居残り
中間テスト前だったような気がする。
記憶がぼんやりしているから定かではない。
確か放課後の自習室が初めてのはずであった。俺、不破京四郎と平塚すみれが話したのは。
平塚さんは普段教室ではふわふわした天然なのに、いまは真剣な顔でテーブルの上にある歪なケーキと向き合っていた。
平塚さんは俺に気がつくと、少し照れた顔をして舌を出す。そんな可愛らしい表情には騙されない。俺は女性には興味がない。感情がないからだ。
「へ? あはは……。ふ、不破君だっけ? あっ、先生にお願いして残って練習してるんだ。へへ、テストも近いしね」
平塚すみれは容姿が整った女子生徒だ。入学してから同じクラスではあるが、あまり近づかないようにしていた。
俺は中学の時に人間関係というものを学んだんだ。不用意に女子と話すと大変な事になる、と。
だから、俺はクラスではなるべく女子と距離を取っていた。
「わるい、ちょっと用事が……」
うちの高校は少し変わった学科がある。
俺と平塚さんの学科は製菓科と呼ばれるお菓子を学ぶところだ。
もちろん普通の高校の授業も行うが、主にパティシエになるための勉強をする。
中間テストでは製菓の技術テストもある。自習室は残って練習をするための場所。
「えー、こっちで一緒にやろうよ!!」
「いえ、邪魔になるから……」
多分俺は間違ってなかったはずだ。
人との距離が近くなると面倒な事が起こる。
確かに平塚さんは可愛い。少し話すだけでドキドキしている自分が嫌になる。
というよりも、さっきの真剣な顔はなんだ? 不意打ちすぎだろ?
くそっ……俺は中学でそういうのから卒業したんだ。
ふと、平塚さんのテーブルの上を見ると……、とんでもなく汚れていた……。
練習用のショートニングは飛び散り、何故かポテチも散乱している。ゴムベラもホイッパーもとっ散らかっていて、とんでもない状況であった。
見てて頭が痛くなった。
「あっ、これ見てよ! やっとうまく出来たんだよ!」
回転台の上に乗っているスポンジにクリームを塗る。それが中間テストの課題である。
平塚さんが俺に見せてくれたのは、ぐちゃぐちゃに塗られていたケーキの土台とは言い難い『何か』であった。
「……下手だな」
あまりの不器用さに思わず本音が出てしまう。
俺の言葉を聞いて少しだけしょんぼりした顔になる平塚さん。その顔はやめろ……、罪悪感が湧くだろ!?
「え……? あ、うん、私ね、下手だから練習してるんだ! 教室だとみんなと喋っちゃうから……。あっ、そうだ、不破君ってすごく器用だよね? 私に教えてよ」
「別に……普通だ……」
「ええー、すごくうまいよ!!」
多分、俺は平塚さんが苦手だったんだろうな。
平塚さんは教室でいつもふざけていて、真面目にお菓子に向き合ってないと思っていた。
さっきの真剣な顔が何度も頭によぎる。
(見た目で人を判断しちゃ駄目だな)
そんな事口に出して言えない。心の中で留めてしまう。
「うーん、お菓子って難しいね! ……あっ、絵里ちゃんからメッセージだ! ファミレス集合!? 行かなきゃ!」
ドタバタと片付けを始める平塚さん。それはとても片付けと言える代物ではない。あたふたしているだけであった。
仕方なく俺も手伝い事にした。
「あわわ、不破くんありがとね!! すっごく助かったよ! じゃあね!」
「あ、ああ」
俺に笑顔でサヨナラを告げる平塚さん……。俺は気恥ずかしくて顔を逸らす。
べ、別に気になるわけじゃない。女子に興味がないだけだ。
平塚さんがいなくなって、俺はほっと一息付いたと思った。が、何故か平塚さんはすぐに戻ってきて手を洗い始めた。
「あははっ、ショートニングまみれだったよ。中々落ちないんだよね……。よし、多分大丈夫」
洗い終わった平塚さんは自分の手を見つめていた。
ハンカチ持ってないのか? 俺は無言でハンカチを手渡す。思えば、俺はなぜハンカチを渡したんだろう? 手を拭く用のタオルならこの教室にあるじゃないか?
「わっ、ありがとーー! ……手、まだヌルヌルしてるのかな? ねえ不破君、どう?」
そういいながら俺の手を握ってきた!?
俺は状況を理解できなかった。
何が起きたんだ? これは一体……。しかもちゃんと洗えてないぞ! ぬ、ぬるぬるしている……。
「うん、大丈夫そうね! じゃあね!」
「あ、ああ……」
俺は平塚が走り去ってから、自分の手を見つめる。
……勘違いするな。女子と関わると不幸になる。ましてやリア充の平塚さんだ。
俺は自分の身体から湧き出る変な気持ちを、やり残した片付けに専念して鎮めるのであった。
大丈夫、俺には感情がない。
ちなみに片付けは三十分以上かかった……。
あっ、ハンカチ……返してもらってない……。
平塚さんは友達が多い。
少し天然気味でほんわかとしている彼女は誰とでも仲良く喋る。
(……そういえば、入学してから俺は挨拶したことがない)
別に気になっているわけではない。
ただ、そそっかしくて見ていられないのだ。
決して気になるわけじゃない。
平塚さんが登校すると、みんな和気あいあいと挨拶を交わしながら会話をしている。
男女問わず人気者だ。
俺はクラスメイトと一定の距離を保っている。
そうすれば嫌なことは起こらない。もちろん無視は駄目だ。相手に話に合わせて会話をする事は重要だ。
そんな事を考えていたら平塚さんと目があってしまった。見ていたことがバレる――
からかわれて馬鹿にされる。
「あっ、おっはよーー!! 元気!」
「ぐ……」
変な声しか出なかった。一応クラスメイトだからちゃんと挨拶をしないといけない。
逸した目を上にあげたら――
平塚さんは俺の横を通り過ぎて、後ろにいた女子友達に抱きついていた。
俺は上げそうになっていた手で自分の鼻をかく。
まぬけな自分が誰かに見られていないか心配だった。
……深呼吸をするんだ。いつもどおり距離を置けばいい。
俺はこの学校にお菓子の勉強をしに来たんだ。
そう言い聞かせると心が落ち着いてくる。
(多分、もう二度と平塚さんと関わることはない)
俺は一人授業の準備を始めるのであった。
その後も平塚さんと俺は目を合わすことはなかった。
(無視されてるのか……。クラスメイトとは楽しそうに話すのに……)
廊下でばったり会った時は「ひえ!?」と言いながら逃げられた。
教室でぶつかっても逃げられた。
俺の班に遊びに来ても、俺と話すことはない。妙に気まずい空気が流れる。
(別に気にしていない。俺と住む世界が違う子なんだから)
人間関係なんてこんなものだ。
俺は諦めている。
そんな事を考えならが、自習室の扉を開けると、一人でパイピング(絞り)の練習をしている平塚さんと目があった。
俺と目があった瞬間、真剣な表情から力が抜けてふわっとした顔になる。
俺は静かに扉を締めて踵を返そうとした。が、平塚さんが駆け寄ってきて扉をガンッと開け放った。
「あ、あ、あ、あのね、まってほしいかな……。な、なんで不破君は私の事無視するのかな? この前だって挨拶したら無視されたし、後ろの子が反応してくれたし! 恥ずかしかっただからね!」
俺は頭が混乱している。質問に答えられない。なぜなら距離が近すぎるからだ。俺の目の前には平塚さんの顔が間近にある。
か、身体がくっついているじゃないか……。
(や、やめてくれ……俺は女子なんて……)
「べ、別に無視してない」
「してるもん! だって、挨拶しても返ってこないもん!」
「そ、そんなつもりなかった。わ、わるい」
「うん、わかればいいのよ! あっ、でも不破君は怖く見えるから教室だと話しかけづらいのよね」
な、に? 俺が怖く見える?
そんな事はない。俺は草食動物の類だ。
「あ、あのさ、中間テストの実技が散々だったから……、パイピング教えてくれないかな?」
俺がそんな事をするわけない。
だってこの子はリア充で俺と住む世界が違う。
絶対面倒な事になる。中学の時みたいに嫌な気持ちになる。
「い、いいよ」
(俺は何を言ってるんだ!!!!!!!!)
俺がそういった瞬間、平塚は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔が俺の胸に突き刺さったような気がした……。
頭に思い浮かんだのは、初めて自習室で出会って、ケーキと向き合っていた時の平塚さんの真剣な顔。
俺はその顔がずっと忘れられなかった――