前編
初めての方は初めまして。
久し振りの方はお久しぶりです。
この物語は、「自分が自分であること」を否定され続けた少年が、ある日突然“違う姿”になってしまうところから始まります。
家族から拒絶され、居場所を失い、それでもなお生きていこうともがく心。その過程で出会う、無条件の優しさや、初めて芽生える感情を描きました。
性別の変化や思春期特有の心の揺らぎ、家庭内の息苦しさなど、少し重たいテーマを含みますが、物語の根底にあるのは「傷ついた心が、少しずつほどけていく話」です。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
※長いので前後編に分けて投稿します。
◇終わりと始まりThe End and the Beginning.
蝉の声が、夏の朝を切り裂くように響いていた。
H県の県庁所在地・S市郊外の、どこにでもあるような住宅街の一角。
中学一年生の祐樹はベッドの上で目を覚まし、いつもと同じ息苦しい朝を迎えた。胸の奥に巣食う、暗く重たい何か。自分なんかどうせダメだと囁く心の声。
父の厳しい言葉と母の不安定な感情に挟まれた日々は祐樹の自己肯定感をすり減らし、まるで紙切れのように薄くしていた。
起床時刻まであと二十分。起きたくない、起きたくないと毛布の中で寝返りを打っているうち、ふと体に違和感を覚える。
なんだこれは。胸が膨らんで、女の子のおっぱいのようだ。
彼は洗面所の鏡の前に立ち、自分の姿を確かめようとした。だがそこに映っているのは祐樹のようで祐樹ではなかった。
髪の色は黒から茶色に変わり、長さも肩に届いている。細く華奢な輪郭を持つ少女。全くの別人ではないが、明らかに昨日までとは違う顔。大きな瞳と長いまつ毛が驚愕に震えている。
自分の手をまじまじと見つめる。小さく、細い指。まるで他人のものだ。
「うそ……でしょ?」
声もまた自分のものではなかった。透き通った鈴のような音。祐樹の胸に、得体の知れない恐怖が広がった。心臓が早鐘を打ち、膝が震える。恐る恐るパンツを下げる。……無い。思わず悲鳴を上げた。
その声を聞きつけ、父が姿を見せた。
「祐樹! 何だ、その格好は!」
父・八神弘樹の第一声は、エリート銀行員らしい冷たく鋭い響きだった。高校は地元で一番の進学校を卒業し、大学こそ中程度で妥協したが、銀行員となってからは実績のみを武器に並み居る高学歴の同期を押しのけ、支店長就任の最年少記録を打ち立てた猛者中の猛者だ。
自分の実力に絶対の自信を持つ父は、いつも祐樹の身長の低さや気の弱さ、無気力を責め立てる。「もっと背を伸ばせ」「男がそんな弱気でどうする」「喧嘩一つできないのか」「早くやれ、やる気を出せ」「少しは俺を見習え」と、祐樹の存在そのものが失敗であるかのように繰り返してきた。
祐樹は父の視線を浴びるたび、自分が少しずつ小さくなっていく気がしていた。
「父さん、僕、なんか……女の子に……」
祐樹の声は震え、言葉が喉に詰まる。弘樹は一瞬、目を細めて祐樹を見た。だが、その瞳には理解や驚きよりも先に、拒絶の色が濃く浮かんだ。
「何!? ふざけるな! こんな馬鹿げた姿で何のつもりだ! さっさと学校へ行け!」
弘樹の心は混乱と怒りに支配されていた。我が息子は俺の教育の正しさを証明する存在でなければならない。男として強く立派に育ち、人より優れた学歴と就職先を獲得すること。それが弘樹の描く唯一の未来であり正解だった。
祐樹の小さな背丈や気弱な性格は既にその理想を裏切るものだ。その上で、今目の前にいる、女の姿をした息子ではない何か。それは弘樹に対する反逆だった。
これを受け入れることは自分の美学の崩壊を意味する。息子の変化を直視すれば、今までの人生が崩れるような恐怖が弘樹を怒らせた。
「祐樹! どうしたの!? 今度は何をしたの!?」
母・由美子の声が響いた。彼女は洗面所に入るなり、祐樹の姿を見て凍りついた。すぐにヒステリックな叫び声が空間を満たした。
「何!? なんなの!? 祐樹、あんた何をしたの! なんでこんなことするの! いったい何考えてるの!」
由美子の声は、まるでナイフか割れたガラスのような鋭さだった。
彼女は感情の起伏が激しく、些細なことで怒りを爆発させる悪癖があった。
皿の置き方が気に入らない、テストが満点でない、予定が少しでも狂う、近所の噂話。そんな些細なことで絶叫し、祐樹を責める。その思考の出発点はいつでも「祐樹が悪い」だ。
祐樹は物心ついた頃から母の機嫌を損ねないよう、顔色を窺いながら生きてきた。自分の意見を言うことも、感情を表に出すことも、いつしか無くなっていた。
その点、妹の絵美が羨ましい。
4歳下の絵美は常に我が儘を言い、叱責されれば逆切れし、泣きわめき、大暴れする。まるで母の小型版だ。父も母も、そんな絵美にほとんど何も言わず、むしろ卑屈にご機嫌を伺うことさえする。
由美子にとって、祐樹は自分のプライドを満たす「自慢の息子」でなければならない。世間体を保ち、ステータスを保証する存在。女の子の姿は、それを根底から覆す許されざる異物だった。
彼女の心は恐怖と嫌悪で塗りつぶされていた。こんな祐樹を認めれば、母としての自分の存在そのものを否定される気がした。
「僕知らないよ! 起きたらこうなってたんだ! 僕だって怖いんだから!」
祐樹の声は涙で震えていた。だが救いを求めるその声は両親の耳には届かなかった。弘樹は拳を握りしめ、顔を真っ赤にして吐き捨てる。
「こんな姿で外を歩けると思うな! 恥ずかしいと思わないのか!」
「恥ずかしいって。僕が悪いわけじゃないのに……」
祐樹の小さな反論は、すぐに由美子の絶叫にかき消された。
「じゃあ母さんが悪いって言うの!? いい加減にして! ほんとに腹立つ! どうしてちゃんとしていられないの!?」
祐樹の胸は、鋭い刃で切り刻まれるように痛んだ。どうして僕が悪いんだ? どうして僕のせいなんだ? 病気かも知れないじゃないか。どうして最初の言葉が「大丈夫か?」じゃないんだ? 何故僕が悪いことをしたみたいに言うんだ?
いくら心の中で叫んでも、言葉にはならない。自分なんかいてもいなくても同じ。いや、いない方がいいのかもしれない。もうこの世から消えてしまいたい。
今まで何度も繰り返した、そんな思考が祐樹の心を黒く染める。自尊心や自己愛はとうの昔に底を尽いていた。父の叱責も、母のヒステリーも、すべて自分が「足りない」からだと信じていた。なのに今、こんな異常な姿になってしまった。
もう家族から必要とされる望みは完全に潰えた気がした。
翌日、両親の決断は冷酷だった。
「祐樹、お前O市(=祖父母のところを指す)に行け。帰って来る必要はない。この家にこんな姿でいられると俺の経歴に傷がつく」
弘樹の言葉は、まるで不用品を廃棄するかのような無機質さだった。由美子は目をそらし、ただ震える声で呟いた。
「みっともない。なんでこんなことに……」
「お兄ちゃん、今度は何やったの?」
妹の言葉が追い打ちをかける。
祐樹は涙をこらえながら荷物をまとめた。数日分の着替えと教科書、文房具を通学用のスポーツバッグに詰め込む。両親の拒絶は祐樹の心に深い傷を刻んだ。僕が悪い。僕がダメだから。そんな思いが頭の中でぐるぐると回る。
その翌朝五時過ぎ。六時四十八分S駅発の特急に乗るため、たった一つの荷物を手に祐樹は家を出た。
朝食は出してもらえず、見送る者は誰もいない。背後でドアに鍵が掛かる音がした。
何処かでカラスが啼いている。
少年時代の終わりと、少女としての生き方の始まり。その狭間で、祐樹の心は海の波のように揺れていた。
◆新しい居場所A new place for her.
列車の窓の向こうを夏の田園風景が流れていく。
畑作と酪農で拓けた大地。地平線まで見えそうな、広大な農地。更にその向こうに連なる蒼い山並み。
祐樹は座席の上で膝を抱え、揺れる車内で小さくなっていた。僕なんかいなくていい。そんな声が頭の中で響き続ける。父の冷たい言葉、母のヒステリックな叫び声。あざけるような妹の視線。鏡に映った見知らぬ少女の姿。すべてが祐樹を追い詰め、胸を締め付ける。こんな姿の僕、誰も必要としないよね。
自己否定の渦は果てしなく深かった。
十時十三分。
定刻より五分遅れて列車がO駅に停まり、祐樹は重い足取りでホームに降り立った。
人口二十万人弱の地方都市の空気はどこか懐かしかった。
実感はないが、ここが祐樹の生まれ故郷だ。改札を抜け、迎えに現れた祖父と祖母の姿を見た瞬間、祐樹の目頭が熱くなった。
こんな僕でも待ってくれる人がいる。かすかな希望が見えた気がした。
「祐樹! よく来たね! 元気だったかい?」
祖父・正樹の声は温かかった。白髪混じりの髪、皺だらけの好々爺。県下一番の名建具師として名を上げ、地元の有力企業を定年退職した後は強く請われて非常勤の役員を務めている。地元ではなかなかの名士だそうだ。スポーツバッグを受け取る手は、力強くも優しかった。
「おじいちゃん……」
祐樹の声は小さく震えた。正樹は祐樹の肩を抱き、穏やかに言った。
「大変だったね。でも祐樹は祐樹だ。何一つ変わっちゃいない。たとえ女の子になっても、お前はじいちゃんの自慢の孫だよ」
祖母・信子は祐樹をぎゅっと抱き締めた。
「祐樹、お腹が空いたろう? さ、早く帰ろう。帰ったらすぐご飯にするからね」
その言葉は、祐樹の凍りついた心にそっと染み込んだ。本当に? こんな僕でもいいの? 信じられない思いと、信じたい気持ちが交錯する。正樹の目は祐樹の姿を無条件に受け入れていた。そこには、父のような冷たい視線も、母のような拒絶も、妹のような軽蔑もなかった。ひたすらに、ただひたすらに祐樹そのものを愛する眼差しだけがあった。
祖父母の家は高台にある古びた木造の平屋だ。祖父の祖父・英樹の時代から、幾多の増改築と近代化を繰り返しながらここに住んでいる。
父がH市に転勤になる前、三歳か四歳迄はここに住んでいた。そして毎年夏休みと冬休みには親戚一同が集まる。小さい頃はこの出窓に腰掛けて外を眺めるのが好きだったのを覚えている。
こっちの部屋ではうっかり鏡台を倒してしまった。金切り声を上げて喚き散らす母に対して、祖母は祐樹に怪我が無かったことを喜んでくれた。
庭にはひまわりが咲き、小鳥の鳴き声と蝉の声が聞こえる。
信子の声はまるで子守唄のように柔らかかった。その抱擁は祐樹の傷ついた心をそっと包み込んだ。こんな僕でも抱きしめてくれる人がいる。涙がこぼれそうになり、祐樹は慌てて目をこすった。
祐樹に宛がわれた部屋は、縁側を歩いて一番奥の四畳半。祖父母の寝室の隣だった。正樹が書斎として使っていた部屋だ。
木と畳の匂いがする小さな部屋。窓の外には裏庭と緑の木々と青い空が見える。だが祐樹の心は晴れなかった。どうして僕はこんな姿になっちゃったんだろう。いつかは元に戻れるんだろうか。鏡を見るたび、知らない少女の顔が映る。長い髪、華奢な肩。自分じゃない。なのに紛れもなく自分だ。父さんが言ってた通り、僕ってやっぱり無価値なやつだ。
初日はトイレ以外ほとんど部屋から出られなかった。布団の上でタオルケットを被り、膝を抱えて震える。
母さんが叫ぶのは僕のせいだ。父さんが怒るのも僕が悪いからだ。妹から侮辱されるのも僕がヘマをするからだ。
自己否定の声が頭の中で渦巻く。
夜眠れないまま窓の外を見つめると星空があまりにも美しくて逆に胸が痛んだ。こんなきれいなもの、僕なんかが見ていていいのかな。
二日目、信子が部屋にやってきてそっと手を握った。
「祐樹、ご飯食べようね。ハンバーグ作ったから」
「う、うん。でも、僕、食欲なくて……」
祐樹の声は小さく、目は伏せたままだ。信子は無理に笑わせようとはせず、ただ優しく言った。
「いいんだよ祐樹。少しずつでいいから。じいちゃんもばあちゃんも、祐樹がここに来てくれただけで嬉しいんだから」
その言葉に祐樹の胸が締め付けられた。どうしてそんなこと言えるの? こんな僕なのに。
食卓には祐樹の好きなハンバーグが並んでいた。正樹がニコニコしながら言う。
「祐樹、これ好物だったろ?」
「……うん、好き」
祐樹は小さな声で答え、箸を取った。夏休みと冬休みの帰省の時には必ず夕食にこれが出た。おばあちゃん特製のハンバーグの温かさが、口の中で広がる。こんな僕でも、覚えていてくれる人がいる。 涙がこぼれそうになり、慌ててご飯をかき込んだ。
三日目、祐樹は庭に出てみた。ひまわりの黄色が、眩しすぎて目を細める。正樹が庭の草むしりをしながら声をかけてきた。
「祐樹、ちょっと手伝ってくれよ。雑草ってのは放っとくとすぐ増えるんだ」
「うん。でも、僕、こういうの苦手で……」
「苦手でもいいさ。やってみりゃ案外楽しいぞ」
正樹の笑顔に押され、祐樹はしゃがんで雑草を抜き始めた。土の匂い、指に伝わる草の感触。単純な作業が、頭の中の騒音を少しだけ静めた。僕はこれでいいのかも知れない。
だがその夜、鏡を見るとまた胸がざわつく。やっぱり僕、ダメだ。こんな姿、誰も受け入れてくれるわけない。
四日目、情緒はさらに不安定になった。朝、信子が持ってきた紅茶のカップを受け取り損ね、床に落としてしまったのだ。
祐樹はパニックに陥った。母の叫び声が脳内に響き渡る。僕はいつもこうやってうっかりミスをする。
「ご、ごめんなさい! すぐ拭くから!」
祐樹の声は震え、涙がにじむ。だが信子は慌てず、ただ穏やかに言った。
「大丈夫だよ祐樹。それより火傷はしていないかい? 紅茶なんてまた淹れりゃいい。ほら、ばあちゃんと一緒に拭こう」
信子の手は、祐樹の手を包むように布巾を握らせた。その温かさに、祐樹の涙がぽろりとこぼれた。どうして怒らないの? 僕、いつも失敗ばかりなのに。
五日目、祐樹は夜中に泣きながら目を覚ました。夢の中で父に役立たずと罵られ、母に恥ずかしいと言われ、妹にはカッコ悪いと笑われた。やっぱり僕、ダメなやつだ。 暗闇の中で胎児のように丸くなる。
だが、襖の向こうから信子の声がした。
「祐樹、大丈夫かい? 怖い夢でも見た?」
「……うん、ごめん、起こしちゃって……」
「謝らなくていいよ。ほら、ばあちゃんの隣においで」
信子は祐樹を縁側に座らせ、肩を抱き手を握った。
「祐樹、辛かったよね。いいんだよ、全部話さなくたって。ばあちゃんは祐樹がここにいてくれるだけで幸せだよ」
その言葉に、祐樹の涙が止まらなくなった。こんな僕でも、居てもいいって言ってくれる。信子の包容力は、まるで傷口にそっと塗る軟膏のようだった。
六日目、祐樹の心はまだ揺れていたが、どこか軽くなっていた。朝、正樹が庭で水撒きをしているのを見て、祐樹はそっと手伝ってみた。
「おじいちゃん、ホース持つよ」
「おお祐樹、気が利くな! じゃあそこのひまわりにたっぷりやってくれ」
正樹の笑顔は祐樹の存在をそのまま肯定していた。こんな僕でも役に立てるのかな。水がひまわりにかかるとキラキラと光が反射する。その美しさに祐樹の唇が小さくほころんだ。
その日の午前中、信子が提案した。
「そろそろ新しい服や学校の準備が必要だね。モリヤさん(=駅前のモリヤ百貨店。O市最大の商業施設)に行ってみない?」
「え? でも。僕、こんな姿で外に出るの、怖いよ……」
絶対みんなに笑われる。だが信子は優しく微笑んだ。
「どんな姿でも祐樹は祐樹だよ。じいちゃんもばあちゃんも、一緒にいるから大丈夫」
正樹が頷き、付け加える。
「そうだぞ。祐樹はこーんなに可愛いんだから、胸張って歩けよ」
「可愛い……?」
可愛いだって? この僕が? 祐樹の頬が熱くなる。可愛いなんて形容詞は僕に似合わないよ。孫だからそう見えるだけだよ。
自己肯定感を持たずに育った祐樹は、褒められることに慣れていない。むしろ反発や恐怖さえ感じてしまう。
だがそれでも、祖父母の言葉は雨戸の隙間から差し込む一条の光のように心の奥を照らしたのだった。
百貨店への道すがら、バスの中でも歩いていても、祐樹はまだ不安だった。こんな僕、変だと思われるよね。だが正樹が話しかけ、信子が手を握ってくれるたび、胸のざわめきが少しずつ静まっていく。
正午少し前にモリヤ百貨店に着いた。平日ではあるが大いに賑わっている。夏休みのせいかいつもより子供の数が多い。
三人は真っ先に最上階の展望レストランに向かった。
「まずは腹ごしらえをせんとな。腹が減っては何とやらだ」
正樹が豪快に笑った。
レストランの入り口には行列ができていた。待ち時間約五十分の掲示が出ている。やれやれ、と祐樹はうんざりする思いだったが、三人は列を飛ばして予約席に案内された。
「さあ、なんでも好きなものを頼め」
メニューを開いて祐樹に差し出す正樹。孫に食べさせることが嬉しくてならないのだ。
祐樹も今なら本当に好きなものを注文してよいことを知っている。あれこれ迷った挙句、シェフのお勧め・デミグラスソースのオムライスと食後のチョコレートパフェを選んだ。
親元ではこうは行かない。母も、好きなものを頼めと口先では言う。が、祐樹が注文すると途端に不機嫌になる。そんなくだらないものを、と必ず言う。何を頼んでも同じ結果になる。正解のない試験を受けているようなものだ。
ウエートレスが下がると銀縁眼鏡に蝶ネクタイの男性が現れた。
「八神様、本日はようこそお越し下さいました。従業員一同、お礼申し上げます」
「やあ店長。こちらこそご無沙汰して済まなかったね」
「そちら様はお孫さんでいらっしゃいますか? お目にかかるのは初と存じますが」
「ああ。自慢の孫娘だ。今度こちらで暮らすことになってな。お披露目を兼ねて連れて来たってわけさ」
「それはそれは。今後もご贔屓にお願いいたします」
店長と呼ばれたその男は、祐樹に向かって馬鹿丁寧に頭を下げた。おじいちゃんって凄いんだな。改めて祐樹は舌を巻いた。
幸せな食事で腹と心を満たした後はお買い物だ。婦人用衣料、特にジュニア関係は5階にある。
九月から通う中学校の制服一式と、普段着と、お出かけ用の少しお洒落な服、それと下着。
下着売り場では、女性店員がフィッティングをしてくれた。とても気恥しかった。おばあちゃんが付き添ってくれたが、おじいちゃんは離れたところで待っていた。昔気質な人だから仕方ない。
試着室で初めて着た水色のワンピース。鏡に映る自分は、確かに「自分」だった。これが僕でいいのかな。
祖父母の笑顔が答えだった。
「祐樹、なんて可愛らしいんだ! まるで天使だよ!」
正樹の大げさな声に、信子が笑って頷き、スマホを構える。
「ほんと、祐樹にぴったり。ねえ祐樹、ちょっとポーズ取ってごらん」
「……う、うん」
祐樹は、ぎこちなく微笑み、どこかで見たモデルのような格好をしてみた。鏡の中の少女も同じように笑い、ポーズをとる。その瞬間、こんな僕でも笑っていいんだと初めて思えた。自己否定の声はまだ相変わらず頭の片隅で囁いていたが、祖父母のそばにいると少しだけ静かになる気がした。
◇迷子の子猫A stray kitty.
百貨店のフロアは夏の海が波打つようにざわめいていた。色とりどりの服、きらめくアクセサリー、行き交う人々の笑い声。祐樹は買ったばかりのワンピースに身を包み、祖父母に挟まれて歩いている。
初めての女の子の服は新しい自分を解放する鍵のようだった。祖父の「可愛いぞ!」という声、祖母の優しい笑顔。それらが祐樹の心に小さな灯りを灯していた。
「あ、あっちにも可愛い服がある! 見ていい?」
ジュニア・カジュアルのコーナーが目に入り、祐樹は駆け出した。
「見て見て! これ!」
広告で見たパーカーとキュロットを着たマネキンを指さし、振り返る。だがそこに祖父母の姿はなかった。
「おじいちゃん……? おばあちゃん!?」
声をかけるが返事はない。人の壁に視界を遮られ、祐樹の胸に冷たいものが広がった。
ほんの一瞬の間に二人の姿を見失ってしまった。連絡を取ろうにも携帯はそもそも持っていないし、財布もない。
どうしよう、はぐれた。
買い物客のざわめきが嘲笑のように耳に響く。僕はいつもこうだ。調子に乗って余計なことをして失敗する。
祖父母を探す祐樹の足どりは鉛のように重かった。百貨店の明るい照明が逆に心を圧迫する。今の今まで自信をくれていたはずの女の子の服が、裸でいるのと変わらないくらいの恥ずかしさを掻き立てる。
こんな姿で一人なんて。笑われるよ。変だと思われるよ。
父の冷たい声が蘇る。そんな弱気でどうするんだ。母のヒステリックな叫びも。どうしてちゃんとしていられないの!
僕が悪いからだ。僕がダメだからこうなるんだ。自己否定の渦が祐樹を飲み込む。鼓動が高まり、膝が震える。
助けて。誰か助けて。
人混みの中で立ち尽くす祐樹。涙がにじみ、視界がぼやける。泣いちゃダメなのに。こんなだからクラスの皆からも馬鹿にされるのに。その瞬間、背後から穏やかな声が響いた。
「ねえキミ、大丈夫? 具合悪いの?」
声はハスキーで、どこか落ち着いた響きを持っていた。祐樹は振り返り、息を飲んだ。そこには同い年くらいの少年が立っている。
身長は祐樹より五cmほど上か。凛として整った中性的な顔立ちに、無造作に伸ばした少し長めの髪。ロゴ入りの黒いTシャツにジーンズのラフな姿。だがその眼差しは柔らかく、祐樹を安心させる何ものかを持っていた。
誰……? 祐樹の心は恐怖と安堵の間で揺れた。
「あ、あの。おじいちゃんたちとはぐれちゃって……」
少年は少し首をかしげ、優しく笑った。
「ああ、迷子ね。迷子のときは下手に動き回らない方がいいよ。あそこのベンチで休もう。飲み物買って来るから待ってて」
少年が差し出したオレンジジュースの缶は冷たく汗をかいていた。おずおずと受け取ると、ひんやりとした感触が心の揺れを少しだけ静めた。どうしてこんな優しくしてくれるの? 少年の穏やかな声は祐樹の不安をそっと拭い去った。
ベンチに並んで座ると少年が話し始めた。
「初めて来たの? ここ広いから迷うよね。ウチも小さい頃よく迷子になったよ」
「うそ、ホントに?」
祐樹は思わず聞き返した。少年の笑顔は夏の陽射しのように眩しかった。こんな人、僕の周りにいたことない。祐樹は少年の横顔から目を離せなくなった。
「ホントだって。ほら、母さんがさ、『ウロチョロするな! じっとしてろ!』って怒鳴ってきてさ」
少年は笑いながら顔真似をする。その声の軽やかさに、祐樹の唇が小さくほころんだ。ここ、笑うとこだよね? 僕、笑ってもいいんだよね?
「今頃おじいちゃんたちは君を探し回ってる。ここのベンチは目に付きやすいからきっとすぐ見つけてもらえる。もしあと十分待っても来なかったら、インフォメーションセンターに行って呼出しの放送をしてもらおう」
祐樹の胸は百メートルを走った後のように高鳴っていた。
少年の低く穏やかな声、落ち着き払った態度。頼もしい笑顔、差し出されたジュースの冷たさ。すべての安心させる要素が、逆に祐樹の心をかき乱す。
まさか僕、この人に……? そんな思いが頭をよぎり、祐樹は慌てて首を振った。違う違う! ただ迷子で怖かっただけ! こんなの恋とかじゃない! だって男の子だろ? 僕だって男なのに。こんなの、絶対おかしいよ!
だがいくら頭で否定しても、心は言うことを聞いてくれない。
これは吊り橋効果だろうか。恐怖と不安が、知らない感情にすり替わっていく。祐樹の頬が熱くなり、ジュースの缶を握る手が震えた。やめてよ。こんな気持ち、僕には似合わないよ。自己否定の声が、また頭の中で響く。
こんな僕が誰かを好きになるなんて、あってはいけないんだ。
その時、チャイムの音に続いて館内放送が流れた。『お客様のお呼び出しをいたします。市内からお越しの八神祐樹様。お連れ様がお待ちです。本館一階、インフォメーションセンターまでお越しください』
「あ、僕だ」
「やがみゆうきちゃんか。よし、行こう。案内するよ」
少年は祐樹の動揺に気づかず、立ち上がった。
「え、でも。……僕、迷惑じゃない?」
祐樹は他人の負担を増やすことに耐えがたい罪悪感を持つ。だが少年はそんな不安を笑い飛ばし、祐樹の手を引いた。
「迷惑? そんなものは無い。ほら行くよ!」
少年の手は大きくて温かかった。祐樹の小さな手を包み込むように握りしめ、人混みを押しのけてずんずん歩く。この人、なんでこんなに優しいんだろう。少年の背中は祐樹を守る強固な盾のようだ。
インフォメーションセンターまでの間、祐樹の心は沸き立ち続けた。
「もう少しでおじいちゃんたちに会えるね」
少年の声が頭の中で反響する。その言葉が祐樹の恐怖を少しずつ溶かしていく。
「祐樹! 心配したんだから!」
カウンター前で泣きそうになっている信子に、祐樹は思わず抱きついた。正樹が少年に頭を下げる。
「ありがとう、君。助かったよ」
「いいっすよー。じゃ、これで」
少年は軽く手を振ると、あっという間に人波の中に消えた。名前も告げず、颯爽と去る背中。祐樹の目は少年を追いかけた。
結局名前を聞きそびれてしまった。またどこかで会えないかな。
◆真夏の再会We meet again in midsummer.
朝の光が祖父母の家の庭を優しく照らしていた。祐樹はホースを手にひまわりに水を撒いていた。朝の水やりは祐樹の日課としてすっかり定着している。腐葉土の匂い、土の感触、遠くから聞こえる蝉の声。すべてが新鮮で、どこか懐かしかった。
だが心の奥にはまだ影が潜んでいる。僕、ほんとにここにいていいのかな。自己否定の声は、祖父母の温かさで薄れつつも、完全に消えることはなかった。
突然、生垣の向こうから声が響いた。
「あーっ! 見つけたー!」
祐樹はぎょっとして振り返った。そこには百貨店で助けてくれた、あの少年がいた。今日は目にも眩しいオレンジ色のポロシャツを着ている。ハスキーで甘い声が、夏の風のように祐樹の耳に届く。
また会えた……! 胸が高鳴り、祐樹は慌てて目をそらした。
「え、な、なんでここに!?」
祐樹の声は上ずり、ホースから水がぴしゃりと飛び散る。少年はくすっと笑った。
「うち、割と近所なんだよ。三丁目。今お使いの帰りなんだけどさ、びっくりしたよー。また会えるなんて夢みたいだ」
近所!? そんな偶然、ありえるの? 祐樹の心は驚きと喜びでざわめいた。
「そ、そうなんだ……あの、ありがとう。この前はほんと助かったよ」
祐樹はぎこちなく頭を下げた。僕を覚えていてくれたなんて。嬉しい!
少年は手を振って言った。
「いいっていいって。気にすんな。でさ、名前、ちゃんと言ってなかったよね。ウチ、串崎晶。よろしくね!」
「晶……うん、よろしく。僕、祐樹」
祐樹は小さな声で答え、その名前を心の中で反芻した。晶……。晶……。なんか、かっこいい名前。
「そういや、祐樹はいつまでこっちにいられるの?」
「あ、帰省とかじゃなくて。先週こっちに引っ越してきたんだ。二学期から桜川中学校」
「一緒だねー。あ、当然か。何年生?」
「一年生」
「やった! 学年も一緒だ! もう毎朝迎えに来るよ!」
晶の言葉に、祐樹の胸に小さな希望の花が咲いた。同じ学校! 晶と一緒なら、怖くないかも。生まれて初めて新学期が楽しみだと思えた。
それからというもの、祐樹と晶は多くの時間をともに過ごした。地方の中核都市とは言え、一番端の田舎町にはろくな娯楽施設がない。だが晶と一緒ならどんな時間も輝いて見えた。晶の底抜けに明るい笑い声は祐樹の心を軽くした。
ある日、川辺で水遊びをしていた時のこと。晶が水をかけてくると、祐樹はキャッと声を上げて逃げた。
「や、やめてよ晶! 冷たいって!」
「ハハッ、逃げんなよ、祐樹! ほら、反撃しろ!」
晶の笑い声が川のせせらぎに混じる。祐樹は水を返そうと手を伸ばしたが、足が滑って転びそうになった。
「うわっ!」
「おっと、大丈夫か?」
晶がさっと手を伸ばし、祐樹の腕を支えた。その温かい手に、祐樹の胸がドキリと鳴る。また、このドキドキ……。百貨店での動悸を思い出し、祐樹は慌てて手を引いた。
「ご、ごめん。僕、ドジだから……」
「いいよ祐樹、可愛いから許す(笑)」
晶がさらりと言った。可愛い!? 祐樹の頬が熱くなる。おじいちゃんたちが身びいきで言ってくれるのは理解できるけど、晶がそんなこと言うなんて。またも自己否定の声が囁く。こんな僕が可愛いわけない。
別のある日、駄菓子屋「さくらや」で地元の子どもたちと出会った。色あせた看板、冷凍ショーケース。ガラスの瓶に詰まった駄菓子、扇風機のゆるい風。昭和からタイムスリップしたかのような佇まい。下は小学生から上は高校生くらいまで、全部で二十人近くいただろうか。
その賑わいの中、祐樹は晶と並んで駄菓子を選んでいた。駄菓子屋なんて祐樹には初めての体験だ。
「祐樹、バナナチョコ好き? これ、めちゃうまだよ」
晶が手に持った駄菓子を差し出す。祐樹は笑って頷いた。
「うん、食べる、晶はいつも美味しいもの知ってるね」
男子グループが祐樹に興味津々に近づいてきた。そのうちの一人、りょうたが目を輝かせる。りょうたは中学二年生。陽気なお調子者で、クラスのムードメーカーだ。
「へえ、祐樹ちゃんって言うのか。可愛いね! 一年生? どっから来たの?」
祐樹はたじろぎ、後ずさる。注目されるのは慣れていない。
しょうが「まあ、落ち着けよ」と宥めた。しょうはこの中では唯一の中学三年生。図書委員を務める、このグループの知性担当だ。
けんじは中一。チラチラ祐樹を見ながら頷く。りょうたの後ろでニコニコしている。祐樹の美少女ぶりにドキドキしつつも話しかけるほどの度胸はない。
女子グループも加わり、みつきが「りょうた、うるさいよ!」と笑いながら割って入る。みつきは二年生。近所の美容院の娘で、女子グループのリーダー格だ。流行に敏感で、友達とのおしゃべりが大好き。祐樹の美少女ぶりに興味津々だ。
あやかが「祐樹ちゃん、緊張してる? 大丈夫だよ。りょうたはバカなだけで悪い奴じゃないから。バカなだけで」とフォローする。一年生で、控え目な性格だが友達思い。祐樹の不安感に早くも感情移入している。晶の暗い過去(後述)を知る一人でもある。
れなが「祐樹ちゃん、モデルみたい!」と目を輝かせる。れなは中二。ケーキ屋の一人娘で、少し天然でマイペースな性格。祐樹の中に、自分たちにはない都会の風を感じ取って素直に好意を抱いている。
晶がさっと祐樹の前に立ち、押し寄せる人波を笑顔で遮った。
「おいおい。祐樹を困らすんじゃないよ、ウチの大切な友達なんだ。変な絡み方はNGな」
晶の祐樹は晶の背中に隠れながら思った。晶はなんでこんなに強く優しいんだろう。
そのとき店の奥から元気な声が響いた。
「姉ちゃん! これ買って!」
祐樹は振り返り、目を丸くした。小柄な男の子。十歳くらいだろうか、晶に似たハッキリした目鼻立ちで、手にラムネの瓶を握っている。姉ちゃん!? 今、姉ちゃんって言った? 姉ちゃんて誰?
晶は少し照れたように笑い、男の子の頭をくしゃっと撫でた。
「颯斗うるさい。それくらい自分の小遣いで買えよ」
「えー、姉ちゃんのケチ!」
颯斗と呼ばれた男の子はふくれっ面で笑い、晶の腕にしがみついた。祐樹は呆然と見つめ、思わず呟いた。
「晶、女の子だったんだ……」
晶が振り返り、ニヤリと笑う。
「あは、バレちゃった(笑)まあ、よく言われるから慣れてるよ。気にすんな」
その笑顔に、祐樹の胸は安堵と驚きでごちゃ混ぜになった。百貨店でのドキドキ、川辺でのときめき。あれは男の子への恋心じゃなかった。それだけで何故かほっとした。でも残念な気もする。そして、なんでこんなに嬉しくて切ないんだろう。
夕焼けの中、晶と颯斗と三人で駄菓子屋を出た。帰る方角が同じ三人組みだ。颯斗がラムネを飲みながら姉に絡む。
「姉ちゃん姉ちゃん。祐樹ちゃんってほんと可愛いよね! 姉ちゃんの彼女なん?」
「ばッ、馬鹿言うなよ颯斗!」
晶はうまい棒の粉を噴き出し、照れながら颯斗の頭を叩いた。祐樹は顔を赤らめ、慌てて首を振った。
「ち、違うよ! 僕、ただの友達だから!」
彼女だなんて、そんなわけないでしょ! 中身はともかく女同士だよ? だが晶の照れた笑顔に、祐樹の胸がときめいた。晶は僕のこと、どう思ってるんだろう。
「祐樹ちゃんて僕っ子なんだ。リアルで初めて見た! 姉ちゃんと付き合ってないんなら俺の彼女になってよ!」
晶の鉄拳が再び颯斗の脳天に炸裂した。
「祐樹がおめー如きと付き合うわけねーだろ殴るぞ」(←既に殴ってる)
「ねえ祐ちゃん、俺と結婚してください!」
「ああっ、このクソガキ、あたしだってまだそんな呼び方してないのに!」
「別に姉ちゃんが付き合ってるわけじゃないんだからいいだろ」
「別に付き合わねーとは言ってねーだろ」
「あー、やっぱり付き合いたいんだ」
「う、うるせーこの色ガキ! おねショタ展開は作者的に無しだ」
止まらない姉弟喧嘩に、祐樹は肩を震わせて笑いをこらえた。仲良くケンカする二人がほほえましく羨ましかった。
◇もう一人の迷子Another stray kitty.
当然だが、晶には祐樹の知らない過去がある。母子家庭で育ち、トラックドライバーの母・睦美が晶と二歳下の颯斗を養っていた。朝早くから夜遅くまで働き、二児を力強く支える睦美の姿は晶にとって憧れであり理想だった。だが晶が小学生の頃、女の子らしくないと言われ仲間外れにされた時期があった。
きっかけは晶がある同級生の男子に告白したこと。その少年は「男と付き合う気はない」と言って大笑いした。そしてそのことを大声で触れて回ったのだ。
「あいつ、男のくせに俺と付き合いたいんだってよー!」
その日から、晶をカッコいいと言って称賛していた女の子たちまでもが晶の外見を否定するようになった。
「なんでスカート履かないの?」
「男みたいで気持ち悪いよ」
「こっちに来ないでくれる? 男が感染るから」
「晶ってオカマさん?」
「男女」
そんな言葉が、矢のように晶の背に降り注いだ。悔し泣きに泣きながら帰宅した晶を、睦美は強く抱きしめた。
「晶、お前はそのままでいい。どうせなら最高にかっこいい女を目指せ。この母ちゃんみたいにな!」「男みたいとか女らしくとか関係ない。どんな姿でも、晶らしけりゃお前は最高にいい女だよ」
その言葉が晶の支えになった。私は私のままでいい。母の強さと愛に励まされ、晶は自分を好きでいることを決意した。そして他人を外見や性別で判断しない信念を持った。
祐樹と出会ったとき、晶は祐樹の不安げな目や震える声に自分の過去を見た。この子、きっと辛いことがあったんだ。だから祐樹を放っておけなかった。祐樹にもっと笑ってほしい。祐樹の笑顔をもっと見たい。その思いは友情を超えて、特別な感情に変わりつつあった。
◆独り語り、晶Akira's monologue.
あの夏の日、モリヤ百貨店のざわめきはまるで遠い海の波のようだった。あたしは母の買い物に付き合って、うんざりしながらフロアを歩いていた。早く帰って颯斗とゲームでもしたいな。そんなことを考えながらふと視線を上げた、そこに彼女がいた。
おそらくは同年齢の、華奢で小柄な女の子。淡い水色のワンピースに身を包んで、泣きそうな顔で立ち尽くしている。
震える肩、うつむく顔。彼女の目は迷子の子猫のようだ。なんか放っとけないな。あたしの心がなぜかざわついた。母ちゃんの「最高にかっこいい女になれ」って言葉が頭のどこかで響く。
困ってる子を放っておくなんて、最高にカッコ悪いでしょ。かっこいい女なら動かなきゃ。
「ねえキミ、大丈夫?」
あたしの声に、その子がびくりと肩を震わせた。大きな目が驚きと怯えで揺れている。
この子、ただの迷子とかじゃない。なんか傷ついてる。あたしの胸がちくりと痛んだ。小学生の頃、女の子らしくないって笑われた日々が、ふと蘇る。あたしもこんな目をしたことがあったっけ。
「う、うん……おじいちゃんとおばあちゃんとはぐれちゃって……」
その子の声は小さくて、壊れそうだった。
「そっか。迷子のときは、下手に動き回らない方がいいよ。あそこのベンチで休もう。」
なんとか落ち着かせたくて、缶ジュースを手渡す。祐樹が受け取る瞬間、細い指が震えてた。その時心から思ったんだ。この子を守ってあげたいって。
なに、これ? ただの同情じゃない。その子の儚げな笑顔があたしの心を掴んで離さない。変なの。こんな気持ち、初めてだ。
ベンチに並んで座ると、その子の緊張が少し解けたみたいだった。
「初めて来たの? ここ広いから迷うよね。ウチも小さい頃よく迷子になったよ」
あたしが話すと、その子が「うそ、ホントに?」って目を丸くした。その顔がなんか妙に可愛くて、胸がドキリとした。なに、このドキドキは? たった今知り合ったばかりの、まだ名前も知らない子なのに。
この子を呼ぶ館内放送が流れて、あたしは初めてその名前を知った。八神祐樹。夏の風みたいに軽やかだった。
祐樹をインフォメーションセンターに連れてく途中、彼女の手を握った。細くて、冷たくて、でもなんだか温かい。
祐樹、こんな小さな手で、どんな重いもの背負ってるんだろう。あたしは母ちゃんの強さを思い出した。
祐樹にも笑ってほしい。その思いが、あたしの中でどんどん大きくなっていた。でも、これ、ただの友達への気持ちだよね? 恋なんて、考えたこともなかったのに。
◇孤独の三日間She spend three days alone.
八月十三日の朝、祐樹はとある旅館の一室で目を覚ました。窓の外では、夏の陽射しが山の稜線を輝かせ、風が遠くの蝉の声を運んで来る。
ここは祖父母の家から車で一時間ほど離れた、山間の温泉旅館「白玉楼」
祖父・正樹と祖母・信子は、五人の実子とその配偶者、十人の孫(祐樹がいないので九人)の帰省を迎えるに当たり、祐樹をここに連れてきた。
「祐樹、本当に済まない。弘樹が、お前を親戚に会わせないってうるさくてね。悪いけど三日間だけ、ここでゆっくりしててくれ」
正樹の声は申し訳なさそうだったが、祐樹には慣れた痛みだった。
『こんな姿で外を歩けると思うな。恥ずかしいと思わないのか』
父の冷たい言葉が脳内で再生される。
父さんの言う通りだ。こんな僕、親戚に見せられるような存在じゃない。それに僕だって親戚、特に従兄弟たちにはこの姿で会いたくない。
信子が旅館にチェックインする際、祐樹の手を握り、ゆっくり休んでおいでと微笑んだが、その温かさすら今は不要だと祐樹は思った。
旅館の部屋は、シンプルで清潔だった。畳の匂い、障子の柔らかな光、縁側から見える日本庭園。祐樹の目にはそれが別世界のように映った。自分がひどく場違いな存在に思えてくる。
今の服装は祖母が買ってくれたガーリーなTシャツとデニムのショートパンツ。女の子になって以来、太股を晒すことに強い抵抗を感じる。どんなに暑くてもズボンかロングスカートで通してきたが、ここでならまあいいだろう。
初日の朝、祐樹は朝食を旅館の食堂でとった。おまんじゅうみたいな顔をした女将さんが「ゆっくりしていってね」と笑顔で運んできた膳には、焼き魚や味噌汁が並んでいた。町ではめったに食べられない、祐樹が初めて見る川魚。だが祐樹の箸はほとんど動かなかった。
食堂の隅で家族連れの笑い声が響く。子どもたちが「おばあちゃん、これ食べて!」と騒ぐ姿に、祐樹の胸が締め付けられた。僕には家族なんていないも同然だ。
部屋に戻ると祐樹は縁側に座り、庭の小さな池を見つめた。鯉がゆったりと泳ぐ水面に夏の雲が映る。きれいだな。だがすぐに自己否定の声が追いかけてくる。こんなもの、僕が見ていても意味ないよ。
せっかく買ってもらった携帯電話を忘れて来たことに気付いた。充電器はあるのにね。
手持ち無沙汰に祐樹は鞄から文庫本を取り出した。祖父が「読んでみろ、面白いぞ」と貸してくれた明治時代の冒険小説の現代語訳。
だがページをめくっても文字が頭に入らない。脳裏に浮かぶのは晶の笑顔ばかりだった。
「やあ! こんなとこで何してんだ?」
祐樹を落ち着かせるハスキーな声が、今そこにあるかのように響く。生垣越しに声を掛けてきて、ニヤリと笑う顔。
晶はなんであんなに明るいんだろう。祐樹の胸が、温かさと同時に締め付けられるような痛みでいっぱいになる。百貨店での出会い、庭先での再会、川辺での水遊び、公園での追いかけっこ、さくらやで守ってくれた背中。
晶のすべてが祐樹の心に刻まれていた。
「祐樹ってさ、なんか放っとけないんだよね」
晶の言葉を思い出すたび、祐樹の頬が熱くなる。
放っとけない? 僕みたいなやつを? なんで? どうして? 自己否定の声が聞こえて来る。晶はただ優しいだけだよ。こんな僕が特別なわけないでしょ。僕に優しい人はほかの誰にでも優しいものだよ。
独りで居るとどうしても思考がネガティブに流れる。晶に会いたい。会って救われたい。その思いが胸の奥で膨らむ。
二日目の昼、祐樹は旅館の庭を散歩してみた。石畳の小道、苔むした灯籠、風に揺れる竹林。すべてが静かで、まるで時間が止まったようだった。
晶だったらこんなとこで何するかな。祐樹はふと想像した。竹林でかくれんぼをしようと言い出しそう。いや、鬼ごっこかな。
「祐樹、ほら、本気で逃げろ!」
晶の笑い声が頭の中で響く。祐樹の唇が、知らずに小さくほころんだ。晶って、ほんと変なやつ。
祐樹は立ち止まり、竹林の影を見つめた。晶は僕のこと、どう思ってるんだろう。百貨店での胸の高鳴り、駄菓子屋での安心感。あれはただの友情なのか、それとも……。まさか、そんなわけないよ! 祐樹は慌てて首を振った。
こんな僕が晶にそんな気持ち持つなんて、変だ。自己否定の渦が胸を締め付ける。だが晶の笑顔は今日の夏の陽射しのように祐樹の心を照らし続けていた。
夕方、祐樹は旅館の大浴場に向かった。女将さんが「うちの自慢の温泉、気持ちいいのよ」と勧めてくれたのが念頭にあった。温泉なんて入ったことないけど気持ちいいのかな。スーパー銭湯すら入ったことないんだけど。それでも少しでも気分が軽くなればと祐樹はタオルを手に廊下を歩いた。
「祐樹ってさ、なんか放っとけないんだよね」
頭の中で繰り返される晶の声が胸を温かくする。晶がいたらこんなとこで何するかな。その想像に、思わず笑みが浮かぶ。きっと温泉で水遊び始めるよね。
大浴場の入り口、祐樹は無意識のうちに男湯の暖簾をくぐってしまった。(←お約束)
脱衣場で服を脱ぎ、浴場に足を踏み入れる。湯気が立ち込め、硫黄の匂いが鼻をつく。気持ちよさそう。あらかじめ女将から聞いていた通り、掛け湯をする。湯船に足を入れた時、お湯の跳ねる音がして先客がいるのに気付いた。目を上げるとそこには、笑顔の老人たちが数人、湯船に浸かっていた。当然ながら全員が男性だ。
「おや? 嬢ちゃん、間違えたかい?」
白髪の老人が、穏やかに声をかけてきた。祐樹の頭が真っ白になる。え? 男湯!? そうだ、今の僕は女湯に入らなきゃいけないんだった!
「ご、ごめんなさい! 僕、間違えて……」
祐樹は慌ててタオルで体を隠した。顔が耳まで赤くなるのが自分でわかる。やっちゃった! 変なやつだと思われる! 自己否定の声が叫ぶ。父さんが言ってた通り、僕は恥ずかしいやつだ!
だが老人たちはニコニコと笑うだけだった。もう一人の老人が湯船から手を振る。
「気にすんなよ嬢ちゃん。わしらみんな目が悪いからな」
「そうそう、おまけに痴呆が入って記憶力も無いと来とる」
三人目の老人がユーモラスに付け加えた。祐樹は恥ずかしさで縮こまりながら、震える声で呟いた。
「ほ、ほんと、ごめんなさい。すぐ出ます!」
祐樹は脱衣場に逃げ戻り、急いで服を着た。丁度入って来たばかりの親子連れが驚愕している。心臓は破裂しそうで、涙がにじむ。こんな僕、ダメすぎるよ。
女湯に移動し、ようやく湯船に浸かったが恥ずかしさで脳が沸騰しそうだった。晶だったらこんな失敗しないよね。晶の笑顔を思い出すと今は胸が痛くなる。
「祐樹はドジなところが可愛いからさ」
晶の言葉を反芻するたび、胸がときめく。可愛いなんて僕に似合わないのに。晶はなんでそんなこと言うの? 湯船の中で、祐樹は膝を抱えた。晶に会いたい。ほんと、今すぐでも会いたいよ。
女将さんが後でそっと声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、びっくりしたね。男湯のおじいさんたち、一生に一度の経験だって喜んでいたよ。気にしないでね」
祐樹は怒られなかった、と安堵した。だが自己否定の声はまだ残っていた。こんな失敗、晶には話せないよ。
「祐樹はドジなところが可愛いからさ」
晶の声が胸に響いた。
三日目の朝、祐樹は旅館のロビーで新聞を手に取った。だが脳裏に浮かぶのは晶ばかり。晶、いま何してるのかな。携帯電話を忘れたことがつくづく悔やまれる。
「祐樹を困らすんじゃないよ、ウチの大切な友達なんだ」
その言葉が繰り返し胸の内に響き、祐樹の心に温かいものを満たす。晶は僕のこと、友達って思ってくれるんだ。だがその思いは友情だけじゃない気がした。いや、そうであって欲しいと願った。こんなこと考えるなんて変だよね。
昼過ぎ、女将さんが祐樹に声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、退屈してない? 近くに小さな神社があるよ。散歩がてら行ってみたら?」
「は、はい、ありがとうございます……」
祐樹は小さく頷き、旅館を出た。山道を登り、小さな神社にたどり着く。苔むした鳥居、風に揺れる枝の音。祐樹は賽銭箱に百円玉を入れ、目を閉じた。晶ともっと仲良くなれますように。その願いが自然と口をついて出た。
その日の夕方、祖父母が旅館に迎えに来た。
「祐樹、寂しかったろう? もう大丈夫だよ」
信子の温かい手に祐樹は小さく微笑んだ。
「うん、平気だったよ。色々考え事できたよ 」
正樹が笑いながら祐樹の頭を撫でた。
「考え事か! 祐樹も大人になったな。さあ、帰ろうぜ」
車に揺られながら、祐樹は窓の外を見つめた。晶の笑顔が脳裏に浮かぶ。早く晶に会いたい。自己否定の声はまだそこにあった。だが晶のことを思うとそれが少しだけ遠のく気がする。
こんな僕でも、晶と一緒にいられるならちょっとだけ頑張れるかも。
後半へ続きます。




