知らず、知らずのうちに
知らず知らずのうちに綾瀬との時間を求めてしまう。動き出した栄巣の心
は、いったい何処へ向かって行くのか
7月にしては気温が上がらず肌寒い、そんな梅雨の晴れ間の昼下がり。
通りを吹く風は涼しく陽射しは穏やかだった。
アロームのランチタイムが終わりディナータイムまで綾瀬を休憩に入
れ栄巣の休憩する。自宅への階段を上がる栄巣の後をレンタルしてきた
CDをもった綾瀬が付いて来る。
「えー・・ほんまにいいんですか」
「大丈夫、奥さん今日、夕方まで帰ってきゃーへんから」
{???大丈夫?・何が?・俺なんか変な事言うてる?}
幸い{何が大丈夫なんですか?}とは突っ込まれはしなかった
CDデッキを持っていない綾瀬にCDをダビングして欲しいと頼まれた
のだ。
「僕も使い方よう分かへんから自分でやって」
奈緒美のいない時に女性を家に上げるのは初めてだ。玄関を入って
すぐのリビングの奥の洋室のピアノの上にCDデッキははある。
レースのカーテンを透して穏やかな陽射しが洋室に射し込んでいた
操作を確認しながら一度CDを聞いてみる。流行の男性ディオ。
ちょっとチャラいが優しいメロディーだ。
「これアジサイって読むんですね」
背を向けてCDジャケットを見つめる綾瀬の真っ白なブラウスと優しく
カールした髪が穏やかな陽射に包まれて輝いている。
(君を強く抱きしめたい・ずっと・ずっと)
チャラい男性ディオの曲が流れる{な・なんというタイミング・い・
いかん心身膠着状態や}軽薄極まりない歌詞にであるにも関わらず
栄巣の感情は盛り上がっていった。
ゆっくりと上がった栄巣の腕が穏やかな陽射しに輝く綾瀬の肩を抱きせる
{あ・あかん何、想像してんねや。腕は上げたらあかん・腕は上げたら
あかん耐えるんや}
実際には数分だが何時間にも感じられる。欲情を抑えるのは大変だが
優しい光に包まれた空間に綾瀬と二人きりでいる事はまるでファンタジー
の世界にでもいる気分だった。
ダビングを終えた綾瀬はCDをデッキから取り出し栄巣に笑顔を向けた
「ありがとうございました」
礼を言って部屋を出て行く。{何も起こらなくてよかった。ほんとによか
った・・ほんとによかった?}とにかく今は自分の理性の強さを褒めてあ
げたい・・・??単純に自分がヘタレだっただけかもと栄巣は自問自答し
ていた。
ピアノの発表会が近づいていた。美香のではなく栄巣のだ。彼は5年前
からピアノを習っている。ジャズの好きな栄巣には何時かアロームでジャ
ズの生演奏をする目標があった。お客さんがいない時、店に置いた電子ピ
アノの練習している。今回は入魂・男のピアノという本に載っている
シェルブールの雨傘という曲で発表会に挑む。(ジャズではないが)だい
ぶ仕上がってはいるが、まだ詰まる所がある。
「なんか切ない曲ですねー」綾瀬がうっとりした様に言う。
「もうちょっとやねんけどなー・・発表会までなんとかせな」
「上田と一緒に見に行きますね」
「ほんまにー!・・嬉しいなー・よーしガンバロー」
大人の発表会は週末にしかやってない。週末のアロームの営業に支障を
きたすとして、発表会には出て来なかった栄巣だったが、ならば、夏休み
の小・中学生の部での出場をとの教室の講師の計らいを断る訳にはいかな
かった。
アロームの定休日の月曜日、市内の発表会会場のホールの客席に栄巣は
一人で座っていた。奈緒美と美香・直人はまだ来ていない。
出場時間には直人を保育所に迎えに行ってこちらに合流する予定だ。
栄巣の出番の少し前、綾瀬と上田が栄巣の隣の席に着いた
「奥さんは、どうしたんですか?」
「わからん・もう来るはずやけど」
「ガンバッテ下さいね!」
今は綾瀬の言葉が一番嬉しい。ガッツポーズをして席を立った。
ステージに袖では、出番待ちの出場者が待機していた。栄巣の隣は小学
校低学年の女の子、その隣は中学生ぐらいだろうか、メチャメチャ恥ずか
しい。アナウンスに紹介されてステージに出る。一礼すると小さく遠慮が
ちに手を振る綾瀬が見えた。奈緒美の姿は見当たらない、充分だ。
演奏は前半順調だったが後半の盛り上がりで少し詰まった。
「あかんかった!!」
席に戻った栄巣は、頭にゲンコツをしながら、小声で言った。
「でも、前半はめっちゃ良かったですよ」
「ありがとう」
今度は、もっといいとこ見せたい。結局、奈緒美は来なかった。
家に帰ると奈緒美はもう帰っていた。出場時間を間違えたらしく、着いた
時にはもう終わっていたそうだ。{まあ、今日はその方がよかった}
学校は夏休みに入った。世間は大音量の蝉の声に埋め尽くされている。
綾瀬は相変わらず元気な笑顔を振りまいている。
その日もアロームは暇だった。お客さんのいない店で栄巣は2リッター
の容器に入ったジェラートをスパテラを使ってカップにつめている。
ジェラートの詰められたカップに綾瀬が蓋をしていく。
パンの売れない夏。少しでも売り上げを上げようとアロームでは自家製
ジェラートを売っている。
「マスター・・みーんな彼氏居るのにうち彼氏出来ないんですー」
(出来ないんですー)であひる口されるとメロメロになってしまう。これ
が25歳以上なら完全に口説きだが16歳の綾瀬に他意はないのだろう。
最近、綾瀬はメイクを覚えた。栄巣はよく分からないが、グロスの
リップ・マスカラで目の周りが、真っ黒だ。決して上手ではないむしろ
ひどい。しかし、ガンバッテる姿がいじらしい。
「綾瀬かわいいって思うけどなー僕がクラスメイトやったら絶対狙う
けどな」
「ほんまですかー・・なんか嬉しい」
「絶対、綾瀬狙ってる奴いるって!!」{ここに!!}
「そうかなー」
「大丈夫やって、もし彼氏でけへんかったら責任取って僕が彼氏・・」
「それは結構です」{は・早!!}
「や・やっぱり」