第2章:ユリ / ガラス越しの笑顔と、名前のない自己紹介
昼下がりの教室は、やけに静かだった。
鉛のような空気の中、規則に従い整列された椅子と机。そのどれもが寸分違わぬ間隔で配置され、個性という曖昧な概念を排除していた。
「本日より、Aクラスに新しい被教育対象が編入される」
無表情な教官が告げる。教壇のスクリーンに、彼女のIDと個体ナンバーが表示された。
その数字の羅列の下、彼女は一歩前に出た。
──彼女の名前は、コハル。
ただしそれは“本来の名”であり、学園では用いられない。ここでは、彼女も私も、番号でしか存在できない。
しかし──
「えっと、コハル……って、呼んでくれると嬉しい、です」
その瞬間、教室の空気がわずかに動いた。
誰もが驚いた。名前を名乗ること、それは明確な違反行為だ。けれど、彼女は臆することなく、微笑んだ。
「えへへ、ちょっと、勇気出しすぎたかも」
その笑顔は、まるで壊れやすいガラス細工のようだった。透き通っていて、けれどどこか儚い。
教官が彼女に視線を送った。何か言いかけて、しかし言わなかった。
代わりに、次の命令を無機質に読み上げた。
「空席は、C列の2番。着席しろ」
コハルはこくりと頷き、こちらに向かって歩いてくる──そう、私の隣が、その“空席”だった。
⸻
私の過去に、光などなかった。
思い出せるのは、冷たい部屋と、光が反射する点滴針の先。
施設で育てられた私は、自由を知らず、ただ命令に従って「模範的に育つ」ことを義務づけられた。
「ユリ」という名も、誰かの善意でつけられたのではなかった。管理しやすい個体識別のため、ラベルのように与えられたものだ。
だから、私は名を名乗ることが怖かった。
──名を持ってしまったら、自分が「存在している」と、認めることになるから。
そんな私の隣に座ったコハルは、最初から違っていた。
「ねぇ、名前……ほんとはなんていうの?」
彼女は、ささやくように聞いてきた。まるで壁を越えて、心に手を伸ばしてくるような声で。
「言ったら、罰を受ける」
私が短く答えると、コハルは微笑んだ。
「うん。でも、“誰か”として、ここにいたいから。わたし、名前で呼んでほしいの」
彼女の言葉は、風のようにやさしくて、けれどどこか痛かった。
⸻
教室では、機械的な授業が始まる。思考ではなく暗記。議論ではなく正答の記述。
教師は生身ではない。プロジェクターから映された仮想教官が淡々と問題を出し、即時に回答を求める。
「社会秩序の維持とは何か。25文字以内で答えよ」
私は答えない。代わりに、窓の外に視線を投げた。人工太陽の青白い光の下、閉じられた都市が広がっている。
「従順であること。反抗しないこと」
誰かの声が教室を満たす。
その瞬間、私は小さく吐息を漏らした。
──これが、正しいのか?
私の視界に、斜めからコハルの手元が映る。彼女は、提出ボタンに手をかけながら、ぎゅっと指を握りしめていた。
その目は、何かを堪えているようだった。
⸻
放課後。私はクラブ活動に参加せず、規則を破って校舎を出た。
誰にも見つからぬように、カメラの死角を通り抜け、裏口のセキュリティロックを解除する。
──向かう先は、廃棄ヤード。
その途中、誰かが私を呼んだ。
「ユリちゃん!」
振り返ると、コハルが立っていた。制服のスカートが風に揺れる。
「わたしも……ついていっていい?」
彼女の瞳はまっすぐだった。まるで、そこに理由はいらないと言わんばかりに。
私は、無言で頷いた。
もしかすると、その瞬間から、何かが動き出していたのかもしれない。
⸻
彼女は、なぜここへ来たのか。
なぜ、あの笑顔を手放さないのか。
後に知ることになる。
コハルもまた、名前を奪われ、過去を閉ざされた少女だったということを──