第13章:コハル/白い影、薄紅の距離
夜間点呼が終わった廊下は、銀色のラインライトだけが淡く延びている。
私はベッドに戻るふりをして、靴下のまま通気ダクト沿いを歩いた。
制服のポケットには、小さく折り畳んだメモ──ユリが走り書きした集合時刻と暗号がある。
23:40 旧医務棟裏
*ドローン巡回 Δ‐3 の後
“準備段階”に入った今、私は役割を与えられている。
〈感情値偽装〉――笑顔でカメラをごまかし、誰かの不在を覆い隠す仕事だ。
演技は得意だ。ずっとそうやって生き残ってきたから。だけど今日は、胸の奥で何かがざわついていた。
◆
旧医務棟裏に着くと、スクラップの影にユリとリキがいた。だが二人だけではない。
トウマも壁にもたれて端末を操作し、ナナセ教官は懐中ランプを逆手に持って見張り役をしていた。
――四人並ぶと、妙な違和感がある。
トウマがひそやかに端末コードを読み上げるたび、ナナセの視線が彼だけを追っている。
それは“監督者の眼差し”というより、“親が子を見守る光”に近かった。
「Δ‐3 の巡回は終わった。次は二分後に β‐1 が東廊下を横切る」
トウマが冷静に告げ、ユリが頷く。
その瞬間、ナナセが小さく息を呑むのを私は見逃さなかった。
……この二人、ただの教官と生徒じゃない。
脳裏に浮かぶ仮説に、心臓が跳ねた。
血のつながり。あり得ない? けれど、二人の立ち位置があまりにも自然だった。
親子なら――ユリたちを助ける理由も、隠してきた優しさも、全部つながる。
私はこっそりユリの袖を引き、耳元で囁く。
「ねえ、ユリちゃん。ナナセ先生とトウマくんって……」
ユリは一瞬だけ私を見て、静かに首を振った。
問いを封じる合図。でも、その瞳に拒絶はなかった。
“事実だけど、今は言わないで”――そう読めた。
◆
作業は順調に進んだ。
リキがスクラップから外した旧式ジャンクをトウマに手渡し、トウマが回路を組み替える。
ユリはケーブルを繋ぎながら、私に声を落とす。
「コハル、次に監視カメラを欺くの、お願い」
「うん。笑顔のテストは満点だよ。……ねえ、ユリちゃん。私、怖くないよ」
ほんとは、少しだけ怖い。けれど、それ以上に――
ここの空気が、好きだった。
壊れている私たちが、互いの欠けた部分を隠さず並べている。
ここだけは“正しさ”に縛られない。
◆
機材を収納して、全員が小さく息をついたときだった。
遠方にドローンのローター音が重なる。
「β‐1 が予定より一四秒早い」
トウマが顔を上げた。端末画面に赤い警告点が瞬く。
――計算外の揺らぎ。
リキが拳を握り、ユリが目を細める。
そのときナナセが、白衣のすそを払って前に出た。
「トウマ、端末を貸して。私が陽動する」
トウマの視線が揺れた。
他人には見せないわずかな逡巡。
それは“母の無茶”を止めたい子どものようで、胸がちくりと痛んだ。
「……先生」
「いいえ、“母親”よ。あなたの、ね」
彼女が言った。
この場の全員が息を呑む。
私は――やっぱり、と小さく胸の内で呟いた。
ナナセは振り向かず、白衣を翻してドローンの通路へ歩く。
「私が囮になる。戻れなかったら、構わず進みなさい。……それが、親の仕事だから」
トウマの唇が震え、言葉にならない音を漏らした。
けれど、ナナセはもう背を向けている。
「時間を稼ぐわ。子どもたち、行きなさい!」
白い影が角を曲がると同時に、ドローンの警戒音が遠くで跳ね上がった。
私たちは一瞬凍りついたが、ユリが拳を握って叫んだ。
「今だ、走るよ!」
トウマが最後に端末を抱え、リキが私の手をつかむ。
そして私たちは闇へ――穴の向こう側へ駆け出した。