らせました。「とりあえず、週末まで付き合ってよ」

 その言葉には、意志が無いように窺えました。彼女は、彼女自身の発言に、興味や関心が全く存在しないような、投げやりな言い方をしました。彼女のシャツから覗けた胸元のホクロを確かめながら、僕は、共感と好感を覚えました。


 その後、僕と彼女は上野に行き、アムディというパチンコ屋でスロットという賭博のようなものを行いました。経験の無い僕は、彼女の一挙一動を目で追っていました。ですが、脳を揺らすような激しい騒音に居ても立ってもいられなくなり、間もなく休憩所に飛び込みました。紙コップの自動販売機で苺牛乳を購入し、椅子に座って作業的にそれを啜っていると、しばらく経って彼女が現れ、「メシ、メシ行こう」と言ったので、僕は彼女の後を付いて行きました。アメヤ横丁の雑踏の隙間を、彼女は縫うように歩いていくので、僕は焦りました。生鮮食品の無遠慮な生臭さに嘔吐感を覚え、店員の投げやりな商売文句と行き交う人々の猛烈な熱気に眩暈を起こしながらも、僕は彼女の背中を懸命に追いました。方向感覚が麻痺し、強まる眩暈で倒れそうになった時、彼女は地下の小綺麗な定食屋さんの中に入りました。そこで定価二千百円ほどの刺身定食を勧められましたが、僕は値段に臆して、親子丼を頼みました。会計は彼女が行いました。

 その後、マルイシティ上野に入り、彼女は、会社用だと言ってヴェルサーチのシャツやアルマーニのボトムスーツを購入していました。その間、僕は各店舗の内装や商品陳列をじっと観察していましたが、照明があまりにも明るく白かったので、僕はすぐに目が痛くなりました。「何か欲しいものないの?」と彼女が訊ねてきたので、僕は「休みたい」と答えました。そして、地下一階のスターバックスコーヒーに入り、僕はキャラメルマキアートのショートで喉を潤し、彼女はカフェアメリカーノと煙草で息を吐きました。小さなテーブルで対面する彼女は、僕の記憶と寸分違うことなく、惜しみなく安心を与えてくれる人でした。

 上野から新宿に移動し、カラオケ館で三時間、彼女の溜息のような歌を聴いて、だん暖というお店の岩盤浴で汗を流しました。その後、名前の知らない小さな居酒屋で、日本酒の久保田万寿と北海道で捕れたらしいホッケの開きで仕事の愚痴を聞き、始発が動き出す時間まで僕はじっと正座の姿勢で対応しました。店を出た後、蹌踉めく彼女を支えながら電車に乗り、部屋に辿り着きました。彼女は、今度はしっかりと洗顔して化粧を落とし、僕の寝床を指差しました。「元彼の部屋だけど、今は使ってないから」そこは一つの空き部屋でした。中の様子を覗くと、電化製品の箱や、ブランドショップの袋が絶妙なバランスで積み重なっていて、寝る場所おろか、足を踏み入れる隙間すらありませんでした。彼女は「三時間後に起こして」と言い残し、床に就きました。


 三時間の睡眠の後に、彼女は低い呻き声を上げながらベッドから這い出て、シャワーを浴びました。気分が優れたのか、その後はてきぱきとした動作でスーツに着替え、化粧を施し、隣でぼうっとしている僕を気にせず、颯爽と部屋を出て行きました。

 ドアの閉まる音で僕は我に返り、気を取り直して、僕は起立を試みましたが、特にすることはありませんでした。再び部屋の真ん中で膝を抱え、ぼんやりとしていますと、次第にお腹が空いてきました。僕はやっとで意志を持って動き出し、冷蔵庫の前に立ちました。人の冷蔵庫と思い、少し躊躇いましたが、すぐに理性より食欲が勝りました。ドアを開き、物色しますと、発泡酒の極生と月の桂の濁り酒、ラベルの無い烏賊の塩辛、胡瓜の浅漬けしか入っていなかったので、すぐに閉めました。気を取り直して、キッチンに注意を移しました。水垢で覆われたシンクの上には、使われたお椀やお皿が山積みになっていて、まな板の上では乾燥してしまった茗荷が、包丁と共に放置されていました。ガスコンロの脇には乾燥パスタの破片や、真っ黒く焦げた不明の物体が落ちていて、なんとも言い難い、醜い惨状でした。脇の壁にははねたサラダ油やゴマ油が茶に変色してこびり付き、簡単に落ちそうにありません。一度気にするとなかなか止まらないもので、その後も流し台やバスルーム、トイレをチェックし、大量の抜け毛に辟易した後、完璧な掃除を敢行しようと決意しました。清掃による環境整備が済んだ上で、まともな食事を調理しようと思い立ったのです。

 合い鍵は渡されていませんでしたが、僕は徒歩三分の距離にあるスーパーを三往復して、足りない掃除用品や、最低限の調理に必要な調味料、器具を買い揃えました。

 数十ヶ月分の汚れと対峙し、料理に取りかかろうとする頃には、陽は落ちていて、彼女が帰って来ました。「あれ、まだ帰ってなかったんだ」と驚いた顔で僕を一瞥して、またすぐにスーツを脱いで下着姿になりました。僕が継続して炊事を行っていると、その香りに気付いたのか、彼女は嬉々とした表情で近寄ってきました。「なに、あんた、ごはん作ってんの?」僕はついでに掃除も行ったと報告しました。彼女は急に目を丸くして、ほんとお?と声を裏返しました。僕は声を落として、本当、と答えました。

 豚肉の生姜焼きと、茗荷と馬鈴薯のお味噌汁という簡単な組み合わせでしたが、彼女は大変喜びました。どうやって作ったの?超おいしいじゃん、と騒ぎながら全てを食しました。器が空になった後、用意したお風呂に彼女を入らせ、その間に僕は食器を洗い、シンク上に弾かれた水分を布巾で丁寧に拭って、明日の朝食の下ごしらえを行いました。

 彼女が入浴を済ませ、ドライヤーで髪を乾かしていると、不意にチャイムが鳴りました。

 誰だろう、と僕は腰を上げましたが、よく考えると、僕はこの部屋の住人ではありませんでした。「出なくていいよ」と言った彼女ですが、彼女もまた動こうとしませんでした。

 そうして二度目、三度目のチャイム音が部屋中の空気を震わせるうちに、ドアは勝手に開きました。中からは、身長が高く、面長で彫りの深い、二十代後半の活力に満ちた人相を持った男性が出てきました。彼は彼女の名前を呼んで、部屋に上がり込んできました。僕は空き部屋に逃げ、ドアを閉めました。彼の大きな足音が床に響いて、すぐに彼と彼女の口論が始まりました。二人がひとしきり罵声を浴びせ合った後、男性が空き部屋の戸を開け、イイヤマの液晶ディスプレイの箱の影に隠れていた僕を見つけて「出て行け」と命令しました。反応の鈍い僕を見て、彼は早口で叫びました。「そこは私の部屋だ」

 僕は絡まりそうになる足に注意しながら、急いで部屋を出ようとしました。しかし、彼に腕を掴まれました。「いやしかし、君が権利を主張するなら、私は交渉に応じよう」

 もとより権利を主張するつもりはありませんでしたが、彼に強引に連れられ、近くのバーに入ることになりました。

「私は彼女の上司で、会社に入って六年になる。仕事は順調だし、収入も君の比にならないはずだ。私は彼女に仕事を辞めて貰って、家事に専念させたい」

 彼は勝手に自己紹介を行い、矢継ぎ早に僕の職業を尋ねてきたので、堪らず沈黙しました。次に収入を聞かれたので、ぎゅっと口を噤みました。最後に将来への展望を論じろと脅されたので、僕は何も無いと正直に打ち明けました。「彼女が必要としているのは、家庭ではなくて、自身が勝ち取る地位や名声、そしてお金だと思います。仕事ができる人だから。反対に僕は何もできない。だから、そんな彼女を、僕は主夫として支えたい」

 殴られた僕は、カウンターのグラスを倒して椅子から転げ落ちて、床に突っ伏しました。飲まされたウイスキーが食道をせり上がってきたので、すぐに口を押さえました。その間に男性は勘定を済ませ、店を出て行きました。

 店員から冷たいタオルを渡され、頬を冷やしながら彼女の部屋に戻ると、鍵がかけられていて、僕は中に入ることはできませんでした。チャイムを一度押してみましたが、反応は無く、僕はそのまま都営三田線の高島平駅に向かいました。終電がまだ残っていたので、僕は白銀高輪方面に乗り、二十五分間電車に揺られた後、春日駅で降り、アパートに戻りました。

 自室では、母の留守番メッセージだけが僕を迎えていました。直ぐに電話して欲しいとの事だったので、深夜でしたが、発信しました。

 電話に出た母は、友人とお酒を飲んだ後らしく、とても上機嫌でした。

「奈緒子とは連絡取れてる?」と聞いてきたので、僕は「うん」と答えました。奈緒子は僕の姉の名前でした。

「ちゃんとやってるの?」

「元気みたいだよ」

 曖昧な返答しかできない僕自身を、頭が悪いなと独白し、自虐しました。

「それより、母さん」

 突然の切り返しに、受話器の向こうの母は、僕の緊張を察して言葉を止めました。

「仕事、辞めたよ」

 そう言った後、僕の頭の中には、煙草をくわえたまま玄関でパンプスを脱ぐ姉の姿がぼんやりと浮かびました。それは、思うように拭い去ることができませんでした。母が固唾を飲んでいる間に、僕は、今考えていることを全て言ってしまおうと思いました。

「お見合いの話とかないかな。結婚したいんだ」

 久しぶりに会った姉は僕のことが分かりませんでしたが、僕は姉の事を、姉のような人を、愛している事が分かりました。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても面白かったです。 汚い部屋の状況描写が良いと思いました。
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