戦国時代でも造れる明治時代の兵器
大仰なタイトルだが何の事は無い。
幕末から明治初期にかけて日本が入手した青銅製の各種施条砲と褐色火薬、各種輜重車を再現しようと言う話。
施条砲はライフリングが手間だが、溝がまっすぐ彫られた銃が1498年に登場。
それだけでも射撃精度の向上が見られた。
四斤山砲の砲身はは現代のように歯車状に溝が彫られておらず、ナットのように断面が多角形で、戊辰戦争では原産国仏の教導を受けず精度が甘い物でも実戦に使えた。
最大射程は2.6㎞と大阪の陣で用いられたカルバリン砲(6.3㎞、2t)の4割程しかないが、有効射程は倍の1㎞を記録。
重量は218kgと1/9に過ぎなかった。
陸軍には1頭で牽引か2頭で分解、駄載可能な点が重宝されたのだろう。
褐色火薬は以前書いたので割愛するが、日本軍は自重71kg、積載量112kg、1〜2人で運ぶ輜重車を短期間運用。
積載量は江戸時代に登場した大八車やベカ車と等しい為自重も同じだろう。
1700年頃の大八車の価格が2両2分。
馬の1/11だった。
輜重車は212.5kgと大八車の倍近く載るが、輜重車制定後の輓馬の体格は145〜160cmと147cm以下の個体が多い現存する在来馬に該当する物は少ない。
明治時代に純血種が絶滅した南部馬の平均体高が145.4cm、南部馬のルーツで武田騎馬隊でも有名な甲斐馬も大型の物は150cmに達している。
南部馬の末裔である道産子は体高が〜135cmと低いが、最大60貫(225kg)駄載出来た。
江戸時代の馬の積載量が36貫(135kg)なので破格と言える。
馬への負担を考えると南部馬の近縁種が生息する東国、甲相駿三国同盟の成立で名馬を貰った東海の平野部及び主要街道以外では輜重車の導入は難しい。
ライバルである牛車は力が強く、二輪車で積載量800kgを誇るが牛歩戦術という言葉がある通り速度が2〜3km/hと馬の4.5km/hより遅い。
地域に応じた運用をすべきだろう。
参考サイト
牛車
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4020001502
wiki
グリボーバル・システム、ライット・システム、南部馬、甲斐の黒駒、輜重、大八車、ベカ車、ライフリング




