第12章:ナナセ / ノイズと信号
夜間巡回の報告書に仮印を押し終えると、ナナセは深く椅子にもたれた。人工的な静寂が研究棟の空気を支配している。光合成を模した植物灯が葉を照らす室内は、まるで呼吸さえ禁止されたかのような緊張感に包まれていた。
「──来たわね」
部屋のドアを開けたのは、少しだけ息を弾ませたユリだった。
「足音、完全に消してたはずなんだけど」
「足音じゃなくて、間の取り方。扉の前で0.7秒、ためらったわね。癖になってる」
ユリは、薄く目を見開いた。
「……ほんと、そういうの、やめてほしい」
「ごめんなさい。職業病」
ナナセは笑いながら、机に肘をついて身を乗り出した。彼女の笑顔は、いつも冷たくて、どこか脆い。
「さて。今日の“無許可来室”の理由は?」
ユリは短く息を吐いて、廃棄ヤードで見つけた端末の話をした。どこかで脈打っていた古いシステム、そして仮想境界に“ヒビ”を入れられる可能性。
ナナセは無表情に話を聞いていたが、話が終わる頃には、手のひらに収まるデータパッドを握っていた。
「──甘い話ね。技術的には可能。でも、その前に立ちはだかるのは、制度と倫理と、何より“時間”よ」
「でも……それでも、やらなきゃいけない。ここにいたら、私、どんどん“正しさ”に染まって壊れちゃう。そうなる前に、逃げなきゃ」
ユリの声は震えていた。それは怯えではなく、怒りに近かった。静かに、しかし確かに自分を見失うことへの恐怖が、彼女を突き動かしていた。
「──ナナセ教官。私を止めないで。あなたが、ただの“教育者”じゃないって、もう知ってる」
ナナセの指が止まった。わずかに、心の中の何かがノイズを発した。
「……見抜かれてたのね。やっぱり、あなたは他の子たちとは違う」
ナナセは静かに立ち上がり、書棚の奥から一枚の古い記録メディアを取り出す。それは、ナナセ自身がかつて“脱走未遂”に関与した際に収集したデータの一部だった。
「私も昔、“逃げる側”だったの。けど、私は途中で折れた。現実と戦うより、制度の中で形を保つ方を選んだ。でも……あなたを見てると、少しだけ羨ましくなるのよ」
ユリは、教官が差し出したその記録を受け取りながら、小さく問いかけた。
「……私を、手伝ってくれますか?」
長い沈黙のあと、ナナセはゆっくりと頷いた。
「私は教官として失格よ。生徒を“破壊から守る”どころか、壊れる手伝いをしようとしてるんだから」
「それでも、信じてます。ナナセさんなら、って」
その言葉に、ナナセの胸が、かすかに熱を帯びた。
それは、失ったはずの理想の、亡霊だった。