16(断章)
「こんのクソガキっ!! どこに行きやがった!!」
スラムの路地裏に響き渡る、男の怒鳴り声。怒りの形相を浮かべ、血眼で周囲を睨み付ける。
男が身に着けたるは、ボロボロに破れた貧相な上着。体を動かす度、上体には酷く風が吹き付けた。皮膚の温度は幾分下がったが、その分怒りのマグマが内部から燃え広がる。
「ちょろちょろと走り回りやがって……! 許さねぇっ!!」
男の視線が、眼前を横切る少女の影を捉えた。
「待ちやがれ!! コラっ!!」
言い終えるや否や、直ぐに駆け出す。入り組んだ地形とはいえ、ここは男のホームだ。少女はあっという間に追い詰められ、窮地に陥った。
目の前に立ち塞がる高き壁、もはや逃げ場はない。
「ぶっ、無礼者っ! 私はルミナリアの皇女なのよ!」
「皇女が何の護衛も付けず、こんな所に来る訳がねぇだろうが!! ふざけてんのか、このガキ!!」
拳の指を鳴らしながら、男は一歩一歩にじり寄る。その体格差に怯む事なく、少女はキッと睨みつけた。煌びやかなドレスを身に纏い、美麗で整った黄金の長髪。健康的な白い肌。全てが男の逆鱗に触れた。
妬ましい、憎らしい。この掃溜めに相応しくない。
何なんだこの女はと。
「あなたね! こんな事をして、ただで済むと思っているの!」
「てめぇが先にぶつかって来たんだろうが!! どうしてくれんだ、この服っ!!」
男は自身の上着を広げて、声高に叫ぶ。左胸のあたりから腰へとかけて、大きく斜めに裂傷。ぱっくりと割れた部分からは、毛むくじゃらな素肌が覗いている。
「これじゃあもう使い物にならねぇじゃねぇか!! どうしてくれんのかって聞いてんだっ!!」
先刻、少女が無残にも破き去ったその痕跡だ。無論少女とて、故意に破った訳ではない。道で躓き転倒しかけた際、たまたま目の前の布に手を伸ばしてしまった。少女は転倒を免れたが、その代償がこの有様。ただそれだけの事であった。
少女は睨み顔から一転、きょとんとした顔を向けた。小首をかしげながら、つい言葉が漏れ出る。
「えっ? その布切れ……服だったの!? ごめんなさい、気付かなかったわ。まさかそんなボロ雑巾みたいのがあなたの、その……衣服だったなんて……」
死角からのアッパーカット。
男は暫し放心した。
嫌味であったならば、まだ幾分良い。しかし質が悪い事に、彼女にとってこれは心の底から出た疑問の投げかけであった。
「てっ、てめっ――!!」
放心は数秒、直ぐに怒りが全身を駆け巡る。泣いて許しを請えば重畳、金品をせしめる程度で解放してやろうという心づもりであった。
寛容な心は打ち砕かれ、あろうことかこの暴論。舐められている、確実に。真っ赤に染まった男の顔、その歪んだ唇の端からは怒気が溢れ出た。
「ふざけやがって……!! ぶち殺してやるよ、このアマっ!!!!」
拳を振りかざしたのを目にして、少女は咄嗟にぎゅっと瞼を閉じた。
殴られるっ――!
思わず肩に力を入れ、歯を食いしばる。しかしどれだけ待てど、痛みは襲って来なかった。恐る恐る片目を開けると、男の拳は宙で静止していた。
「えっ――!」
その隣に、黒衣の青年の姿を見る。
拳を握った男の腕を鷲摑み、動きを止めている。青年は酷く虚ろな目をしており、ひとつ舌打ち。男の耳元に口を寄せると、イラつきを孕んだ声音で囁いた。
「そのあたりにしておけ。女相手に喚き散らして、みっともないぞ。ゴロツキが」
「んだぁ、てめぇ……?」
男の血走った眼が、少女から隣へ移ろった。身体を大きく揺すり、腕の拘束を解く。剝き出しの敵対心を受け、それでも青年は微動だにしない。ただ虚ろな眼光を向けながら、低い声音で忠告した。
「今直ぐ立ち去るってなら、そのまま無事に帰してやる。とっとと失せろ」
男のこめかみに青筋が浮かぶ。人助けのつもりか、偽善者が。このくそったれなスラムにいて、他者を気に掛ける様な高尚な人物など。勘違いも甚だしい。
生意気なガキが一人増えただけ、どちらも等しく捻り潰す。この期に及んで、撤退は有り得ない。
「どいつもこいつも、見下してんじゃねえぞっ!!!!」
右腕を大きく振りかぶり、殴り掛かる。
「あっ―― え…………?」
振りかぶった拳は、しかしそのまま宙で静止した。
遅れてやって来る、肌を焦がすような痛み――
「なん、だっ……これっ…………?」
男の二の腕から伸びるは、鋭利な赤き刃。
肉を見事円形に抉り取り、刃は男の腕を貫通していた。
「腕がっ――俺の腕がああああぁあっっつ!!!!!!」
「煩いな、騒ぐなよ。少し穴が開いた程度だろ? それとも――」
青年は顔をぐっと近づけ、唇の端を吊り上げる。
「その腕両方とも、根元からごっそり切り落としてやろうか? どうだ? ん?」
単なる脅し、若しくは戯言だと、一蹴すべきか。否、青年の目は笑っていない。瞬く間に、男の脳内は恐怖で満たされた。叫び声をあげながら、直ぐにその場を走り去る。
「くだらねぇな……」
青年は黒衣をはためかせ、立ち去ろうとする。
「ねえ、待って!!」
背後から投げ掛けられた、少女の声。縋るような一言に、青年は思わず足を止めた。別に見返りを期待していた訳じゃない。少女を助けたのは、ただの気まぐれだ。通りがかりに何やら大声を聞きつけ、ふと足を運んだ。その程度に過ぎない。
こんな場所で人助けなど、馬鹿げてる。その証拠に、周りの連中は見て見ぬふりを決め込んでいた。中には無償で善意をばら撒く、根っからの善人みたいな物好きもこのスラムにはいるが、自分はそうはなれない。
これはただの気まぐれ、そのはずだった。
「あなた、怪我しているわ……」
何故だろうか。
歩みを止めた理由が、彼自身にも分からなかった。
「血がこんなに……! 痛そうよ……見せてみて」
細く白い指が、袖口を掴む。
少女の視線は、右手に注がれていた。
鮮血伝う、その手のひらの上に。
「結構深いわね…… ちょっと待ってて!」
少女はその場にしゃがみ込み、刺繍の施された綺麗なハンカチを取り出す。たどたどしい手つきで手のひらの傷口を固く結ぶと、「良し!」と一言呟いた。
「いったいいつ怪我したのよ? 鈍感なの? 注意しないとダメっ!」
立ち上がった少女の顔が、不意に双眼に焼き付く。
それは、満面の笑顔だった。
「自己紹介、まだだったわね。私、リーンベルっていうのよ! あなた、お名前は?」
胸を張り、自らの名を告げる少女。凛とした佇まい、眩しい程の自信。何を取っても、この街には相応しくない人種だ。
(リーンベル……その名前……! いや、まさかな……)
スラムの物珍しさでやって来た、どこぞの貴族のお嬢様といった所だろう。普段ならばそのまま立ち去る所だが、なぜだか青年には予感があった。
このか細い手の先に、彼の求める未来が待ち受ける。
そんな予感が。
これは、"女神の思し召し"か何か――なのだろうか。
「俺は……ユーステス。ただのしがない、旅人だ」
名を聞くと、リーンベルは何度か呟き反芻した。
「ユーステス――良い響きね。あなた、気に入ったわ!」
リーンベルはユーステスの眼前に回り込むと、胸を真っ直ぐ指さしながら宣言する。ただの子供の児戯か? いやそう断じるには、その姿はあまりにも――
「決めた!! あなた、私の騎士になりなさい! ルミナリアの騎士は誉れよ! 今日みたいに私を守る為に、その力を奮って頂戴!」
小さき手が絡まり、歩みを促す。先導する彼女は、陽だまりに向かって踏み出した。
「今日から忙しくなるわよっ! 嫌だだなんて、言わせないんだからっ!」
都市ヘイムダル近郊、とあるスラムの路地裏にて。この日を境に、皇族騎士ユーステスの名は帝国全土へと響き渡るのであった。




