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聴き馴染んだ声。顔を覗き込む女は、ユーステスの覚醒と共に破顔した。ナチュラルブラウンの短髪、その先端はくせ毛で躍る。愛嬌に満ちた端正な顔立ち。微笑むだけで色香をばら撒く、まごう事なき絶世の美女。
「やあやあ、ユーステス! 眠そうだねえ。相変わらず、朝は弱いのかな?」
起きがけにこの尊顔を拝めたならば、並大抵の男は即座に骨抜きとなる事であろう。
「おい………… なぜ部屋にいる……?」
女の目を見つめ返しながら、ユーステスは冷たくそう漏らす。残念ながら、骨抜きとは程遠い反応だった。彼女の訪問は予定にない。これではただの不法侵入だ。
「頼むから、来る時は事前に声を掛けてくれ。このやり取り、もう何度目だよ。イレーネ……」
お堅いこと言うなよと肩を竦める、侵入者の名はイレーネ。手近な椅子に移動すると、机上のコップに手を伸ばす。いつの間に持ち込んだのやらだ。湯気の立つ液面に口を近づけると、眉をへの字に曲げて叫ぶ。
「うへぇ! 苦いね、こりゃあ! 眠気覚ましにはこいつが効くってマスターの触れ込みだったけど…… こりゃ大人しくジュースの方にしとくんだったね」
イレーネは舌をチロリと出すと、苦々しく後悔。ユーステスを一瞥し、親指で机上のコップを指し示す。苦いと分かっている物を、他者へと薦めないで貰いたい。こっちは甘党なのだから。
ほとんど手付かずとなったコップを机に戻し、イレーネは話し始める。
「ま、何はともあれ。取り敢えずはお疲れさんだ、ユーステス。大仕事、やり遂げたじゃないか。無事で何よりだよ」
話を聞きながら視線を移すと、イレーネの後方に何やらうごめく影を見る。丸まった寸胴、無防備に垂れ下がった耳。尻尾はとぐろを巻き、大きな欠伸をしながらうずくまる。
狼だ。
(獣を店内へ連れ込むな! ったく、人の部屋でやりたい放題だな……)
状況の把握は終わった。結論、頭痛の種しかない。再度イレーネに向き直ると、ぴしゃりと言い放つ。
「ここはペット連れ込みOKだったか? 他の客もいるんだから、控えろよ。それと、就寝中にいきなり顔を出すな。肝が冷えるだろ」
イレーネはカッカッカと快活に笑う。はだけた胸元には豊満な果実が二つ。笑う勢いに任せて、たゆんたゆんと揺れ動く。薄紫のレースから覗く肌、しなやかな肢体。狭き一室には荷が重い程、抑えきれぬ色気が充満する。
「マスターから聞いたよ。城門の警備、あの二人だったんだって? まさに襲撃にはうってつけの夜だったって訳だ! あいつらには密偵なんて危険な真似させちまってるから、今度会ったら良い思いさせてやんないとね」
「十分労ってやるんだな。あとはそうだな……マスターの方にも、礼をしておいてくれ。裏で色々と協力して貰ったんだが、俺からの報酬は受け取らなかったんでな」
そう言うと、ポケットから金貨数枚を取り出し投げ渡す。椅子で足を組みながら、イレーネは手元の金貨を見つめ微笑む。
「まあ、やっこさんは義理堅いお人だからねえ」
慈愛に満ちた、まるで家族にでも向ける様な。優しき笑顔であった。
「今度酒場の食材でも買って、届けておくさ。結構繁盛してるみたいじゃないか? 立地は最悪だが、その割には客入りが良い。アタシの鼻も高いってなもんさ!」
「マスターに料理を教えたのはイレーネだっけか? 今でも恩義を感じてるみたいだぞ?」
「閑古鳥だったからねえ、この店は。旨い料理には、自然と人が群がるもんさ。まあ鉄則だわね」
廃業寸前の酒場を立て直すのも、お手の物と。当たり前の様に話してはいるが、それが出来れば皆苦労しない。経営不振の店は、今すぐにでもこの女を囲い込むべきだろう。いや、真剣に。
「後は店名をどうにかした方が良いね。『猫』ってのは頂けない。今すぐにでも『山犬亭』に改名すべきだな! なー、コルク!」
隣で寝転がる狼、コルクをひと撫でしてそう垂れる。
(マスター、やっぱり店の名前には一言申したいみたいだぞ)
にやけそうになる顔を、何とか抑え込む。かれこれ十年来の付き合いとなる女だ。心の内は手に取るように分かる。単純な物だ。
愛狼に釘付けになりながら、イレーネは言葉を続けた。
「決闘、したんだろ? あれも良い具合に目くらましになったね。まさか騎士の誇りをかけて闘った当の本人が、襲撃の実行犯だなんて誰も思わないだろうさ」
「…………」
直ぐに言葉は出なかった。そこは腫物だ。思わず床を見つめ、黙り込む。途切れた会話、静寂が横たわる。ようやく重い口を開き、胸の内を明かす。
「手放しでは喜べないな。三年だぞ? あの皇女の騎士になって、約三年。せっかく信頼を勝ち取ったのに、これじゃあ何の為に……」
場の空気を悟り、イレーネはコルクから手を放す。
「あんたの目的は果たせたかもしれないが、俺の復讐はどうなるんだ? ルミナリア皇族との繋がりなんて、そう易々と手に入るもんじゃない。皇帝へと繋がるかもしれない、唯一の道筋だったんだぞ?」
イレーネはおもむろに、机に置かれていたナイフを手に取った。襲撃の夜、警備兵の喉元を切り裂き、血で汚れたその刃。血の跡は既に落とされ、今は鈍い輝きを取り戻している。
「あの皇女様は潔癖が過ぎたんだ。アタシらも自分らのテリトリーが侵されるとなれば、黙っちゃいられない。これでも随分待った方だね」
ナイフを器用にくるくると回す。唐突にユーステスの方へ切っ先を向けると、ヒュッと投げ放った。
「アタシは『宵闇の園』の頭目として、皆を守らなくっちゃいけないんだよ」
扉付近の壁に刺さったナイフ。
切っ先には、大きな蜘蛛の姿。
手のひら大の胴体、その真ん中が見事刺し貫かれていた。
ギルド『宵闇の園』、通称『エデン』。大陸三大ギルドの一つで、都市ヘイムダルを起点として、世界各地に支部を持つ。
ギルドの主な収入源は娼館経営。夜な夜な煩悩に塗れた男達が誘い込まれては、多額の金銭やり取りが行われている。
その影響力は凄まじく、帝国をはじめとした諸大国の要人達も、足しげく店へと通い詰める。頭目イレーネが各支部の娼婦長へと直々に教え込んだ、絶技の数々。要人達はつい口を滑らせ、国の機密を漏らす事もしばしば。
金と情報が入り乱れる、大陸の歴史に最も密接に絡み合った闇組織。
それが『宵闇の園』の、『エデン』の実態だ。
「皇女様は『浄化作戦』なんて、御大層な名前で呼んでたみたいだけど。残念ながら、軍内部で少しでもそんな事を漏らそうもんなら、アタシらの元まで筒抜けさ」
「リーンベルがエデンを敵視する素振りは以前からあった。おそらく、俺が騎士となるよりも前からな。年頃の娘にしては、やや過敏と言うのは俺も思っていた。だが――」
「いつ爆発するかわからない火薬を抱え込むのなんて、願い下げだよ。どんな時だって、割を食うのは抗う力を持たない弱き者達さ」
『宵闇の園』は都市の中心で堂々と店を経営していても、大きな規制は入らない。各国の上層部を太客として囲い込み、彼らが店を贔屓しているからだ。
「行く当てもなくスラムを放浪していたアンタなら、分かるだろう? 生きる術を持たない奴らは、犯罪に手を染めるか……飢えて死ぬより道はない」
改めて言われるまでもない、これまで幾度も見てきた地獄だ。
「そんな中でも、女はまだ稼ぐ術が残されている。生きようと必死に足掻いている奴らを掬い上げて、その術を叩き込む! どんなに生き汚くたって、構わない――」
イレーネは拳を手のひらへと打ち付けた。合わせた両手を凝視しながら、力強く言い放つ。
「アタシの目の届く範囲で、せめて一人でも多くを生かしてやりたいからね。あいつらは――アタシの家族さ」
全ては帝国から不当に搾取された弱者へと、その利益を還元する為。
先代から続く意志、それが『宵闇の園』の存在理由だ。
「そんな場所を『穢らわしい』なんて一言で、奪い去って良い訳がないんだよ」
エデンの話を出すと、帝国の上層部は皆が一様に口を閉ざす。それは暗黙の了解。店を利用する者は言わずもがな。その存在を疑問視する者であっても、わざわざ介入するような真似はしない。
血の繋がりをも超えて結託し、互いに助け合う仲間たち。損得勘定でしか動かぬ者達にとって、それはいかに不気味な集団だと映るだろうか。
触らぬ神に祟りなし、故の不干渉。
(貴方はこの世界の残酷な真実の……いったいどこまでを知っていたのでしょうかね……)
純真無垢な笑顔が脳裏に浮かぶ。迷いを断ち切る様に、首を振る。今となってはもう、知る由もない事だ。その機会を奪ったのは紛れもない、自分自身なのだから。




